三十五話 それぞれの想い
精神的に疲れた百合恵は午後の外出をしないことに決めた。
アレクが去り、食器類が片づけられたテラス席に座ったまま、百合恵は庭を眺めていた。
綺麗に高さと形を整えられた庭木に、色とりどりの花が揺れる花壇。
百合恵の部屋の窓から見える可憐な庭の風景とは違う、この造形が美しい庭は見応えがある。
庭でさえずる鳥の声を聴きながら百合恵は自分の世界へと入っていく。
百合恵の中でアレクへの想いは過去のものとなった。
それでも大切な想いであることに変わりはない。
アレクに本心を伝えられたことを良かったと思う。
百合恵がアレクとラルフを好きになったことを、彼は責めなかった。
二人は兄弟でもあるし、常識を重んじる人なら百合恵を責めたかもしれない。
だがアレクは百合恵の想いを否定することはなかった。
それはアレクなりの気遣いであり、思いやりだと思う。
アレクが百合恵を思い出さなくても、百合恵の想いが変化しても、アレクの本質は百合恵が好きだったころの彼のままなのだろう。
そのことがわかっただけでも百合恵は嬉しかった。
まるでお気に入りの小説を読み終わった後のように、充足感と寂寥感が百合恵の体を満たしている。
どれくらいそうしていたのだろう。
百合恵はほうっと息を吐き、席を立った。
まだ部屋に帰る気にはならず、花壇のほうへ足を向け、気まぐれにどんな香りなのかと顔を花に近づけていると、背後から愛しい声が聞こえた。
「ユリィ、ただいま」
「おかえりなさい」
彼が帰ると言っていた時刻よりもまだ早いと思う。
どうして早く帰れたのと問いかけようと思い百合恵は口を開こうとしたのに、ラルフの顔を見たら今まで胸の中で大人しくしていた想いが溢れだしてきた。
百合恵はラルフの胸にそっと顔を寄せた。
「ユリィ?」
「ラルフさん。お昼にアレクと話したの。私の気持ちを全部・・・」
「兄さんと・・・。そうか」
「ずっと好きだったことと、ラルフさんのことも好きになったこと」
「俺のことも言ったのか。それは勇気がいったね」
ラルフは百合恵を優しく包み込むように抱きしめ話を聞く。
百合恵が話しやすいように、そっと髪を梳くように撫でながら。
「自分の気持ちを大切にしようと思って・・・気付いたの。アレクへの想いが過去のものになってるって。昔のアレクの姿を思い出して、それに縋ろうとしていただけだって気付いたの。だからアレクにも伝えた・・・もう好きだった想いは過去形になったって。それで、ラルフさんのそばにずっと居たいって・・・」
「ユリィ・・・ユリィ、待って」
ラルフは髪を撫でていた手を止め、百合恵の肩に手を乗せ彼女の顔を覗き込んだ。
「それって俺を選んでくれるってこと?兄さんじゃなく、俺を・・・俺だけを好きだと言ってくれるの?」
「はい・・・。ラルフさん、あなたが好きです」
「ユリィ!」
力強く百合恵を抱きしめたラルフは、ありがとうと嬉しいを何度も繰り返した。
ラルフの喜びように百合恵の胸も歓喜に満たされていく。
同時に今までどれだけラルフが百合恵を思い、心を砕いてきたかがわかり、切なくも嬉しかった。
「ユリィ」
ラルフのこの呼び方に百合恵は慣れていても胸が疼く。
甘く伸びる声は語尾がかすれるように消える。
その艶を含んだ声で自分の名前を呼ばれるのは気恥ずかしくも胸がときめく。
声と同じように妖艶な翡翠の瞳を百合恵は見つめた。
左右比べると左目が若干細くなるその笑みを百合恵は愛しいと思う。
互いの想いを伝えるように二人は唇を重ね合わせた。
あれから数日、アレクは一見変わらぬ日々を送っていた。
だが執務室で黙々と仕事をこなしながらも、胸にわだかまる感情を持て余していた。
百合恵とラルフが付き合うことは、百合恵の気持ちを確認したうえで自分も認めたことだ。
ラルフが百合恵に好意を寄せているのは知っていたし、思いが通じ合って良かったと思っている。
それなのに二人が仲良く過ごしているのを見ると胸がモヤりとするのだ。
アレクは執務机から離れ、窓辺に立ち庭を見下ろした。
ここからは先日百合恵とランチをとった庭が見渡せる。
その日、百合恵と話をして執務に戻ったアレクはなぜか仕事がはかどらず、今のように窓辺に立った。
そして抱き合うラルフと百合恵を見たのだ。
その光景を見てアレクの胸に過ったのは後悔だ。
アレクは百合恵に恋をしているわけではない。
ただラルフのものになる前に、もう少し百合恵のことを知っておけば良かったと思ったのだ。
百合恵は何度も自分と親しくなろうと行動を起こしていたのだから、それに応えてやれば良かったのかもしれない。
だがその時は百合恵に興味が沸かなかった。
アレクが百合恵を気にかけるようになったのは、彼女が仕事を始めてからだ。
そのころから百合恵は自分の感情をアレクに対しても出すようになり、魅力が生まれ始めた。
少しばかり気になる、会えば優しくしたいとアレクに思わせる存在になった。
だがそれは恋愛感情とまではいかないものだった。
まだ形になり切れない、ぼんやりとした想いだ。
自分が百合恵と恋仲になりたかったわけではない。
ラルフとの関係を壊したいわけでもない。
ただ、誰に遠慮することもなく百合恵の為人にもう少し触れたかったと思う。
アレクは雑念を払うように頭を振った。
乗馬でもして気分を変えようとアレクは部屋を出た。
ラルフと恋人同士になってからも百合恵の日常は変わらなかった。
もともと百合恵に対して甘い言動のラルフだったので、付き合ったからといってそれほど変化はないのだ。
あるとすれば、スキンシップが増加したことくらいか。
ソファでは必ず百合恵の隣に座り、その手を肩や腰に回してくるし、話すときはさりげなく手を握る。
だが百合恵を一番照れさせるのはラルフの目と声だ。
艶を含んだ翡翠の瞳と甘く掠れる声は百合恵の胸を疼かせ熱を持たせる。
いつもは無口なヘンリーでさえ「あれは毒だ」と呟いたくらいだからよっぽどだ。
恋人と同じ職場というのは、周りの目が気になるし恥ずかしいと思っていた百合恵だったが、そういうことを気にするメンバーでもなく変わらぬ態度で接してくれるので助かった。
スペンスがラルフを揶揄うこともあるが、それもいつも通りと言えばいつも通りである。
二階の事務所で事務作業をしていた百合恵とラルフは一階の店舗にいるはずのライダー夫人に声を掛けられ顔を上げた。
「社長、グランヴィル家から使いの方が急ぎだと仰っていらしています」
「うちから?いいよ、ここに通して」
百合恵とラルフの二人だけがいる事務所に程なくしてライダー夫人が使いの男性を連れてきた。
「ラルフ様、お仕事中に失礼します。執事のウィルフレッド様よりの言伝で、アレクシス様がお倒れになられ、現在医師の診察を受けられておりますが、意識はまだお戻りになっておりません。できれば早目のご帰宅を願います」
「・・・わかった。すぐに帰るから、下で待っていてくれ」
「ラルフさん・・・」
「ユリィ、聞いての通りだ。詳細はわからないが、とにかく帰ろう」
「私も一緒に行っても?」
「当たり前だ。家族同然の付き合いだろう?」
硬い表情ながらも笑いかけてくれたラルフに応えるように百合恵は頷いた。
急いで帰り支度をし一階へ降りる。
「家の都合で急遽帰ることになった。何かあれば家まで連絡をくれ」
「はい。店は任せてください」
スペンスとライダー夫人は何事かあったと察してくれ、快く送り出してくれた。
アレクは今朝までいつも通りで病の影は微塵も見えなかったのになぜ、と二人は思う。
馬車に揺られながら不安げに眉を寄せる百合恵を落ち着かせるように、ラルフがその肩を抱いた。
屋敷までの短いはずの道のりを長く感じながら、百合恵は自分を包むラルフの体温を頼りに不安に耐えた。
屋敷に着くと玄関ホールでアリスが待っていた。
「兄さんは?」
「アレクシス様の寝室でございます。まだお目覚めにならず、お医者様とウィル様が付き添われています」
アレクの寝室に入ると、ベッドに横たわるアレクの枕元には白髪の医師が、足元にはウィルが控えていた。
ラルフは百合恵を伴い、アレクの枕元に寄り医師に尋ねた。
「兄の容態は?」
「おそらく脳震盪ですな」
「のうしんとう?!病気じゃないのか?」
驚くラルフと百合恵に、控えていたウィルも驚いたような顔をした。
「アレクシス様は階段でお倒れになり頭を打たれたのです。一階まであと数段を残すだけだったので大事には至らなかったのですが。お医者様の見立てでは過労による眩暈で立ちくらみを起こし倒れられたのではないかと。念のためラルフ様にお伝えしておこうと使いを立てたのですが、どうやら詳しい事情は伝わらなかったようですね」
「ああ、兄さんが倒れたとしか・・・」
「余計なご心配をおかけし申し訳ございませんでした。アレクシス様がお倒れになったところを目にした者が数名おりましてかなり動揺しておりましたので、不安を掻きたてられ正確にお伝え出来なかったのでしょう」
「でも悪い病気じゃなくて良かったです」
そんなやり取りをしているうちに診察を終えた医師は帰り支度を済ませ立ち上がった。
「アレクシス様はもう目覚めてもおかしくない頃ですが、お疲れが溜まっているのであればもう少し長く眠られるかもしれません。頭部にこぶはありますが、その他の外傷も内出血した様子もありませんので恐らくは大丈夫だと思いますが、一晩経ってもお目覚めにならなければまたお呼びください」
「ありがとうございました」
ウィルが医師を見送るために部屋を出ていく。
問題なさそうだとわかった百合恵は知らず知らずのうちに入っていた肩の力を抜いた。
ラルフもほっとしているだろうと思い、彼を見上げた百合恵の目に映ったのは、硬い表情を解かないままアレクをじっと見つめるラルフだった。
「ラルフさん?」
「・・・ああ。よかったよね、脳震盪だけで済んで。一時はどうなることかと思ったよ」
一瞬前まで見せていた硬い表情を解いて柔らかく微笑んだラルフだったが、百合恵にはどこか不自然に見えた。
脳震盪とはいえ、目覚めるまではやはり心配なのかもしれない。
また不安げに眉を寄せ始めた百合恵に向かってラルフはもう一度微笑んで見せた。
「そんな顔しなくても兄さんは大丈夫だよ。百合恵も疲れただろう?夕食まで部屋で休んでおきなよ」
ラルフに自分のことまで心配させてはいけないと思い、百合恵はラルフの言葉に従い部屋で休むことにした。
アレクとラルフの二人だけになった部屋で、ラルフはため息とともにぽつりと呟いた。
「まさか・・・」
ラルフの言葉に反応を見せることなくアレクの瞼は閉じられたままだった。