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その愛を覚えてる  作者: 桃花の宮
第一章 こちらの世界
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四話 自覚する思い

「なにか忘れている気がする」


勉強中のアレクがぽつり言う。

ここ一週間で勉強机代わりにしているダイニングテーブルはアレクの定位置になっている。

私が会社に行っている間、アレクは熱心に言葉の勉強を続け、今では難しい漢字以外なら読めるようになっていた。

今も文章に慣れるために私の本棚から取り出してきた本を読んでいるところだ。

ページをめくる長い指にできたペンだこが彼の努力を物語っている。

一息入れてもらうために紅茶とクッキーをテーブルに運ぶ私に彼は視線を向けた。


「ここに来る前の生活のことだ。仕事や社交や家族のことなどはよく覚えている。だがここ一年ほどの記憶で、屋敷の中で誰かと会ったり話したりした記憶になると曖昧になる」


「あー・・・アレクはここに来る前に、階段でめまいがして落ちたって言ってたよね。そのときに頭を打ったんじゃないの?」


なんならもう一度衝撃を与えてみたらどうかと、紅茶をのせてきたお盆を振り上げる私の手から素早くそれを抜き取ったアレクはため息を落とすと再び本の文字を追い始めた。


こいつに話しても無駄だ、みたいな雰囲気になったけどコレはわざとだ。

アレクの曖昧な記憶には何か大切なことが含まれているのではないか。

そんな気がするのだ。

彼がこちらに来たことが原因で忘れてしまったのなら、それを思い出したとき彼はどうなるのだろう。

そのとき彼は帰ってしまうのではないか。

何の根拠もない、ただの思いつきなのに、きっとそうだと感じる。


イヤだ。

帰らないで。

まだ一緒に居たい。


心に浮かんだその思いを隠して、咄嗟に冗談めかし話をそらせてしまった。

たった一週間暮らしただけの彼をこんな風に思うなんて。

私はこんなに惚れやすい性質だったのかと自嘲する。

本当なら彼が本来いるべき場所へ戻る手助けをすべきなのだ。

親切ぶって彼のそばにいるくせに。

アレクの助けになりたいと思う気持ちは本当なのに。

このままそばにいてほしいと願う気持ちもまた本当で。

どちらも間違いなく私の気持ちなのだ。


矛盾する思いに痛み始めた胸をごまかすように紅茶に手を伸ばした。

ページをめくる音に誘われるように、手元に落としていた視線を彼に向ける。

私の視線を感じたアレクがこちらに顔を向け、どうかしたのかと問うように軽く微笑んだ。

左の口角を少しだけ上げる、彼のいつもの笑みだ。


そうだ。

私はこの笑みがほしい。

これからも、ずっと。


アレクに心の中でごめんねと囁き、ほろ苦く笑みを返した。






アレクと過ごす時間は飛ぶように過ぎる。

気が付けばもう7月の半ばを過ぎていた。


「ユリエ。これをこの住所宛に送りたいのだが、やり方を教えてくれ」


包み紙と一緒に住所や氏名が書いてあるメモを見せられた。

この世界に私以外に知り合いはいないはずではと訝しげに彼を見やる。


「こちらに来た時に着ていた衣装があっただろう。その中のカフスボタンをネットオークションをで売ったんだ」


アレクは私がネットを使うのをそばで見ていたし、暇つぶしになればと使い方を教えたのは私だ。

それがネットオークションをやるまでになっていたとは。

たしかにあのカフスボタンは何やら宝石めいたものが付いていて高価そうではあったが。


「大丈夫なの?大切なものじゃない?」

「ああ。うちに帰れば代わりはあるし、こちらにいるときは使いそうにないものだから問題ない。それに・・・8月に休暇を取ると言っていただろう?」


アレクは手にしていた包みをテーブルに置き、私をソファに座るように促し自身も横に腰掛けた。

たしかにそんな話を彼にしていた。

アレクといる時間を大事にしたくて、貯まっていた有給休暇を消化することにしたのだ。


「旅行に行かないか?」


胸元まである私の髪をなでるように梳きながら彼は私の目を覗き込んだ。

彼が私の髪に触れるのは初めてで、そんな仕草に心音のテンポが速まる。


「ずっとユリエに何かしたいと思っていた。このオークションである程度の金額が手に入る。あなたが楽しめることをしたい」

「アレク・・・」


今までの私なら、彼の申し出にためらっていただろう。

彼が自分の持ち物を売って得たお金を私のために使うなんて、と恐縮して申し訳なさでいっぱいになったはずだ。


でも私は知っているから。

そうやって申し訳なく思いながら断ることが彼を傷つけるということを。

以前私に彼の買い物代を支払わせたことを情けなく思う彼なのだ。

ここにきてからの生活のすべてを私に頼っていることを、ずっと気にしていたに違いない。

本当は居てくれるだけどいいんだけど。

彼の気持ちを大切にしたいから。

その気持ちがとても嬉しいから。


「ありがとう、アレク!」


大胆にもアレクに飛びついた私を受け止めた彼の肩が安心したように緩んだのを感じて、私はさらに彼を愛しく思った。





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