五話 大切な時間
8月の休暇に向けて忙しい日々を送りながらも、アレクと過ごす毎日に私の心は満たされていた。
心置きなく休暇を満喫できるように仕事を前倒しでやったため残業もちらほらある。
そんなときはアレクが夕飯を作ってくれるようになっていた。
なんでも軍隊っぽいところに所属していたこともあるらしく(馴染みのない名称だったからよくわからなくて聞き流した)簡単な料理ならできるそうだ。
メニューはスープや煮込み料理がほとんどで、野菜と肉や魚介を合わせた一皿で満足できるものばかりだ。
久しぶりに作ったから味の保証はしないと言っていたけれど、どれもシンプルで優しい味わいが疲れた体に丁度よく、私は何度も美味しい美味しいと言いながら口へ運ぶ。
「食欲旺盛でなりよりだ」
そんな私の向かいに座っているアレクも食事中だから、私が好きないつものあの笑みを浮かべることはないけれど、彼のアイスブルーの目は温かく私を見つめているのを知っている。
食事で体を、まなざしで心を満たしていく。
だから私はアレクとのこの時間が好きなんだ。
ベッドに入ってからはアレクに話をしてもらうことにしている。
放っておくと自分のことは何も話さないことがある彼の日々の様子を知るためだ。
言葉の勉強も順調にいき、最近はご近所を散歩するようになったこと。
散歩の途中に剣道場を見つけて覗いてみたこと。
剣士募集の張り紙があったため、体験させてもらったこと。
「えっ。アレクは剣道ができたの?」
「いや、剣道は見るのもやるのも初めてだ。だが私の国にも剣を使う武術はあるし、私もその心得はあるから興味が沸いたんだ」
彼は軍隊に入るための学校で剣術など一通り学んだらしかった。
実際に彼が学んできた剣術と剣道は形が違い戸惑ったが、身に着けることが出来れば大いに実力を伸ばせるとして度々通っていると話してくれた。
いきなり流暢な日本語をしゃべる外国人がやってきて剣道を教えてくれだなんて、そこの道場主さんはかなり驚いたのではないだろうか。
私が最初にアレクを見たときに驚いたときのように。
あれからひと月しか経っていないのに妙に懐かしい気がする。
彼はこの世界に少しずつ馴染んでいき、私の中にも自然に入り込んでいた。
私は頬が緩むのを感じながら、いつものように彼の腕を抱き枕のように抱え込んだ。
「どうした?なにか可笑しかったか?」
「ううん。嬉しいの。アレクがこの世界に馴染んでくれて。アレク・・・私のところに来てくれてありがとう」
アレクは上体を軽く起こし横向きに寝ている私の耳元に顔を寄せた。
「ユリエ・・・。私もあなたのもとに来れて嬉しい」
耳元に直接吐息が吹き込まれるように囁かれて、私は思わず抱き込んでいる彼の腕にしがみついてしまった。
それに応えるように耳朶に唇を落としゆっくりと離れていく。
「おやすみ」と言った彼の顔を見ることもできず動揺している私は、恥ずかしさと嬉しさと驚きでマーブル模様を描いている感情の波にのまれていた。
何度も深呼吸してやっと興奮の波から脱出したときには彼はもう寝息を立てていた。
彼の腕を抱えなおし、その肩口に唇を寄せた後「おやすみ」と返す。
そのまま瞼を閉じた私は気が付かなかった。
そのあとに彼の左の口角が上がっていたことに。
休暇に入ると昨日までの仕事の疲れを癒すべくたっぷりと睡眠をとった。
そして午後からはアレクと一緒にぶらぶらと散歩をする。
明日からの旅行の準備は夜にすればいい。
国内だから荷造りも簡単だし、足りなければ現地で調達できるから。
うちから駅とは反対方向にしばらく歩くと池のある公園にたどり着く。
今は蓮の花がきれいな時期だ。
午前中に来れば美しい花を眺めることが出来たかもしれないが、お昼を過ぎたこの時間は残念ながらつぼんでいる。
「ユリエと並んで歩くことは何度もあるが、回数を重ねる度になぜか懐かしい気持ちになるんだ。なんというか前にもこんなことがあったというような・・・」
「デジャヴみたいな?」
私たちは池沿いをゆっくり歩いていく。
夏の日差しが反射して、いつもより池を綺麗に見せていた。
日傘を差してきて良かった。
アレクは色素が薄いぶん日差しが苦手かもしれないと思い至り、彼に日傘を差し掛けてあげた。
彼は驚いたように私を見たあと優し気に目を細めると日傘の柄を取り上げた。
日傘で相合傘なんてはじめてだ。
「前に話しただろう、記憶があいまいな部分があると。あなたと過ごしているとその部分を刺激されるというか、記憶の霞がかった部分が少しずつ晴れていくような気がする」
「なにか思い出したの?」
アレクは首を振り眉を下げた。
思い出せなくてもどかしいのかもしれない。
彼は私の不安を知らない。
その記憶を思い出したとき、元の世界へ戻ってしまうんじゃないの。
私がそう感じていることを。
私は彼ともっとたくさんの時間を過ごしたいのに。
私と一緒に過ごしていると彼の記憶がはっきりしてくるなんて。
世界が異なる二人の時間は限られているのだろうか。
「ユリエ?」
沈みかけた思考をアレクの低い声が引き戻す。
アイスブルーの瞳は私を見ていた。
ああ、私は何をやっているんだろう。
今、彼は私の目の前にいて、その瞳に私を映しているのに。
私は失われるかもしれない未来を心配して、今このときをないがしろにするところだった。
記憶が戻るか戻らないか。
元の世界へ戻るのか戻らないのか。
どちらにしても、今この瞬間のアレクとの時間は今しか味わえないのだ。
今、この瞬間。
ここにいる彼に集中しよう。
私は彼との時間を大切にしたいと思っているのだから。
公園を抜けると横断歩道の向こうにパン屋さんの看板が見えた。
一人ではなかなか公園の向こうまでは行かないからお店があることさえ知らなかった。
「アレク、あのパン屋さんに寄っていこうよ」
私はアレクに笑顔を見せた。
彼と一緒に今を楽しみたいという思いをのせて。
彼もまたいつもの笑みを返してくれた。
彼の笑みを見て、ふと思う。
私の不安を伝えてみよう。
記憶がはっきりしたら、元の世界へ戻っていってしまいそうで怖いと。
あなたを失いそうで怖いと。
私の中に棘のように刺さって、何かの拍子で疼きだすこの不安を。
彼に向かって吐き出してみよう。
彼はどんな表情をするだろうか。
どんな反応が返ってくるかはわからないけれど、でもきっと最後にはまるで「仕方がないな」とでも言うように左の口角を上げてくれる。
そんな予感がするから。