大人が本気で泣く、肝試し(5)
おヨネさんのお使いから2日後の10時過ぎ、優磨くんは再びやって来た。水色のTシャツと黒いハーフパンツに、緑のリュックを背負っている。
「本堂は法事で使ってるから、こっち回ってくれる?」
玄関から一度外に出てもらい、庭から離れに通す。縁側の手前で、彼は困り顔を見せた。
「あの、ご迷惑でしたら」
「やー、大丈夫、大丈夫。気にしないで上がってー」
手招きすると、縁側に腰かけて靴を脱ぎ、優磨くんはちゃぶ台に着いた。
「梗子さん、ここで宿題してもいいですか?」
「うん? いいよぉ」
宿題なら、当然おヨネさん家でも出来るはずだ。わざわざ清行寺に来るのは、きっと何か理由があるのだろう。でも、彼が言わないのなら、訊くこともないかな、とあたしは思う。
「カルピスあるの。飲むでしょー」
優磨くんが「また来たい」と言ってたことを話すと、尚ちゃんが買って来てくれたのだ。
彼曰く、夏の田舎の味はカルピスなんだそうだ。
「ありがとうございます」
「うーん、固いなあ」
あたしは思わず小さな頭をクシャッと撫でた。突然のスキンシップに、彼の身体が固まった。こちらを見上げる大きな瞳が、更に見開かれている。
「だぁれも見てないんだから、もぉっとノビノビしていいよぉ」
笑顔を残して、あたしは部屋を出る。
みころ村の子ども達は、いつでもわあわあ騒がしい。あたしは色んな土地を回るから、都会の子ども達も知らない訳じゃない。都会の子どもは確かに大人びているけれど、大人の目が届かない所では、やっぱり幼くてワガママで、純粋だ。
「はーい、カルピス。お代わり欲しかったら、遠慮しないでねぇ」
台所から戻ると、優磨くんはちょっと俯いていた。だから、もう一度クシャクシャッと頭を撫でる。今度は強張らず、彼は両手で乱れた髪を直している。
「……梗子さん」
「ね、あたし、ここにいるけど、気が散らない?」
ちゃぶ台より少し離れたソファーに身を沈める。よく和ちゃんが座っているこの場所は、あたしのお気に入りだ。彼の香りや気配が染み付いていて、彼自身がいなくても腕の中に包まれている感覚になる。
「えっ……はい」
「良かったぁ。じゃ、宿題頑張ってー」
ヒラヒラと手を振って、ソファーの上に数冊積んだ雑誌に手を伸ばす。これは尚ちゃんが用意した、肝試しの資料だ。流行りのデートスポットの特集とか、納涼特集が載っている。
今時の肝試しは、「ミッション遂行」「リアル脱出」がキーワードらしい。つまり、肝試しのテーマに沿ってミッションが課せられていて、これをクリアしなければ終えることができない、というものだ。更にスリリングな肝試しとしては、所謂迷宮もので、制限時間内に脱出しなければならないらしい。両者を組み合わせた難易度の高いアトラクションもある。
なるほどねぇ……。これは大いに参考にさせていただくことにしましょう。
膝を抱えた姿勢で、ソファーにコロンと身体を預ける。「心霊特集」と赤い文字が踊るページ越しに、小さな背中が目に入った。一生懸命にちゃぶ台に向かっている。
昔――和ちゃんや尚ちゃんも、ここで勉強していたっけ。
『ねぇねぇ、和ちゃん。これ、日本語ぉ?』
まだ幼狐だったあたしは、見慣れない記号をスラスラ綴っていく彼の指先を、目を丸くして見詰めていた。まるで妖術の呪文みたいな、不思議な記号は「アルファベット」という外国の文字なんだと教えられた。
『KYO・U・KO、梗子の名前だ』
『あたしの名前!』
和ちゃんがノートに記してくれた6個の文字が嬉しくて、あたしはちゃぶ台の周りをピョンピョン跳ねた。
あの頃はまだ尻尾が1本だったから、上手く化けられなくて、耳も尻尾も丸出しだった。それでも人語を解する妖孤のあたしを、清水家の人達は恐れることなく可愛がってくれた。
思えば――あたしが簡単な読み書きができるのも、2人に教わったからで、全国を旅する今となっては本当に感謝している。
「梗子、居るか? おっ」
襖が開いて、萌黄色の法衣に七条袈裟を着けた和ちゃんが現れた。うーん、格好いいなあ。
彼の視線は、ちゃぶ台の小さなお客さんに向けられる。
「あっ、お邪魔しています」
優磨くんはピョコンと頭を下げた。
「ああ。山内さんのお孫さんだったな。先日は、ご馳走さま」
「いえ」
「法事終わったの、和ちゃん」
ソファーの上から雑誌を避けて床に置く。彼は当然のように空いたスペースに腰を下ろし、思い出したように懐に手を入れた。
「まぁな。これ食うか」
上げ物のお裾分けだろうか――ポロポロと5、6個取り出した丸いものを、あたしに渡した。
「わ、お饅頭。ありがとー。お茶入れよっか?」
「梗子」
立ち上がったあたしの手首を掴む。
「俺も、アレにしてくれ」
和ちゃんの視線の先には、ちゃぶ台の上の「夏の田舎の味」。
「はぁい」
あたしは笑顔で台所へ向かった。
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カルピスを持って戻ると、和ちゃんはソファーにいなかった。
「だから、これが90度だろ? この半分は?」
「……えっと、45度?」
ソファーの背もたれに袈裟を掛け、和ちゃんはちゃぶ台で優磨くんに並んでいた。
「そうだ。45度が2つに、90度。全部足すといくつだ?」
「ひゃく……180度」
「そうだ。どんな三角形でも、内角の和は180度なんだ。分かったな?」
「はい」
「よし。じゃ、次のページの計算を――梗子」
邪魔しちゃいけない、というよりは、微笑ましい光景に見とれてしまった。
「あっ、ごめんごめん」
「計算は後だ。休憩するぞ」
和ちゃんはカルピスを受け取ると、あたしもちゃぶ台に呼んだ。
「懐かしい味だな」
「尚ちゃんが『夏の田舎の味』だって」
もう一口グラスを傾けると、彼はククッと喉の奥で笑った。
「和ちゃん?」
「俺達が――そうだな、優磨ぐらいの歳だったか……母さんが町の病院に入院することになってな、夏休みを祖母の家で過ごすことになったんだ」
あたしが2人と出会う前の話だ。へぇ、と身を乗り出すと、彼はチラリとこちらを見た。
「この村も十分田舎だが、祖母の家ってのは北の山奥でな。周りは畑ばかりで。子どもが喜ぶような遊び場も無けりゃ、店も何にも無いんだ」
饅頭を包む透明なラップを丁寧に剥きながら続ける彼の昔語りに、あたしも優磨くんも聞き入っている。
「俺達は、世話をかけることが分かっていたから、不満は口にしなかったが、不安は顔に出ていたんだろう。祖母――ばあさんも、俺達が望んで遊びに来たって事情じゃないことを知っている。不憫に思ったんだろうな」
和ちゃんが手にしたグラスの中で、氷がカランと音を立てた。
「座敷のちゃぶ台の前で小さくなっていた俺達に、ばあさんはカルピスを出してくれた。子どもが喜ぶと――年寄りなりに気を遣ってくれたんだろう」
甘い飲み物など無縁の年寄りの家に、カルピスなんてハイカラなものがある筈がない。おばあちゃんは、孫達が来る前に、準備してくれていたんだ。
「あれから何度も口にしたが、あの時の味は格別だったな」
勘のいい2人のことだ。心細さを和らげてくれたおばあちゃんのカルピスに、きっと深く感謝したに違いない。「夏の田舎の味」の真相に、胸の中が温かくなる。
隣で饅頭を頬張っている横顔を、あたしは愛しく眺めた。