大人が本気で泣く、肝試し(1)
『次は、終点――みころ村。終点、みころ村です』
若い女性のテープの声で、停留所が近づいたことが告げられる。少なくとも15年前から、この声は変わらない。
1日5本しか走らない、超ローカル線のバス。いつ廃止になっても可笑しくない赤字路線だが、これでも10年前の鉄道廃止後に残された、村の内外を結ぶ唯一の公共機関だ。
乗客は私だけかと思ったが、一番前のドア側の席に、大きな緑色のリュックを抱えた小学生くらいの男の子がいる。約2時間前に始発の駅前ターミナルから乗った少年は、最初の30分くらいは建物が減って人家が疎らになっていく田舎の景色を物珍しそうに見ていた。だが、程なく代わり映えのなくなった車窓――畑と緩いアップダウンを繰り返す山道――に飽き、座席に身を沈めてしまった。
終点を告げるアナウンスで目を覚ました彼は、慌てたように窓に貼り付くと、寂寞とした夕焼け空を見回した。道路を挟む山々は、既に影絵のようにシルエットに沈んでいる。その目は、異界に拐われたかのように不安に満ちている。
『終点、みころ村。みころ村です。どなた様もお忘れ物のないよう、お気をつけください』
バスが停車し、ドアが開いたからには、降りなくてはならない。
「ありがとう、ございました……」
「はい、ありがとうございました。お気をつけて」
乗車時の弾んだ足取りはどこへやら、トボトボ重い足を引きずるようにして、村役場前のバス停に降りた。
最終便は、19時半着。昼間の暑さと鮮やかな残照に騙されてしまいがちだが、夏至を過ぎた7月下旬は、少しずつ宵が早くなり始めている。
「君、お迎えは来るの?」
街灯の疎らな道を、キョロキョロと心細気に眺めている少年に、驚かさないよう静かに声かける。
「わあああぁ?!」
それでも、彼は虫の声を黙らすには十分な驚声を上げた。
「ごめん、ごめん、驚かすつもりはなかったんだけど」
「――お……おねぇさん、どこから現れたの……」
「さっきのバスに乗ってたよー。君、どこの家に行くの?」
動揺が収まってくると、少年はリュックを背負い直し、小さく一礼した。
「ぼ、僕、楠野優磨です。おばあちゃんが、山内って言います」
「山内……あ、おヨネさん家の子かあ」
礼儀正しさは、都会っ子だからなのか。黄色いTシャツと紺色の短パンから覗く四肢は、ネギのように白い。小学4年生の優磨君は、夏休みを機に「初めての一人旅」で祖母宅を訪ねて来たのだそうだ。
「ちょっと待ってて」
バス停のベンチに優磨君を座らせると、あたしはショルダーバッグからスマホを取り出して、短くメッセージを送る。
「今、迎えがくるから、送って行くね」
スマホをしまい、彼の隣にストンと座る。黒い山の稜線の上に、明るい星が光っている。一番星、いや宵の明星だろうか。
「えっ、でも」
「大丈夫。誠一郎おじさんが来ることになってたんでしょ? 何か寄り合いが長引いて、遅れてるらしいよ」
「おねぇさん……スマホで聞いたの?」
隣の小さな瞳が丸くなり、素直な疑問で見上げている。
「えっ? ええ、そうそう!」
あ、まずい。ちょっと喋り過ぎたかな。あたしは慌てて、優磨君の仮説に乗っかった。
その時、役場の駐車場からヘッドライトが現れ、夜の帳を蹴散らした。
「梗子ー」
太いタイヤのランドクルーザー。舗装されていない砂利道や山道の獣道にも対応できるようにと、選ばれた1台だ。
「尚ちゃん、ありがとー」
ヘッドライトの中で大きく手を振ると、明かりを落とした車の運転席から、眼鏡をかけた面長の男性が降りて来た。水色の半袖Yシャツにグレーのスラックス。ネクタイをしていないのは、クールビズか。
「この子、優磨君。ヨネさん家に行くんだって。この人、清水課長。役場の人だから、安心して」
あたしの隣で畏まっている小さな来村者を紹介し、引き渡す。
「楠野優磨です。ありがとうございます」
「おお、躾られてんなあ。遠慮なく乗って」
助手席のドアを開けて少年を乗せると、尚ちゃん――清水尚樹は振り向いた。ふわふわの癖毛が夜風に揺れる。
「じゃ、頼むね」
「梗子は」
「歩きたい気分。色々挨拶もあるし」
尚ちゃんは微笑むと、あたしの横の真っ赤なスーツケースに視線を向けた。
「荷物、運んでおこうか」
相変わらず、この人は優しい。
「ううん、いい。お土産入ってるから」
「りょーかい」
ランドクルーザーを笑顔で見送ると、あたしは大きく深呼吸をした。
ああ、夏だ。みころ村の香りがする。
カタ……カタカタッ
スーツケースの中から小さな音が鳴った。お土産達が窮屈だと呟いている。
「はいはい、あとちょっとで着くわよー」
囁いて、スーツケースをトントンと叩く。鎮まったことを確認してから、あたしは持ち手を掴んで歩き出した。
宵の明星が消えた稜線の延長上から、歪んだ月が顔を覗かせていた。
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旧知の長老の元を幾つか訪ね、目的地に着いた頃には、月が天頂付近まで昇っていた。
「和ちゃーん、尚ちゃーん、起きてるー?」
門を潜り、玄関には行かず建物に沿って庭を回ると、離れの縁側に声をかける。
「あ、帰ってきた」
縁側の襖がスッと開き、尚ちゃんが微笑んだ。YシャツはグレーのTシャツに、スラックスは黒いハーフパンツに着替えている。縁側の上から手を伸ばしてくれたので、素直にスーツケースを預ける。踵の低いサンダルを石の上に脱ぎ、ピョンと室内に上がったあたしは、尚ちゃんの背中に抱き付いた。
「ありがとー、さっきも助かったぁ」
彼はあたしの頭をくしゃくしゃっと撫でる。全身に温かなエネルギーが駆け巡る。ああ、心地良いなあ。
「お帰り、梗子」
背後から、落ち着いた低い声があたしを呼ぶ。
振り向くと、切れ長のくっきりと美しい二重瞼の男性が、部屋のソファーで寛いでいた。仕事着の作務衣ではなく、藍染の浴衣姿が涼しげだ。
「やーん、和ちゃん、久しぶりぃー!」
和ちゃんこと清水和臣に飛び付いて、あたしはスベスベのスキンヘッドを抱き締める。
「こら、暑苦しい」
和ちゃんは、じゃれつく猫をあしらうようにあたしを剥がす。
「だってー、和ちゃんの磁場が一番気持ちいいんだもん」
なおもペタリと引っ付いていると、プン……と良い香りが鼻をついた。
「疲れただろ、梗子。冷やしうどん食べるか?」
「わ、食べる、食べる! 尚ちゃん大好き」
いつの間にかちゃぶ台の上に、ガラスの器とツユの徳利が乗っている。たっぷりのネギと特大の油揚げが乗った冷やしうどん、あたしの大好物だ!
「長老達は、息災だったか」
ぞぞぞっ、とうどんを啜っていると、ソファーから静かに問いかけてくる。
「うんっ! ……ぞぞぞっ……今年も……ぞぞっ……バイトさん、揃えて……ぞぞぞっ……くれる、って」
「こら、喋るか食べるかどっちかにしろ」
「えー……ぞぞぞっ……訊いてきたの、和ちゃんじゃん」
モチモチのうどんを頬張りながら、上目遣いで睨むが、和ちゃんは意に介さない。
「梗子、今年はゾンビを出そうって企画あるんだけど、いけそうかい?」
すかさず、ちゃぶ台の向かいの尚ちゃんがあたしの気を拐う。
「……ぞぞぞっ……ゾンビぃ?」
「シゲさんが、ネット検索したら流行ってるって」
シゲさんは、定年退職後に覚えたPC操作とインターネットにハマり、齢70になった今も日課のネットサーフィンを欠かさない。そして毎年のように、彼が言うところの「流行り」を取り入れた斬新な企画書を提出するのだった。
「純和風のうちの村で、ゾンビだと?」
怪訝な表情で、憮然とした声が上がる。
「まーたー、硬いこと言うなよ、和」
「……いいよ、あたしがバイトさんを特訓するんだから」
うどんを平らげたあたしは、半分かじった油揚げをツユに浸す。
「いやー、頼りになります、梗子さん」
「全く。梗子は、尚に甘いな」
ちょっと大袈裟に頭を下げる尚ちゃんと、不機嫌そうにしながらも満更でない和ちゃん。
なんのかんの言って、この兄弟は仲がいい。
「ふふ。ちゃんと資料用意してよぉ。皆で見るんだから」
特大の油揚げを飲み込むと、あたしは笑顔で答えた。