八話 伝える熱
喉が渇いた・・・
朝が来る前に目が覚めるなんて珍しいことだ。
アレクの腕からそっと抜け出し上半身を起こすと、枕元から少し離れて置いていた冷水の入ったピッチャーを傾けグラスに注ぐ。
さらに手を伸ばして充電中のスマホを掴んで時間をみると、まだ4時前だった。
もうひと眠りしようと布団に戻ろうとして視界に違和感を覚えた。
寝起きで目が霞んでいるのかと瞬きを何度かしてみても治らない。
視界の一部だけがぼんやりとしているのだ。
趣ある宿にふさわしい部屋の内装も、布団も、先ほどまで携帯を握っていた私の手も、いつも通りちゃんと見えている。
ただ、アレクだけが。
アレクだけがぼんやりとして見えるのだ。
「アレク・・・」
彼を呼ぶ声がかすれる。
彼はまだ布団の中で眠っている。
私の隣に確かにいるのにぼんやりと霞むように輪郭がぼやけている。
まるでこのまま消えてゆくみたいに。
「・・・アレク・・・・・・アレク・・・」
大声を出して彼を起こしたいのに、私は喉が詰まったようにか細い声しかでない。
彼の肩を揺さぶる手は震えて力が入らない。
震える手のひらに伝わる彼の体温だけが彼はまだこの世界にいると教えてくれているようで、私はそれに縋るようにさらに手のひらを彼に押し当てて揺さぶった。
「・・・ん」
アレクがくぐもった声を出した途端、霞が晴れて彼の輪郭が確かになっていく。
彼の瞼がゆっくりと上がりアイスブルーの瞳が軽く揺れて私を捉えた。
「ユリ・・・?」
「アレクっ!」
まだ目覚めきっていないアレクをぎゅうぎゅうと力任せに抱きしめた。
彼の手が私の背に回り、なだめさするように動く。
「どうした?」
「消えちゃうかと・・・アレクがいなくなるかと思った・・・」
情けないくらいに声が震えている。
こうしてしっかりと彼の体を抱きしめているのに、あの時感じた恐怖はまだ私の中に残っていた。
あなたのいない世界に一人残されるのは怖い。
胸の内に留めておくことが出来なくなって「怖い」と繰り返し呟く私の背や髪を彼は何度も撫でてくれた。
彼のぬくもりと香りに包まれ、その胸に耳を押し当て鼓動を確かめる私がなんとか落ち着きを取り戻すまで、何度も何度も。
それから朝食の時間まで、眠ることもできず、ただただお互いの体温を感じるようにして過ごした。
朝食をとり一息ついたころ、私が見た光景をアレクに話すと、彼はそのとき元の世界の夢を見ていたと言った。
「もしかして・・・アレクが前に話してた曖昧な記憶に関する夢とか?」
「そのような気もするが・・・目が覚めると忘れてしまったようだ」
アレクが元の世界へ戻るときがきっと近づいている。
そして私たちはそれをどうすることもできない。
それがわかっているからこそ、私は彼に「帰らないで」と言うことができないし、彼も「大丈夫だから」と私を慰めることができない。
アイスブルーの瞳は確かに私を愛しているのに。
留まることも帰ることも、彼に選ぶ権利はないのだ。
だから、彼がここにいるこのひと時に縋るように、愛しげに包み込むように、大切に過ごす。
今の私たちにできることはそれしかないから。
京都の夏は暑い。
途中で休憩できるようにゆとりを持たせたスケジュールで、今日は金閣寺、二条城、二條陣屋を見学する予定だ。
昨日はアレクの腕に軽く乗せるだけだった手を、今日は握りこむようにしっかりと掴む。
彼が消えてしまわぬようにと。
そして彼のぬくもりを少しでも長く感じていられるようにと。
「金色の屋敷なんてとんだ成金趣味だと思っていたが、こう見ると悪くないな」
夏の日差しを受けて輝きを増した金閣寺に遠慮のない感想を述べたアレクは、光に透ける庭園の緑と輝く金色の対比を楽しんでいるようだった。
次いで二条城を周ると昨日のように蘊蓄を語るご夫婦は残念ながら近くにおらず、パンフレットや案内板を自分で読みつつ見学することになった。
アレクの世界のお城とは造りが全く違うらしく、興味津々のアレクは私のスマホを使ってさらに詳しく調べたりと、予想よりも時間をかけて見て回った。
「すまない、つい・・・」
私の疲労に気付き眉を下げたアレクが思いのほか可愛かったのでヨシとすることにした。
二条城を後にして、空腹センサーが赴くまま歩く。
暑くてあまり食欲がないからつるつるっといけるお蕎麦が食べたい。
ついでに蕎麦をすするアレクを見てみたい。
ちょうど見つけた和カフェはランチに茶そばを出してくれるらしい。
甘味も充実しているし、なにより疲れた足を休めることが出来るのは嬉しい。
アレクを見上げると頷いてくれたので、今日のランチはここに決定した。
店員さんが気を利かせて出してくれたフォークを使うこともなく、お箸で器用にそばをすするアレク。
食後に頼んだ抹茶と上生菓子を「涼やかで美しいな」と感心するアレク。
その上生菓子を半分に切って私に差し出してくれるアレク。
お礼に私の抹茶クリーム白玉あんみつをすくって差し出すと一瞬ひいて、でも恥ずかしそうに口を開けるアレク。
どんな彼も見逃したくない。
時間が限られているのならばなおさら。
そんな私の気持ちに気が付いている彼は困ったように左の口角を上げて笑った。
まるであなたと同じ気持ちだと言うように。
お店を出てすぐ、アレクの手が私のあごに掛かった。
互いの思いを熱にして唇越しに伝え合う。
どうかその熱を覚えていられますように。