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白魔4  作者: 星水晶
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前編

どうか「白魔3」を先に読んでください。

 生まれたのはごく普通の家だった。普通の両親に普通の家。生きていくのにはなんの不足もない。ただ、月の光に濡れたように輝く銀の体毛を持ち、永久氷河の裂け目のような蒼い目を持って生れてきてしまった、というだけだ。

 雪狼氏族の間に歌われる英雄伝説。その主人公と、たまたま同じ外見だというだけだ。それなのに、周囲は彼を英雄視した。疾く強い脚も、鋭敏な耳も、遠くを見はるかし、動くものを逃さない目も、多くの臭跡を嗅ぎ分ける鼻も、強靭なバネを秘めたしなやかな筋肉も、鋭い牙も、容赦なく敵を屠る闘志も、冷静な知能も、圧倒的な魔力すらすべて。キルンと名付けられた子どもが生まれつき持っていて当然の賜物とみなされた。そこには子どもの努力など何も認められなかった。

 無言の期待による重圧は、子どもの心を歪めていった。それを両親も周囲の大人も、同年代の子どもたちも気づかなかった。ただ、長老のみは子どもの先行きを案じた。子ども自身は自分が歪んでいく自覚をもって、周囲の全てに救いと理解を求めるのを拒否して育った。誰も信じてはいない。信じられるのは自分だけ。誰もかれも、彼に助力を求めて当然と思っている。彼が自分たちより強いから。でも誰も助けない。助けてやるいわれもない。

 生きとし生けるものすべて、まずは己の足で立ち、己の手で糧を得なくてはならないのだから。野生とはなべてそうした存在。

 生存を他者に委ねるのは、乳飲み子の時代だけで十分だろう。

 親には親として子を庇護する務めがある。種族存続のためには、それが理。

 だが見よ。野の獣、空の鳥、地にはうもの、水に棲まうものみな、子は成長のギリギリの時点で巣立つことを余儀なくされる。巣立てぬものは弱者として自ら滅びる。それこそが淘汰というのだ。淘汰に耐えず共倒れになることを「愛」という名で覆い隠す。「愛」笑わせてくれる。


 雪狼氏族の子どもの巣立ちは、おおむねその誕生から五、六年後だ。その年の夏の集会で、両親から離れて守役の手に渡される。その後三年を経て、氏族の見守る中長老から正式に問われる。


守役を伴侶に選ぶかどうか


 キルンは成長の早い子どもだったし、周囲の期待も大きかった。それに影響されたのか、両親も何となく、自分の子どもは早くに巣立ちする、と思いこんでいたらしい。生まれて四年たった夏に集会に出ようとした。それを止めたのは長老だった。長老は両親をきつくたしなめた。


 どれほど親勝りで優秀な子どもであろうとも、子どもの時間を奪ってはいけない、と。


 キルンは蔭で鼻で笑ったのだが、両親は神妙に頭をたれた。

 結局、両親は自分を持てあましているだけなのだ。英雄の生まれ変わり、世代の頂点を担うもの、神に嘉された特別な存在。そういう親勝りの子をなした誇りと、面はゆさと、同じくらいの困惑。自分たちはごく普通の雪狼氏族の夫婦なのに、という。

 だから何?そんなのは偶然の産物。彼らの手柄でも努力でもないし、もちろん罪でもない。純然としたただの巡り合わせに一喜一憂する親たちの方が心得違いをしている。残念ながら、キルン自身の功罪でもないのだけれど。

 こうして親子の間には厚い壁ができた。そう、早い時点で子どもは子どもでいることをやめてしまった。


 雪狼氏族の掟。特に守役と預かり子の制度は、キルンには馬鹿馬鹿しく思えた。自分はおそらく守役なしでも十分に巣立ちができるだろう。わずらわしい守役など不要。だが、氏族の中で生きていくことを選ぶなら、くだらない掟にも従わなくてはならない。そう形だけ。

 キルンは多くの候補者の中から適当に守役を選び、三年の間守役を従えて自由に闊歩した。もちろん、伴侶になど選ばなかった。

 青年期のキルンはいっそう自由になった。

 氏族の誰も足を踏み入れないほどの山頂を踏破し、遠くの山々へ足をのばし、山の気を吸い、星の巡りを読み、生き物の声に耳を澄ませ、木々草々の生成に目をこらした。キルンはキルンだけの王国の玉座に座っていた。氏族を率いる重鎮になるつもりは毛頭ない。自分は自分だけを主として生きていく。


 その自由な日々に横槍を入れてくれたのが、長老だ。氏族の一員なら掟に従わなければならない、と、キルンを捕まえて説教をくれた。昔キルンの両親にしたように。あの頃はまだ子どもだったが、今はキルンの方が長老よりずっと体も大きく、力も強い。説教を無視して氏族から出奔し、山々をへめぐって独りで生きていくことなど、容易にできる。まあ、それはいつでも、今すぐでなくともできるのだ。

 長老の説教はわかっている。夏の集会に参加して、守役となれと言っているのだ。それが雪狼氏族の一員としての務めであり、神の坐す雪山に生かされている身の義務なのだと。キルン自身は氏族になにひとつ負債を負っていないというのに。

 未熟で甘やかされた幼児の世話。三年親代わりにちやほやして、その挙句伴侶に選ばれようものなら、一生の重荷を負う羽目になるのだ。冗談じゃない。キルンは絶対に自由を勝ち取るつもりだ。どこの「イヌのホネ」ともわからないチビなどにしがみつかれてたまるものか。

 守役を勤めあげれば氏族の中で一人前の扱いとなる。今はまだ、どれほどキルンがすぐれていても半人前の扱いだ。実力ではキルンにはるかに及ばない大人たちの、メンツだけを根拠にしている見下した態度にも、あと足で砂をかけてやれる。

 いいだろう。望みの通りにしてやる。三年という時間をくれてやるのだ。長老にも、氏族にも、これは「貸し」だ。そしてなによりも、そのチビに身の程を思い知らせてやる。


 夏の集会にはそれこそうじゃうじゃと氏族の者があふれていた。中央には子ども連れの夫婦だ。大柄なもの、チビなものとりどりだが、毛並の色はおおむね白。どれも大差ない。つまりはどれでも同じということだ。キルンは気乗りのしない様子で、野原の端から氏族をながめていた。

 氏族の重鎮たちが用意したごちそうを食べながら、顔見知りと話をしたり、新しい噂を仕入れたり、成人たちはそれなりに楽しくやっているようだ。中には口説いてでもいるような者も見られる。伴侶を求める者だろう。守役に名乗りを上げた者たちは、子ども連れの間を歩き回って、互いに品定めをしたりされたりしている。まあ、これが一番の目的なのだから、当然だろう。


「そんな怖い目をしていると、預かり子が寄り付きませんよ」


 ふと横から木桃を差し出されて、キルンは声の方を向いた。

 哀しげにも見える柔らかな若葉色の眼をした青年だった。


「自分で望んで来たわけじゃなし。俺はそれでもぜんぜんかまわない」


 キルンはぶっきらぼうに答えた。それでも木桃は受け取る。差し出された食べ物は好意の証。よほどのことがない限り断ることは礼を失する。


「キルンでしょう、君。銀色の毛並でわかった」


 緑の目の青年はにっこりした。キルンが不愛想でもちっとも気を悪くした様子がない。


「君って有名ですからね。僕は、ソーマっていいます」


 緑の目のソーマ。そいつは知っている。噂話にうといキルンの耳にも二年前の事件のことは入って来ていた。

 ソーマは伴侶になるつもりの相手を失ったのだ。

 それは、おんな子どもの好みそうな、涙ながらの物語だ。


 幼馴染の子ども同士が、将来は伴侶になろうと約束する。幼い軽はずみな約束だ。年かさの子どもは約束を守って、自分の守役に「伴侶には望まない」と告げる。年下の子どもの方も約束どおり、そうするはずだった。年の近い同士が互いを伴侶に選ぶためには、預かり子の時に守役を伴侶にせず、守役の時には伴侶に選ばれず、独り身のまま成年期を迎えるしかない。

 ところが、年下の子どもは最後の年に大きな事件にあう。

 本来、雪狼氏族は雪山の食物連鎖の頂点に位する。他の鳥獣から捕食される対象ではないのだ。ただひとつ、人間を除いて。人間という平地の住人は、徒党を組み武装して、山中に雪狼を狩りに来ることがある。雪狼の毛皮は珍重されているのだ。氏族の者が巻き込まれることはごくまれだが、雪狼と誤認されて狙われること自体はさほど珍しいことではない。

その時、預かり子は人間を初めて見たのだ。ただの好奇心。子どもは雪狼の姿のままうかつにも人間に近づきすぎた。警戒すべき者であることは知らされていたのに、慢心を起こし好奇心に負けた。人間は子どもに気づいて狩った。矢を射かけられ、四方から追い込まれた。そこへ危機を知った守役が飛び込んで、子どもを咥えて逃走した。矢ぶすまをかいくぐって森をめざして山を駆け上がる。その一歩手前で、人間の矢は守役の腰に刺さった。二人は森に飛び込んで人間からは逃れることができたが、矢の毒で守役の片足は麻痺してしまった。

 子どもがどれほど自分の軽率さを悔やんでも、あとの祭だった。

 子どもは、自分のために足が不自由になった守役を伴侶に望んだ。守役が何度も拒否したにもかかわらず、掟は預かり子の意志を優先する。


「一生あなたの足になる」


 幼い約束はこうして反古となった。やむをえないないことだ、と周囲は噂した。誰が悪いのでもない。預かり子はすべきことをしたのだ、と。

 だが、緑の目のソーマは将来を誓った恋人を失った。


 ソーマは目を細めて広場を眺めた。その視線の先に、一組の若い夫婦がいる。不自由な足をかばって横ずわりする夫と、それを支え、なにくれとなく世話するかいがいしい妻。木の皮の上においしそうな食べ物を盛って、夫に勧めているようだ。夫の顔が妻への愛にとけそうに見える。ソーマの緑の目の奥には密やかな痛みがゆらめくようだった。


「ソーマは守役になるのか」


 キルンがぼそりと声をかけると、ソーマは視線をそのままに、ほほえんだ。


「僕でいいと言ってくれる子がいれば」


「運命の相手なんて、思い込みなだけだ」


「おや、キルンは運命を信じてないのかな」

「運命の伴侶は天の配剤。僕たちはそうじゃなかった、ということでしょう」


 ソーマは体ごとキルンに向き直って、まっすぐその緑の目を向けた。


「あの子を、フィーネを諦めるのに、時間がかかった。納得して、あの子の選択を祝福できるようになるまで、二年もかかってしまった。あの子とその伴侶に、僕の存在が陰りとならないように、僕は守役になる。僕を選んでくれる預かり子がいるなら、よろこんで」


「フィーネが彼を選ばず、僕との約束を優先していたら、彼女はずっと罪の意識からのがれられず、僕たちは全き伴侶とは、なれなかったでしょう。今はそれがよくわかる」

「幸せになってほしいのです」


 ソーマは視線をもどすとほほえんだ。


「ねえ、キルン。天は、僕たちを見てくださる。『負えない重荷を負わせることはない』という古いことわざは、真理なんだと思うんですよ」


「そう思い込んで救われるなら、そうすれば」


 キルンは苦々しい口調で言い捨てた。

 天の意志とか運命とか、どう呼ぼうと、自分自身以外のものに自分の生き方を丸投げにすることにほかならない。そんな生き方をしたいなら、したい者だけがすればいい。キルンはごめんだった。


 集会も進み、あちこちで守役が決まっていく子どもが出てきた。歓声や祝福の声が飛び交う。ソーマはあれから集会の中に入って行った。広場の端に残ったキルンは、あいかわらずぼんやりと集会を眺めていた。どの子どもでも同じ。守役と決まっても、伴侶に選ばれないようにするだけだ。できれば、察しの悪い鈍い子どもでないほうがいいかな、くらいは思っていると、長老が通りかかってキルンを手招いた。長老の後ろにはソーマがいた。


「守役の決まらない子どもがいるのじゃで、二人に会ってもらおうかの」


 そうして連れていかれたのは、広場の別の隅。父親は白毛だが、母親は珍しいクリーム色の夫婦だった。その間にいた子どもは、たいへん小さかった。そして灰色だった。

 周囲の氏族から敬遠されているらしいその家族は、肩身の狭い様子で寄り添っていた。夫婦は視線をそらしてうつむいていたが、灰色の子どもはしっかり目を上げて氏族を見ていた。たまたま目があった者がかえって目をそらすほど、しっかりとした視線だった。

 長老はにこにこと子どもの頭をなでた。


「ルーネはよい子じゃのう」


 おそらく氏族の誰もが、この子どもの守役になろうとはしなかったのだろう。子どもが集会に出るということは、親が子どもを手放す時が来たと判断したこと。そして、集会で誰も守役になり手がない場合、子どもは二度と親もとに戻ることができず、雪山の奥に置き去りにされる。もちろん子どもは生き延びられはしない。これを「お山返し」と呼ぶ。事実上の子捨てである。


「ルーネはこの二人のどちらと暮らしたいかな」

「ルーネは体はちいさくとも、とても賢い子だから、強い守役が必要なのじゃ」


 なるほど、お山返しになる子が出るような事態は、氏族としては避けたいところだ。そこで、訳ありのキルンとソーマのどちらかに、この灰色のチビを押しつける気らしい。

 たしかに、その辺の甘やかされたチビとは、いくらか胆のすわりが違うようだ。

 長老の声に押されて、両親がどきまぎと視線をさまよわせるのに比べ、子ども自身は静かにキルンとソーマを見比べている。何を見ている?

 ソーマがそっと体をかがめて、子どもの目線にあわせた。弱い者を庇おうとする姿勢だ。ソーマは哀しげなほほえみを浮かべた。ところが、灰色のチビは目を伏せてしまった。馬鹿か、こいつは。このままでは「お山返し」になるというのに。優しい救いの手がわからないとでもいうのか。

 馬鹿では話にならない、とキルンは力を抜いた。

 こいつがまともな子どもなら、今ここで二人のどちらかを選ばなければ先がないとわかるはずだ。現に両親はわかっている。半ばあきらめていたのが、ここで最後のチャンスが来ていると。そうだ、ソーマを選べばいい。ソーマなら伴侶にだってなってくれるかもしれない。


 灰色の前肢はキルンをさしていた。

 キルンはうなり声をかみ殺した。馬鹿だった、こいつは。とんでもない馬鹿だった。そして心に誓った。絶対にこのチビがキルンを伴侶に望む気などみじんも起きないようにしてやろう、と。


 灰色の子どもは、キルンの予想に反して、厳しい指導にも食いついてきた。甘えたり、なれなれしく媚びたり、泣き言を言ったり、機嫌をとったりすることは一切許さないキルンにも、子どもがそういう態度を取ったとは言えなかった。それならそれでいい。二年が過ぎた頃キルンはそう思うようになっていた。キルンが決めた守役と預かり子のルールは、灰色の子がひとりで生きていくのに役に立つことだろう。自分のことは自分でする。できないことは望まない。

 大切なのは生きるための知識であり、技術であり、判断力だ。そして、初めてのことに遭遇した時でも、最善に近いものを選択できるよう考えることだ。それらをすべて断行する意志の力、生きる覚悟が、最後にはものをいう。

 自分だけの寝部屋で、小さくまるまって毛布にくるまる灰色の子どもの寝顔を、起こさないように覗き込みながら、キルンは心の中でつぶやく。


「チビ、生き物はみんな孤独だ。それでいいんだ、お前も俺も」


 毛色など、本人にはどうしようもないことで、持ち上げたり忌避したり、冗談じゃない。雪狼氏族の中でも雪山に暮らす彼らは、かなり古い集団であり、古風でかたくなな習慣にとらわれている。もっと南や東に行ったところに住んでいる氏族は、ほかの生き物と棲息域を混じらせながら、柔軟に暮らしていると、旅人に聞いた。そういう土地に行ってみるのもいいかもしれない。あるいはあてどなく世界を見て歩くとか。

 このチビも、氏族の掟にがんじがらめになっている今より、ずっと楽に生きていけるんじゃないか。文字通りの「一匹狼」でも、そのどこが悪いと言えるだろう。いつしか、キルンには灰色の預かり子が同志のように思えていたのだが、本人は自分の気持ちの変化に気づくことはなかった。氏族の中でも年頃の近い親しい者には、あいかわらず「厄介者の荷物」という扱いで口に出していたのだから。


 灰色の預かり子と暮らした最後の冬、あの朝の異様な静寂と圧力は一生忘れることはできないだろう。雪山は恐ろしい面を剝き出しにして、山に暮らす多くの命をいともあっさりと呑み込んだ。雪狼氏族の者も幾人も倒れた。だが、誰よりも深くその魂に傷を受けたのはキルンだった。

 厳しい冬だった。何日も外に出ることができないほど雪が降り続いたあとで、ぽっかりと太陽が顔を出した。生きとし生けるものはみな、よろこんで外に出て、日の光をあびた。まっさらな新雪の表面に日差しがおどって、キラキラとまぶしかった。ただ一握りの年老いた生き物だけが、首を深く傾けた。何かがおかしい。何か恐ろしいものが来るような予感がする、と。

 降り積もった膨大な新雪の層が、前日の陽気に溶けて、自らの重さに耐えきれずにいた。そこへあの吹雪だった。雪混じりの強風が急斜面に叩きつけられ、山頂から下界へ押し下る。その力が新雪の層のバランスを崩して、雪は一気に雪崩となった。


 家の入口で吹雪の様子を見ていたキルンは、チビが自分のあとにくっついて出てきているのに気付いた。同時に吹雪の合間に、雪の壁が頭上から覆いかぶさってくるのが見えた。


「雪崩だ!つかまれ!」


 チビに声を掛け、キルンは片手で家の入口の柱をつかんだ。この柱は生きたままの樅の木だ。これが根こそぎにされるはずがない。爪をたてしっかりと握ると、もう片方の手でチビをつかんだ。ほそっこい前肢。なんとか家の中に押し込めそうだ。チビも風に逆らって足をふんばっている。こいつはやはり馬鹿ではなかった。うん、大丈夫だ。このまま家の中に戻って、奥の岩室にもぐりこめば、雪崩で家の建物部分が押し流されても、生き延びていける。

 その時、頭の上から助けを求める悲鳴が聞こえた。雪崩に乗って流されてくる、氏族の誰かの声だ。キルンは自分とチビを守るために、その声を見殺しにするつもりだったのに、それはいきなりキルンにぶつかってきて、恐ろしい力でしがみついてきた。その体当たりで、体重の軽いチビは跳ね飛ばされ、キルンのチビをつかんだ方の手ははずれてしまった。はっとしてつかみ直そうと手をのばしたのだが、がっちりとしがみついた氏族の体がじゃまをした。

 まるで時間が遅くなったように、キルンの目には、恐ろしく白い沈黙の世界に小さな灰色の毛玉がふわりと浮かんだ光景がやきついた。確かにこちらを見たチビの目が、深い諦めをたたえているように見えた。小さな口がひらき「さようなら」と形作った。声は聞こえなかったはずなのに。

 ほんのさっきまで、この腕の中にいたのだ。小さな灰色のチビ。それなのに、轟々と雪崩れる雪の瀑布は、視界の全てを覆い尽くし、灰色の毛玉はあとかたもなかった。


「ありがとう!助かった!あなたは命の恩人よ!」


 雪崩に流されて来たのは、若い氏族の娘だった。恐怖と安堵に目の周囲や口元の粘膜が青みがかっている。目からはぼろぼろ涙を流して、それが氷のつぶになって、吹雪の強風に飛ばされていく。いつのまにか、キルンと娘は家の奥にいた。いつ移動したのだろう。入口にいかないと。チビを探さないと。キルンはからっぽの両手をながめた。チビはなぜいない?


「だめよ!だめよ!いかないで!家の入口はもう雪崩につぶされてしまったわ!」


 これは誰だ。なぜここにいるのだ。キルンはこの娘を知らない。主の許可なく家の奥に上り込んで、キルンの腕にしがみついて、チビを探しに行こうとする彼のじゃまをする。何の権利があって?キルンはカッと頭が煮えたぎるような気がした。

 チビはキルンが思っているよりずっと小さかった。骨も細く、体も小さく、くりくりした山葡萄色の目。無駄なおしゃべりをしないおとなしい口。思っているよりずっと、毛並は柔らかく、小さくて、あたたかかった。幼い個体は成体より体温が高いのだ。守役になる時そう教わったのを、この期に及んで思い出した。キルンがチビを抱いたのは、これが初めてだったから。

 もしかしたら、キルンの思い違いかもしれない。そうだ、あの時、チビを家の中に押し込むことができたんじゃないか。キルンは立ち上がって、家の一番奥、岩室の方へ駆け寄った。娘が泣きしゃべりしながらついてくるのを、わずらわしげに振り払うと、キルンは岩室の隅々まで手探りした。小さい柔らかいあたたかいものに手が触れることを祈って。


 吹雪が止んでしばらくして、氏族は森の中で集会を開いた。動ける者はすべて参加した。けがをして動けない者も、家族や知り合いがその状態を報告した。何人か、顔を見せない者がいた。雪崩に奪われてしまったのだ。その中でも、雪崩に押し流されて助かった娘のことは「奇跡」と呼ばれ、娘の家族はうれし涙を流した。そして娘のかわりに、キルンの預かり子が流されてしまったことも報告された。みな一様に残念がりはしたけれども、灰色のできそこないの厄介者からキルンが解放されたのも、雪山の神の意向かもしれないと、密かにささやかれたのも本当だった。娘とその家族は、ルーネの両親に償いとしてかなり大きな岩塩の塊を贈り、父親はそれを受け入れた。誰もキルンを責めたりはしなかった。


「キルンや、ルーネのことなのじゃが」


 長老が集会の端に坐り込んだキルンに近づいて声をかけた。


「かわいそうなことをしたの。じゃが、キルンのせいではない。自分を責めるでないよ」


「……うちに、いる……」


 キルンはのどの奥から絞り出すように声を出した。


「チビはうちで寝てる。ちょっと気分が悪いと」


 長老は驚いてキルンの目を正面から見つめた。蒼い目はうつろだった。


「うちにいるんだ…」


 長老は痛ましそうに頭を振った。恐ろしいことが起ころうとしている。氏族の中で一番力あるものが、魂を見失おうとしている。キルンの目の中に、白い渦が巻いていた。


 春が来ても、キルンの目のうつろはもとにもどらないままだった。キルンは山をさまよい歩き、木の根の下、塚の穴、岩のくぼみをのぞき込むようになった。はいつくばって前肢で穴をさぐり、しきりに小さい声で何かを呼んでいる。鼻面を穴に押し込むと、なだめるように何度も話しかけ、また前肢を肩まで差し入れて穴の隅までさぐっている。その姿を氏族の誰もが目にした。

 預かり子を失くした責任感から自分を責めすぎて、心の均衡が狂ってしまったのだろう。氏族の者は痛ましげに目をそらした。

 キルンは自分の家から山裾まで、雪崩が通ったとおぼしき道筋を何度も何度もさまよっているようだった。人里の近くまで下りたこともある。くぼみや穴のことごとくに足を止めている。前に探した場所に何度も前肢をいれて。いつか、灰色の子どもの死骸を見つけてしまうのではないか。キルンのためにも、それは見つからない方がいい。いや、むしろ見つけて、預かり子の死を認識できたほうがいいのではないか。キルンには何一つ非はないのだから。諦めがつけば、また新しい道を歩き出すことができるだろう。例えば、改めて別の預かり子を世話するとか。いやいや、まる二年半も、あの厄介者を世話したのだから、キルンは守役の責務を果たしたといっていいんじゃなかろうか。成年として自分の伴侶を選ぶ方がいいかもしれない。

 いずれにしても、キルンには立ち直ってもらいたい。是非とも、立ち直ってもらわねば。

 あんな灰色の異端児のせいで、あたら英雄の生まれ変わりの銀狼が、つぶれてしまってよいものか。あんな厄介者のせいで。今にして思えば、あれは疫病神だったのだ。雪山の神がお手元に回収なさったに違いない。


「わたしがキルンのお世話をする」


 雪崩で生き延びた娘、ユリエが宣言したそうだ。いや、ユリエはまだ守役の務めをおえていない。半人前ではないか。だが、キルンの今の状態では、誰かがそばについて見守っていないと、何をするかわからない。それならば、キルンに命を救われたユリエがその責を担うのもあながち間違いではないのではないか。掟では伴侶と認められないとしても。守役の務めを果たせなかった者や、伴侶を失くした者たちが、短い関係を結ぶことを、掟は禁じてはいない。氏族の間では「つれあい」と言い習わされる、永続的ではないが、固有の相手と結ぶ関係だ。

 ユリエが望むなら、キルンがそれを受け入れるなら、この二人が「つれあい」となることは、何の問題もなく見えた。

 巻き毛でハシバミ色の目の若い娘、ユリエは、伝説の英雄の生まれ変わりとされる、強く美しい銀狼に惹かれた。年頃があわなかったので、彼を守役に望むことはできなかったけれど、命の恩人というのは強い縁だ。ユリエはさまようキルンの前にまわりこみ、きちんと坐って両手を差し出した。それは成年の伴侶を請う作法だ。差し出された両手を、相手が両手で受け止めれば成立する。もちろんユリエは成年ではないので、伴侶にはなれない。だから、これは覚悟を示したものだ。

 キルンはうつろな視線をめぐらしたまま、正面に坐ったユリエをぐるっと回避した。ユリエがうろたえてキルンに追いすがろうとすると、キルンはその体を払いのけ、急にかけだして古い倒木の下に新しくできた穴に飛びついた。いつものように前肢をいれてさぐると、何かをつかんで引きずり出した。ユリエはぎょっとした。灰色の体毛の何かはキーキーと暴れている。


「ルーネ、見つけた。ごめんね、お迎え遅くなって。ごめんね、そんなにおこらないで、そんなに嫌わないで」


「キルン…はなしてやりな。それはアナグマだよ」


 通りがかりの若者がキルンの肩をそっと押えた。恐怖でもがくアナグマをがっちり両手で抱きかかえて、キルンは泥だらけのアナグマの頭に無理やり頬ずりしていた。


「アナグマ……」


 キルンの腕がゆるんだすきに、アナグマは逃げ出して見えなくなった。


「ルーネは?ルーネどこ?」


 若者は静かに首をふると、べったり坐りこんだユリエに手を貸して立たせた。


「ユリエ、あきらめなよ。キルンはお前を見えてないから」


 ユリエはぽろっと涙をこぼした。


 冬が来る前、キルンは普通の生活に戻ったようにみえた。家を直し、食べ物を貯えた。これまでの年以上に大量に。そんな時、緑の目のソーマはキルンによくであった。ソーマはあの次の年、守役に名乗り出て預かり子を得ていた。その子を連れて木の実やベリーを摘みにいくと、キルンにであうのだ。預かり子を失って心が壊れてしまったのに、去年と同じように、預かり子のために木の実やベリーの冬支度をするキルン。キルンの探す子は灰色なので、誰の預かり子にも無関心なのが、不幸中の幸いだったかもしれない。そうでなければ、他所の預かり子を奪おうとしたかもしれない。


「キルン、元気?」

「ソーマだよ、僕を覚えてる?」


 キルンはしぶしぶ声の方に顔を向けた。噂どおり、氷河の深淵のような蒼い蒼い目はうつろで、その中にうずまく吹雪が見て取れた。氏族のみんなが思っているのとはちがう。これはいっときの心の狂いなどではない。ソーマはその目の奥に、キルンの魂まで届く深い傷を認めた。


「木苺のジャムを作るんだ。チビが、食べるだろう?」


「ああ、そうだね。預かり子はみんな甘いジャムが好きだよね」


 ソーマがあいづちをうつと、キルンはほわりと微笑んだ。


「好きなんだ。もっと前に作ってやればよかった」


「キルン?」


 キルンは木苺でいっぱいの籠を投げ出すと、いきなり両手で顔を覆った。そして山の下にむけて走り出した。ソーマの預かり子はすれちがった時びくっと震え、ソーマの腰にしがみついた。


「ソーマ、いまのひと、キルンってひと?」


「うん、気の毒に雪崩で預かり子をなくしてしまってね」


 ソーマはキルンの籠を拾い上げると、預かり子に微笑んだ。


「これはあとで届けてあげよう。僕たちも負けないくらいたくさん木苺をつまなくちゃね」


 その冬、雪狼氏族のすべての民が、キルンが巨大な銀狼の姿のままで峰々を駆けめぐるのを見た。凍り付いた青い月の冴えわたる中を、村雲にとぎれとぎれの星の海の下を、重く垂れこめた雪雲を背に、一歩先も定かでない吹雪のさなかでさえ、夜となく昼となく、虚空に悲痛な鳴き声をとどろかせて、巨大な銀色の雪狼が彷徨する。巣ごもりもなく、何も食べず、誰ともかかわりをもたず。キルンは「白魔」に墜ちた。

 ああやって、苦しみもがきながら、命のある限り探し続けるなんて、何と哀れな存在になってしまったことか。あれほど将来を嘱望された英雄の生まれ変わりが、何と恐ろしい運命だろう。


「ねえ、みんなの言ってるように、あれは「灰色の疫病神の呪い」なの?」


 ソーマの預かり子は、ぬくぬくと温かい家の奥でぴったり寄り添ったソーマにそっと尋ねた。以前見かけた、美しくも恐ろしい、そして同じだけ哀しい銀狼のことを思い浮かべて。


「ほら、また鳴いている。何を言っているかわからないけど、あれを聞くと、心の奥が悲しくてたまらなくなるんだ」


「僕は、キルンは自分の運命を見てしまったんだと思うよ。キルンの預かり子のルーネは、おとなしくて賢いしっかりした子だったんだ。毛並は灰色だったけど、他の子と少しも違いやしない。「疫病神」なんてとんでもない。セーレはそんな風に思わないでほしいな」


「うん、ごめんね。わたしはルーネを知らないから、銀狼さんが気の毒に思っただけなの」


「やさしいね、セーレ。ねえ、セーレは、もし僕が君を助けるために死んでしまったら、どう感じる?僕だったら、いきなりセーレを失くしたら、あんな風に魔に墜ちてしまうかもしれない、と思うよ」


「ああ、わたし死んだりしないから。ずっとずっとソーマといっしょにいるから」


 二人はしっかり抱き合った。


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