三十七話 胸の奥にあるもの
アレクは意識が戻った翌日から、いつも通り過ごしている。
朝食の席にも時間通り出てきた。
「アレク様、体調はどうですか?」
「・・・ああ、朝食前に医師に診てもらったが問題ない。心配をかけてすまなかったな」
アレクは百合恵の呼びかけに一瞬目を細めて答えた。
百合恵はアレクに少しの違和感を覚えた。
この世界でのアレクの様子を思い浮かべるが、一瞬だけでもあのように切なげに目を細めることは今までなかった。
本当はまだ体調が優れないのではないだろうかと百合恵はアレクを観察したが、顔色も食欲もいつも通りで、姿勢や所作も美しく無理をしている感じはなかった。
とりあえず大丈夫そうだと判断し、百合恵はもう一人違和感を放っている人物に視線を向けた。
百合恵の視線を向けられた相手であるラルフは、それまで百合恵を見つめていたのか、百合恵が視線を移すとすぐに目が合った。
だがすぐに逸らしてしまう。
やはりいつもと違うと百合恵は思う。
いつもなら百合恵と目が合えば、優しく微笑み、百合恵が照れるほどの甘い瞳を向けてくるのがラルフなのだ。
それに会話が少ないように思う。
普段の食卓はラルフを中心に会話が進むのに、今日は無言とまではいかないが、必要最低限のことしか話していない。
一昨日からラルフが隠しきれずにいる不安の原因は、アレクが倒れたまま目覚めないことではなかったらしい。
アレクが目覚めた今も、ラルフがそんな様子を見せているのはなぜだろう。
百合恵がこの世界に来て以来、ラルフは常に穏やかで明るく百合恵に接していた。
それは百合恵を気遣ってのこともあるだろうが、彼本来の性質なのだと思う。
その彼が今は平静を装いながらも沈んでいるのがわかる。
そしてラルフはその理由を百合恵に話す気はないのだろう、少なくとも今はまだ。
百合恵は心配と不安をお茶と一緒に飲み込んだ。
それから数日、ラルフは一見いつも通りに百合恵に接していた。
目が合えば逸らさず見つめ返してくれるし、優しく微笑んでもくれる。
話をすれば、甘く切なげに「ユリィ」と呼んでくれる。
だが百合恵は気付いていた。
時に優しく、時に強く百合恵を抱きしめてくれたラルフの手が百合恵に触れなくなった。
百合恵の髪を梳き、頬を優しく撫で、甘く唇に落とす口づけは、照れくさくも百合恵の胸をときめかせるものであったのに。
まるで想いが通じ合う前の関係に戻ったようだ。
ラルフに嫌われるか飽きられるかしたかと不安になったこともあった。
だがラルフの目を見れば、そうではないことがわかる。
ラルフの翡翠の瞳は、確かに百合恵を愛している。
ラルフの目はそうとわかるほどの熱をはらんでいるのだ。
それと同時に切なさと戸惑いも揺れていて、ラルフの内面の葛藤を映し出している。
ラルフは何に悩み、百合恵との触れ合いを避けているというのか。
そんなラルフを見て、百合恵もどうしたらいいかわからなくなる。
百合恵から積極的に触れるてはラルフを余計に戸惑わせるだけだろうか。
彼が落ち着くまで静かに見守るほうがいいのだろうか。
百合恵はモヤモヤとした想いを胸に溜めていった。
そんなある日、百合恵はライダー夫人と一階の店舗で仕事をしていた。
閉店間際で訪れる客もなく落ち着いた店内は、女性二人のお喋りの場となっていた。
「社長と喧嘩でもした?」
「えっ・・・そういうわけじゃないんですけど。でも、ぎこちないっていうか・・・」
「そうなったきっかけは?」
「それもよくわからなくて」
「ふうん。じゃあ、社長の問題ね」
「でも、私に対してなにか思うところがあるから、こうなってるんじゃないかと思うんですけど」
「それでも社長はそのことをユリさんには言わないんでしょう?だったら、やっぱり社長自身の問題よ。ユリさんは気にしないで、やりたいようにやればいいわ」
ラルフのことはラルフ自身の問題。
だとしたら、百合恵が感じている胸のモヤモヤとした思いもまた百合恵自身の問題だ。
このところ百合恵の胸に燻っていた想いが出口を求めていた。
ラルフと話したい。
百合恵は強くそう感じた。
一度そう感じるとその欲求は強くなる一方で、百合恵は居ても立っても居られず、ライダー夫人に顔を向けた。
「私、ラルフさんと話したいんです。ここをお願いしてもいいですか?」
「もう閉店時間になってるわ。気が済むまで話しても平気よ」
急ぎ足で二階へ向かう百合恵の後ろから、ゆったりとした足取りでライダー夫人が続いた。
事務所へ入ると百合恵は脇目も振らずラルフのデスクの前に進んだ。
驚くラルフに構いもせず百合恵は口を開く。
「ラルフさん、聞いてほしいことがあるんです」
「・・・今?」
「今すぐ」
「仕事のこと?」
「え・・・と。違います」
ラルフは百合恵の勢いに目を瞠ったが、すぐに冷静に返してきた。
心のまま勢いで言ってしまったがプライベートの話はさすがに不味かったかと百合恵が怯んだとき、ラルフが息を吐いて了承した。
「わかったよ。奥の休憩室で話を聞こうか」
いつもは公私問わず、百合恵の言葉には優しさと甘さを含んだ対応をするラルフが、今回は腰が重そうに見えた。
「別れ話?」
ボソッと呟いたスペンスの声は本人の想像以上に室内に響き、ラルフの肩が大きく跳ねた。
百合恵の後からやって来たライダー夫人に思いっきり睨み付けられたスペンスは「冗談だよ」と付け加えたが、ラルフはそれに応える余裕すらないように、百合恵を促して部屋を出た。
二階の廊下の突き当りにある休憩室に入るのは百合恵は初めてだった。
一階の休憩室はソファとテーブルがあるだけだが、二階のここはソファとローテーブルのほかに、衝立の奥にはベッドが見え仮眠が取れるようだ。
珍しそうに部屋を見渡す百合恵にラルフは部屋の説明をした。
「今はそうでもないんだけど、昔忙しかったときは屋敷に戻らずここで寝泊まりすることもあったんだ。眠りの妨げにならないように防音になってるから、何を話しても外には聞こえないよ」
そう言ってラルフは百合恵にソファを勧め、自分はその向かいの椅子に腰掛けようとしたので、百合恵はラルフの腕を掴み強引に自分の隣に座らせた。
ラルフは百合恵の行動に目を丸くし、戸惑いと切なさを混ぜた瞳を向けた。
「ユリィ?」
「私はラルフさんが何に悩んでいるのかわかりません。だけど、だけどっ・・・ラルフさんの態度は冷たくなって、ひどい・・・」
百合恵の言葉にラルフが息をのむのがわかった。
ラルフが傷つく顔を見て、百合恵は自分が言いたかったことは本当にこれだろうかと迷った。
だが胸にわだかまった想いを吐き出そうとすると、気が高ぶって冷静ではいられないし、涙も滲んでくる。
「ユリィ・・・違うんだ・・・」
「違いません!だって・・・ラルフさんは私を避けてる。目も合うし、話しかけてもくれるけど、でも・・・違う。髪に触れてくれないし、キスもしてくれないし・・・あんなに優しくしてくれたのに、今さら突き放すなんて・・・ひどいっ」
「ごめん・・・ユリィ」
「私・・・私、違うんです。本当に言いたいのは、こんな事じゃなくて・・・。私がラルフさんに伝えたいのは・・・ただ・・・」
本当に伝えたい胸の底にある想いが出てこず、百合恵はもどかし気に眉を寄せる。
その拍子に溜まっていた涙が零れ落ちた。
ラルフは堪らず百合恵に手を伸ばし、胸に抱いた。
百合恵が泣くときはいつもそうしていたように。
百合恵の髪を優しく梳きながら撫でて、彼女の言葉を待つのだ。
「ただ・・・寂しかったの。私、ラルフさんに触れてもらいたい。そうじゃないと寂しいっ・・・」