大人が本気で泣く、肝試し(6)
おやつタイムを終えた和ちゃんは、午後は檀家さん家に行くと告げ、袈裟を手に部屋を出た。
空いたグラスを持って後に続くと、彼も一緒に台所に入ってきた。グラスをシンクに置いた途端、待ち倦ねていたかのように背後からあたしを腕の中に閉じ込めた。背中から伝わる体温に、胸の奥が甘い溜め息を吐く。
「……和ちゃん?」
予感と期待にときめいているのに、一向にその先の動きがない。痺れを切らしたあたしが身を捩って振り向くと、自嘲気味な笑みを口の端に浮かべた。
「全く……己の煩悩の深さを思い知らされる」
彼が呟いた言葉の意味がよく解らなくて、あたしはジッと瞳を覗き込む。
「あたし、のせい?」
「いや――俺が未熟なだけだ」
真顔で答える彼の眼差しは、何故だろう――切なげだ。
「嘘。あたし、和ちゃんを困らせてるんじゃない?」
グッと力を入れて、爪先立ちをする。少しだけ、彼との距離が近付いた。
「……そうだな。梗子が魅力的過ぎて、離せないから、困っている」
やっぱり。優しい和ちゃんのことだ。あたしが何か迷惑をかけていたのに、我慢してくれていたんだ。困っていると白状した、今この時ですら、頬を緩めてあたしに微笑んでくれる。
「ねぇ、あたし、どうしたらいいの? 和ちゃんを困らせたくないよぅ」
悲しくなって、更に背伸びした。至近距離の彼は微笑みを消して、至極真面目にあたしを見詰めると、声を落とした。
「じゃあ、目を閉じてくれるか」
「うん!」
何だか分からないけれど、それで和ちゃんのためになるのなら――。あたしは、ギュッと目を閉じた。
「――んっ」
数分前に期待していた温もりが唇を覆い、驚いている内に、彼の大きな左手が後頭部を包み込んだ。腰と頭をしっかりと捕らえられた格好のまま、いつもより長い接吻を受ける。心地良い筈の彼の穏やかな磁場は、侵食するように熱く全身を貫いていく。身体から力が抜ける感覚に、あたしは夢中で彼にしがみついた。
「和、ちゃ……ん――」
唇が離れても、ふわふわして、独りで立っていられない。涙目になりながら、萌黄色の法衣に抱き付いた。
「すまない……大丈夫か」
どうしよう。胸のドキドキが止まらない。力強く右腕が抱き止めてくれている。一方で、左手は優しく優しく背中を撫でる。
「酷いよぅ。あたし、力が入んないよお」
「梗子があまりに可愛いくてな……つい。すまない」
彼の磁場は、いつものように心地好い穏やかさへと戻ったのに、耳の奥をくすぐる低い囁きは、妖術みたいに身体をとろかしていく。
「や……あたし、戻っちゃいそう……」
「構わん。元の姿も、俺は好きだぞ」
「馬鹿ぁ。和ちゃんの意地悪っ」
しがみついたまま、片手でポカポカ叩いてみたが、彼は余裕でクックッと喉の奥を震わせるだけだ。
何とか「梗子」を保っていられたものの、まだまだ修行が足りないことを実感した。こんなんじゃ、和ちゃんのお嫁さんになんてなれない。やっぱり、もっともっと妖力を高めなくっちゃ。
「……ね、まだあたし、和ちゃんを困らせてるのかな」
「ああ……困っているが、これは幸せな困り事だから、大丈夫だ」
幸せな困り事って、何だろう。彼の瞳をジッと見上げたけれど、あたしには分からなかった。
「梗子は、心配しなくていいんだ」
囁くとあたしの額に唇を落とし、優しく包み込んでくれた。目尻で堪えていたはずの滴がポロリと零れ、慌てて法衣に顔を埋める。たまばぁに刺された釘を忘れた訳じゃない。でも、この腕の中を知ってしまったあたしは――この腕を手離す術を知らない。愛しくて、大切な、あたしだけの場所。
――ピピピッ
「時間だ」
「……うん」
和ちゃんはギュッと強く力を込めてから、腕を解いた。レンジの代わりに水を差したスマホのアラームを止めると、あたしの頭をクシャリと撫でて、台所を去っていった。
彼が最後に力を込めた腕の感触が、いつまでも温かい。
大好きが――溢れて、止まんない。
ううん。そんな言葉じゃ、全然足りない。どうしよう。身体中が「好き」の気持ちで一杯になって、はち切れそう。
そっか……。
あたし、今、幸せだけど困ってる。
少しだけ、和ちゃんの言葉の意味が分かった気がした。
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和ちゃんを見送ってから離れに戻ると、優磨くんは大人しく宿題を再開していた。
お昼を過ぎていたので、ご飯を心配すると、彼はリュックから大きなおにぎりを取り出した。おヨネさんが持たせてくれたのだと言う。あたしが麦茶を入れてくると、おにぎりを食べ――その後も、彼はひたすら宿題をこなした。そして夕方になると、きちんとお礼を言って、帰っていった。
「さーて、と」
あたしは、うーんと伸びをして、読み終わった雑誌を本棚に片付けた。
今夜は小学校の体育館で、バイトさんの実技練習だ。全員で、人間とゾンビに化けるのである。
集合時間の夜8時まで、狐の姿に戻ると、あたしはソファーで丸くなった。
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後頭部から項、肩甲骨の間の背骨に沿って進み、ゆっくり腰に向かう。慈しむような、優しい温もり。
ウトウトとした微睡みの中で感じる。大きな掌が、あたしを――あたしの毛並みに触れている。
「……あ……れ? 尚ちゃん?」
「この姿、久しぶりに見たけど、やっぱり可愛いね」
眼鏡越しの瞳が細められ、頭を軽く撫でられる。
「え……? ひゃっ!」
あたしは慌てて「梗子」になる。小さい頃から狐の姿を知られているが、あたしももうお年頃だ。幾ら毛皮を纏っているとはいえ、乙女が裸体を見られたようなものである。
「もう7時半だけど、大丈夫?」
毛並みの色が残る髪の毛をクシャクシャと撫でて、彼は衝撃的な言葉を発した。
「えええっ! 大変、あたし出かけるねぇ!」
「慌ただしいなあ」
「尚ちゃん。起こしてくれて、ありがとー!」
苦笑いしている彼にパッと短く抱きついてから、離れを飛び出した。庭の夏虫が瞬時に沈黙する。
花弁の形を膨らませた黄色い月明かりの下、田舎道をパタパタ小学校へ駆けていく。響き渡る蛙達のラプソディーに包まれながら。