三十八話 愛おしい人
百合恵はラルフの背に両手を回し、思いっきり抱きついた。
百合恵の胸に燻っていたもの。
それは寂しいという想いだ。
悩んでいるラルフに遠慮して気を遣い、寂しさを知らず知らずに押し殺していた。
その想いは昇華されくことなく溜まり続け濁り、ただ寂しいという本来の想いをラルフへの不満で覆い隠してしまった。
だが百合恵の話を根気強く聞いてくれたラルフのおかげで、覆い隠していたものが一枚ずつ剥がれ、やっと本音を出すことが出来た。
ただ、寂しかったと。
そう、百合恵はラルフに触れられずに寂しかったのだ。
ただそれだけのことだったとわかると、百合恵は何だか可笑しくなって涙が止まった。
ラルフの胸に埋めていた顔を上げた百合恵は、背に回していた腕をほどき、ラルフの頬に触れた。
「ユリィ?」
急に泣き止んだ百合恵を見て戸惑うラルフに微笑みかけ、百合恵はその唇をラルフのそれに重ねた。
百合恵は自分の心のまま真っ直ぐにラルフに触れる。
ラルフの戸惑いは直に消え、百合恵の想いに返すようにその熱に応えた。
はじめは百合恵から行った口づけも、次第にラルフから貪られるように覆いかぶさられ、ようやく離されたときには百合恵の唇は充血したように真っ赤になっていた。
「ごめん。ユリィの気持ちが嬉しくて、抑えきれなかった。今までも覚悟が出来なくて中途半端な真似をしてしまった。本当にごめん」
「覚悟?」
「ああ・・・自分の本音を押し通す覚悟かな。俺の気持ちを聞いてくれる?」
ラルフの真剣な声に百合恵は翡翠の瞳を見つめ頷いた。
「俺はユリィを心から大切に思っている。それはユリィに自分自身の気持ちを大切にしてもらいたいという思いでもある。そのうえで、あえて俺の気持ちを伝えたい。・・・もし兄にユリィとの記憶が戻ったとしても、そうでなくても、俺を選んでほしい。ずっと俺のそばにいてほしい」
百合恵はラルフの言葉を驚きとともに聞いた。
この数日、ラルフを悩ませていたのはこれだったのか。
もしいつかアレクに記憶が戻った時に、百合恵の気持ちがアレクへと戻ってしまうことを懸念していたのか。
たしか百合恵がラルフにアレクへの想いが過去形になったと告げた時、こうも言ったのだ。
いま百合恵の中にあるのは過去に好きだったアレクの姿だけだと。
百合恵はアレク自身を嫌いになったわけではないのだ。
もし今恋人同士だった頃のアレクに戻ったなら、百合恵はどうするだろうか?
ラルフはそのとき百合恵がアレクを選ぶと思い、百合恵に触れることを自制していたのだろうか。
ラルフは本当は百合恵に問い質したいはずだ。
もしそうなったとき、どちらを選ぶのかと。
それとも二人とも選べず、また迷うのかと。
だがそれをしないのは、百合恵に対するラルフの誠実だと思う。
誰を想い誰を選ぶかは百合恵の心の領域であり、それを守るためラルフは無理に選択を迫ることをしなかった。
代わりに、ラルフ自身の想いを百合恵に告げた。
アレクの記憶如何に関わらず、自分を選んでほしいという彼の想いを。
ただ前もって百合恵自身の気持ちを大切にしてほしいと告げたのは、百合恵がラルフの想いに応えられなくても罪悪感を抱く必要はないという彼の優しさからだと百合恵にはわかっていた。
ならば百合恵も応えたいと思う。
ラルフの想いに恥じることのないよう、自分の本心を伝えたい。
「ラルフさん。私は自分の世界でアレクを好きになって、そして別れて一年経っても忘れられなかった。二人で暮らしたあの時の愛をなかったことにはできないし、あの時の彼の愛情は本物だったと今でも信じているんです。ただそれは私にとっては一年以上も前の出来事で、大切だけどそれは今の想いじゃない。もし今、アレクが私を思い出したとしても、私はあの時と同じように彼を想えない。私は変わったんです。こちらに来て過ごすうちに私の中でラルフさんの存在が大きくなっていって。何もない裸で現れた私の話を信じてくれて、何も知らず何もできない私を否定せず受け入れてくれた。それがどんなに私を救ってくれたか・・・。私が自分を責めずに許せるようになったのも、自分を好きだと自信を持てるようになってきたのも、全部ラルフさんのおかげなんです。でもまだ迷うこともあるから、あなたに頼りたいし甘えたい。ラルフさんがそばにいて・・・大丈夫だって笑ってくれたら・・・触れることができたら・・・。私は・・・あなたの存在が愛おしい」
百合恵が話し終えたとき、翡翠の瞳はいつもの輝きを取り戻していた。
迷いも戸惑いも消え、ただ優しく甘く愛し気に百合恵に向けられている。
「ユリィ、ありがとう。俺もあなたのことが愛おしい。ずっと一緒に居よう」
「はい」
きつく抱きしめるラルフの胸に百合恵は顔を埋め、彼の香りを吸い込んだ。
自分と同じなのにどこか違う大好きな香りだ。
百合恵の行為に苦笑し、ラルフは百合恵の顔を上に向かせると、その耳朶に唇を落とした。
百合恵の体が反応したのを見てラルフは微笑みながら、さらに耳元近くに口を寄せた。
「ユリィ。もう少しここで過ごそうか」
耳に直接かかるラルフの艶を含んだ甘い声に百合恵の胸はいつものように甘く疼きだす。
百合恵の視界には衝立の奥のベッドが入っており、ラルフの意図を正確に察する。
熱をはらんだ翡翠の瞳に絡めとられては、百合恵に否と言えるはずがない。
百合恵は羞恥心に顔を染めながらも、唇を重ねてくるラルフに身を任せた。
ラルフに触れることは百合恵にとって幸せなことなのだから。
仕事の都合で遅くなると連絡を入れていたため、夜遅くに屋敷に戻っても迎え入れてくれたウィルは何も言わなかった。
気付いていて何も言わないだけかもしれないが、百合恵には仕事という理由をウィルが信じてくれているほうが気が楽なためそう思うことにしておいた。
そのまま部屋へ戻ろうとした百合恵をラルフの腕が引き止める。
「ユリィ、俺の部屋に寄っていかない?」
「え・・・」
「見せたいものがあるんだ。まだ眠くなければ」
「はい、まだ平気です」
ラルフにこの国の常識や文字を教えてもらうために何度も通った彼の部屋は、緊張感を抱かせることなく百合恵を迎え入れた。
ラルフはいつも百合恵と並んで座っていたソファも執務机も通り過ぎ、バルコニーへの扉を開けた。
「ユリィ。おいで」
ラルフの誘いに応じてバルコニーに出ると、そこから月明かりに照らされた美しい庭園を見下ろせた。
「わぁ・・・きれい・・・」
「今夜は満月だって帰る途中に気付いたから。月夜の庭園も幻想的でいいよね」
「はい・・・素敵です」
帰り道の馬車の中で何気なく見上げた夜空に浮かぶ満月がとても綺麗だと百合恵は思っていた。
百合恵の胸にあった不満も本音の部分の寂しさも、すべてラルフに吐き出し受け止めてもらった。
お互いの本当の気持ちを見せて、身も心も結ばれた二人への祝福かもしれないと、その美しい満月を見てロマンチックにも百合恵はそう感じたのだ。
だが百合恵は言葉にしなかった。
ラルフと美しい満月を眺めたいと思ったが、いかにも乙女な発想だと恥ずかしくなり、ひっそりと馬車の中から夜空を楽しむだけにした。
「もしかして、気付いてました?」
「なにを?」
「私が馬車の中から満月を見上げてるのを・・・」
「まあ、あれだけ熱心に見てればね」
ラルフが気が付いたのは百合恵が満月を見ていたことだけで、百合恵の乙女な想いまで知られたわけではない。
そう思うのになんとなく気恥ずかしくて、ラルフの顔を見れず、百合恵はこのバルコニーから見える景色を熱心に眺めた。
次第に月夜の庭の幻想的な美しさに心を奪われていった百合恵は、夢見心地な空気に酔ったのか、先ほどまでは言えなかった想いを口にした。
「私・・・馬車の中で、ラルフさんと一緒にこの満月を眺めたいって思ったんですけど、なんだか恥ずかしくて言葉に出来なくて・・・。だから、その・・・ここに誘ってくれてありがとうございます。すごく嬉しいです」
照れながらも心に隠していた素直な想いを伝える百合恵に、ラルフは胸にこみ上げる愛しさをどうやって伝えようかと翡翠の瞳を揺らせた。
だが迷ったのは一瞬で、ラルフは片膝をつき百合恵の手を取ると口づけた。
「ユリィ。あなたを心から愛している。俺と結婚してほしい」
ラルフの突然の行動に百合恵は驚き目を丸くした。
真剣なラルフの翡翠の瞳は百合恵をひたと見つめ逸らさない。
ラルフの瞳は月夜の庭園に劣らず、美しく煌いて百合恵に愛を告げている。
百合恵の答えは決まっているのに、驚きと嬉しさと感動で唇が震えて言葉が出ない。
ラルフに伝わるように百合恵は何度も頷きながら、やっと小さく返事した。
「・・・はい」
「ユリィ・・・ありがとう」
ラルフは立ち上がると誓いのキスとでも言うように、ゆっくりと百合恵に口づけた。
唇が離れ吐息を零す百合恵の背と膝裏に腕を回したラルフはそのまま百合恵を抱き上げた。
この瞬間を切り取れるなら、美しい月夜の庭園を背景に、王子様がお姫様を抱きかかえた物語のような一枚になっただろう。
しかしラルフはただ優しいだけの王子様ではなかった。
優しく甘くそして妖艶な光を瞳に宿したラルフは、百合恵に微笑みかけた。
百合恵はその夜、自分の部屋に戻ることが叶わなかった。