三十九話 海と空の色
「結婚することにしたんだ」
翌日の夕食の席でラルフはそうアレクに告げた。
このタイミングでの報告になったのは朝食時に百合恵が起きれずラルフがそれに付き合ったためであり、昼以降はアレクが外出していなかったためである。
ラルフは真摯な眼差しで、百合恵ははにかみながらアレクを見ている。
「そうか・・・。おめでとう」
「ありがとう。式は領地に戻ってから挙げたいと思ってるんだ。父さん達にユリィを紹介したいし」
「そうだな。来月には戻る予定だが、先に手紙で知らせるとして、準備を考えれば式は早くて半年後か」
「うん。ユリィはこちらでの知り合いは少ないし、王都で式を挙げて社交にとらわれるよりも領地で準備をしながら式を迎えたほうが心地良く過ごせるだろうから」
「それがいいだろうな。東館を整えるよう伝えておこう」
「兄さん・・・いいの?」
「当たり前だ。この結婚で他家に入るわけではない。おまえはグランヴィル家の人間だ。もともとお前に引き渡すつもりでいた場所だ。本館は私がいるし、西館は父上たちが使われている。少々煩わしいかもしれないが、ユリが全く知らない場所で心細くあるよりマシだろう」
「ありがとう、兄さん」
「ありがとうございます」
二人の感謝の言葉にアレクはアイスブルーの瞳を細めて頷いた。
領地に構えるグランヴィル侯爵家の屋敷は代々侯爵が受け継いできたもので、今の所有者はアレクであった。
本館、東館、西館は繋がっており、侯爵一家は普段は本館に居住していたが、アレクが爵位を継いだ際に、両親はいずれ家族を持つアレクに本館を託し、自分たちは西館に移ったのだった。
次男で相続権のないラルフは、侯爵邸か会社に近い場所で新居を構えるつもりでいた。
東館はアレクの管理のもと、ゆくゆくはアレクの息子たちが入ることになるとラルフは思っていた。
本来なら自分が譲り受けるものではないが、百合恵のことを考慮するとそれが良いように思える。
なによりアレクの百合恵に対する配慮を無下にはしたくない。
いずれはアレクに返すつもりで、ラルフはアレクの厚意を有り難く受けた。
領地へ戻る日取りが決まると、アレクはそれまでに片づけておきたい執務や社交上の挨拶で忙しくしていた。
対してラルフは彼の仕事のスタンス上、直接挨拶に出向くことはほとんどなく、手紙のやり取りで済ませていた。
百合恵は領地への旅支度はアリスたちがやってくれるため、特に変わることのない日々を送っている。
職場もラルフがこの時期から領地に戻るのは毎年のことなのでみんな慣れており、ほとんど通常と変わりなかった。
領地で式を挙げてくると伝えたとき、ここ数日の二人の様子から別れ話かと危惧していたスペンスは真面目な顔をして彼流の祝いの言葉を述べた。
「社長、捨てられなくて良かったですね」
「本当だな・・・」
スペンスの言葉に神妙な顔をして返すラルフに、百合恵とライダー夫人は顔を見合わせて笑った。
ヘンリーは無言だがわずかに口角が上がって見えるので、どうやら祝福してくれているようだ。
ここの仲間と数か月間会えないと思うと寂しさを感じるが、そう感じるほど自分がこの生活に馴染んだことを百合恵は嬉しくも思う。
これもラルフが知識も自信も何も持たない百合恵を受け入れてくれたおかげだ。
「ラルフ・・・」
ラルフの翡翠の瞳がこちらを向いたので、百合恵は思わずその名を呼んだ。
優しい目でどうしたと問うようにラルフが首を傾ける。
しかし次に声を発したのはラルフではなくスペンスだった。
「ユリさんもとうとう社長のことを親しく呼ぶ気になったんですね。どうですか、社長。優しくラルフって呼ばれる気分は?」
「嬉しいよ。おまえだって夫人に優しく呼んでもらってるんじゃないのか」
「うちは最近おねだりの時しか呼んでくれなくて」
スペンスとラルフの会話に百合恵は赤くなり、ライダー夫人は夫のスペンスに無言の圧力を送る。
それに気づいたスペンスはそそくさと仕事に戻り、残された仲間も苦笑しつつそれぞれの仕事に向かった。
百合恵がラルフと呼ぶようになり、砕けた口調で話すようになったのは、プロポーズされた翌朝のことだった。
ラルフからそうしてほしいと乞われたのだ。
「兄さんのことは親し気に呼んでいたじゃないか」
そう言ったラルフは拗ねたような表情をしていて、百合恵は思わず「かわいい」と言ってしまった。
失言だったと慌てて口を閉じたが、しっかり聞こえていたらしい。
「かわいい俺のお願いを聞いてくれるでしょう?」
にやりと妖艶に微笑まれて、断ることは危険だと判断した百合恵は即座に頷いた。
ラルフがこんなにわかりやすく嫉妬を向けてくることは初めてで、いつもは余裕のある態度で百合恵を包んでくれるラルフなだけに意外な思いがした。
それもアレク絡みのことで。
ラルフは最初から百合恵がアレクへ向ける想いを知っていたが、ラルフと百合恵が想いを通じ合ってからも、アレクに対して嫉妬を感じさせるような言動を取っていなかった。
百合恵の気持ちがアレクに戻るかもという不安を抱え込んでいたが、それは百合恵に向ける切ない想いであり嫉妬ではなかった。
それが百合恵を前に嫉妬を出してきたということは、ラルフが一人で不安を抱え込むことを止めたということだ。
ラルフはあんな言い方をしたが、過去にアレクを愛したのと同じように自分を愛してほしいと言っているのと同じだ。
少なくとも百合恵にはラルフの言葉の裏に隠れた本音がそうであると感じた。
それが無性にいじらしくて愛おしい。
「ラルフ」
百合恵は感じた想いのまま声にした。
それはラルフの耳に優しく甘く響いたに違いない。
ラルフは朱に染めた目元を片手で隠し天を仰いだ。
それはラルフが照れたときにする仕草だと百合恵は知っている。
そしてそのあと、ラルフがどんな声で自分の名を呼ぶのかも百合恵にはわかっていた。
領地までの旅は丸二日かかった。
馬車での移動は百合恵が想像していたものよりも快適だった。
それはグランヴィル侯爵家の馬車の内装がしっかりしていたこともあるし、初めての長距離移動を経験する百合恵に配慮しゆったりとした旅程を組んでもらったおかげでもあった。
二日目になるとさすがに疲れを感じたが、港町と聞いていた侯爵領が見えたときには興奮した。
くすんだ橙色の屋根がきれいに立ち並び、海の近くにはパステルカラーに塗られた外壁がたくさん見える。
侯爵邸は高台の上に立っており、そこに向かう坂道の途中から街並みの美しさを知ることが出来た。
「ユリ、そんなに窓に張り付かなくても景色は逃げない」
「そうだよ。屋敷からはもっと綺麗に見渡せるから落ち着いて」
窓に張り付いて景色を眺める百合恵に二人が苦笑している。
百合恵が見惚れているのは街並みだけではなかった。
ここから見える海と空の美しさに心奪われていた。
光を受けて翠色に輝く海と、どこまでも澄んだ薄青色の空を、美しいと思うと同時に百合恵が愛を傾けた人たちの色にも似ているそれに心惹かれるのだ。
感嘆のため息を漏らしながら視線を外せないでいる百合恵を、二人は愛おし気に見つめた。
やがて屋敷に到着し馬車を降りると、使用人たちが立ち並び出迎えてくれた。
アレクがはじめに声を掛けたのが家令のネイラーだった。
「出迎えご苦労。久しぶりだな、元気にしていたか」
「はい、お陰様でこの通り。長旅お疲れ様でございます」
二人のやり取りの横で「うちの家令ネイラーでウィルの父親だよ」とラルフが百合恵に教えていた。
ウィルの亜麻色の髪は父親譲りなのかと観察している百合恵にネイラーの視線が向けられた。
「ラルフ様、ユリ様もお疲れ様でございます。本館の今までのお部屋も東館も整えておりますが、どちらに入られますか?」
「後で荷物を移すのは面倒だから東館に入らせてもらうよ。急がせて悪かったね」
「いいえ、この日を迎えられて嬉しく思っておりますよ。すでにお湯の準備もしてありますので、まずは長旅の疲れを落とし下さい」
そうしてアレクは本館へ、ラルフと百合恵は本館を通り抜け東館へと移動した。
ラルフたちの両親といきなり面会とはならず、夕食時に対面するということで、百合恵はひとまずホッとして埃っぽい体をお湯で流しさっぱりした。
入浴して人心地付くと百合恵はバルコニーに出てみた。
百合恵が通された部屋は夫婦の主寝室を挟むかたちでラルフの隣部屋だった。
結婚が決まっているとはいえ、まだ婚約期間中だ。
広い屋敷で食事以外に顔を合わせることはないだろうが、家族のいる場所で結婚前に寝室が一緒というのは恥ずかしいので遠慮したい。
だがせっかくこの屋敷の人たちが整えてくれた部屋に文句を言って、新たに百合恵の寝室を作ってもらうのも気が引ける。
先ほどまで夢中になっていた美しい眺めよりも、今は寝室のことに気を取られる百合恵だった。
「ユリィ、気難しい顔をしてどうしたの?」
「!」
「驚かせてごめん。何度かノックしたんだけど、返事がないから覗いてみたら頭を抱えるユリィの後ろ姿が見えたから気になって」
「ああ、気が付かなくてごめんなさい。寝室のことを考えてたら・・・」
「寝室のことを?」
「あ~・・・その、ね。ご両親もいるお家で、ラルフと同じ寝室なんて恥ずかしいなと思って」
「ユリィは俺と一緒に寝るのが恥ずかしいの?」
「だって、朝みんなと顔を合わせるのが恥ずかしいっていうか」
「どうして?」
「だから~・・・やったあとに知り合いに会うとか恥ずかしいじゃない!」
「ククッ・・・ヤったあとって」
肩を震わせて笑うラルフを見て、百合恵は真っ赤になった。
笑うラルフの悪戯な瞳は百合恵が言いたいことを初めからわかっていたのに、わざと百合恵の口から言わせるように誘導したのだと思わせる。
まんまと引っかかった百合恵は恥ずかしさにそっぽを向いた。
「もうっ!」
「はは・・・ごめんね。ユリィがつれないことを言うからさ、つい意地悪したくなったんだ」
「真面目に悩んでたのに」
「心配しなくても大丈夫だよ。結婚するまで寝室は別だから」
「えっ、そうなの?」
「うん。俺の部屋には別にもう一つ寝室が付いているんだ。結婚までは俺はそこで寝て、ユリィは主寝室を使うんだよ」
「そっか」
「安心した?」
「うん」
「結婚後はヤッたあとで家族にあっても恥ずかしくないの?」
「~~~!」
百合恵が逃げないようにバルコニーの柵に両腕をつき囲っておいてから、ラルフは百合恵の耳元に多分に艶の含まれた揶揄いの言葉を吹き込んだ。
羞恥心を煽られ益々赤くなる百合恵に熱い口づけを贈ると、ラルフは百合恵の頭に顎を乗せため息を吐いた。
「半年も別室なんて長いね。一緒に入れるだけでも嬉しいのにさ、感覚が麻痺してくるっていうか、もっともっと欲しくなるんだよね。贅沢な話だけど」
ため息とともに先ほど見せた色香を吐き出し消し去ったのか、ラルフの声はしんみりとしていた。
その態度の変化に百合恵の顔のほてりも治まってきた。
ラルフの言葉に同意を示すように百合恵がその胸に体重を預けると、柵を掴んでいたラルフの腕が百合恵の背にしっかりと回された。
「ユリィ、庭へ降りてみようか。今なら夕日が見れると思うよ」
ラルフの提案に百合恵は喜んで頷き、その腕をとった。