三十四話 分岐点
百合恵は気付いた思いに動揺したが、アリスが呼びに来たため朝食に向かった。
アレクもラルフもいつも通りなのに、百合恵は違いを感じてしまう。
自分の見方が変わっただけなのに、彼らの態度が変化したように思えるのだ。
アレクへの想いが過去のものだったと思うと、アレクを落ち着いた目で見ることが出来る。
そうするとアレクから感じていた威圧感のようなものが消えた。
自分の想いがラルフに傾き、いつの間にかラルフ一人を好きになっていたと思うと、彼の仕草や視線がやけに甘やかに感じる。
百合恵は自分の心持ちひとつでこうも違って見えるものかと戸惑いを感じながらも食事を口に運んだ。
「ユリィは今日は一日休みだよね。もし出かけるんだったらアリスに付き添ってもらえばいいよ」
「はい。まだ予定は立ててないんですけど。お家でのんびりしたいような、雰囲気の良いところでお茶をしたいような、迷ってるところです。ラルフさんはどうされるんですか?」
「俺は仕事なんだ。ユリィと一緒にやってる王都の店は休みなんだけど、領地でも一店舗経営してるし、直接携わってはいないけど出資してる店も数店あるんだ。今日はその関連でね。夕方までには終わると思うけど。兄さんは?」
「私も仕事だ。領地からの書類に不備があって問い合わせているところだ。その返事待ちもあって今日は屋敷にいる予定だ」
「久しぶりに私がお茶を運びましょうか?」
「・・・いや、せっかくの休みだ。ゆっくりするといい」
軽い気持ちでアレクに提案した百合恵は、その自分の気持ちの軽やかさに内心驚いていた。
気に入られようとする下心なく気軽に言葉が意識せずに出た。
だから断られても、アレクに拒絶されたと傷つくことなく、平気でいられた。
それどころかアレクの労りを感じすらした。
ゆるく微笑みながら言ってくれたアレクは自然な笑みだったと百合恵は思う。
百合恵が好きな左の口角を上げる笑い方ではないけれど、社交辞令のような完璧な笑みでもなく、ごく自然に笑いかけてくれた。
温かさと懐かしさ、そして少しの切なさが百合恵の胸を過った。
食事が終わるとアレクがウィルと話し込んだため、ラルフと百合恵は二人で食堂を出た。
「ユリィ、今ラバンデュラの香水をつけてる?」
「はい。もしかしてきつく付けすぎてますか?」
「そんなことないよ。隣に並んだ今、薄っすらと香っただけだから。でも俺が付けるのと少し香り立ちが違う気がするな。ちょっと確かめさせて」
言うが早いかラルフの腕が百合恵を抱き寄せようと伸びて腰に回った。
百合恵は慌てて手首をラルフの顔の前に近づける。
「香りならここで。今日は仕事じゃないし、少し香るくらいはいいかと思って手首に付けたんです」
「なんだ、残念」
そう言いながらもラルフの手が百合恵の伸ばした手を握り固定すると、軽く首を傾けさらに顔を寄せた。
百合恵の手首にはラルフの唇が当たっている。
これでは香りを嗅いでいるというよりキスをしているようだ。
「ラルフさん・・・」
百合恵が恥ずかし気に声を上げると、ラルフは百合恵の手首から顔を離し、今度は耳元に口を寄せてきた。
「ユリィの香りだ。とても似合ってる」
耳元でささやくラルフの声が百合恵の腰から背中にかけて甘い痺れを起こす。
赤くなった顔を隠すように百合恵が俯いたとき、背後から声が掛けられた。
「食堂の前で何をやっているんだ」
食堂に残っていたアレクとウィルが出てきたのだ。
二人の登場を特に気にする風もなくラルフは百合恵の手を握ったまま、傾けた体を起こした。
「うん?出かける前にユリィを可愛がっておこうと思って」
「揶揄っているの間違いじゃないのか」
「いたって真面目だよ」
「大丈夫か?」
アレクが呆れた目でラルフを見遣り、顔を赤くしている百合恵に声を掛けた。
百合恵はラルフの囁き声に反応した自分をアレクとウィルに見られた恥ずかしさで余計に顔を赤くし、アレクの言葉に頷くことで精いっぱいだった。
自分の部屋に戻るまで百合恵は顔のほてりが治まらなかった。
結局、午前中は部屋でのんびりと過ごした百合恵は午後はどこかへ行ってみようかと考えを巡らせていた。
そこへウィルがやって来た。
「ユリ様。よろしければテラスでランチをご一緒にどうかとアレクシス様が仰っていますが、いかがでしょうか?」
「テラスですか?」
「はい。朝食の席でユリ様が雰囲気のよい所でお茶をしたいと仰られていらしたので、アレクシス様がテラスはどうかと。今日は天気も良いですし、当家の庭も美しいですよ」
「ではお願いします」
ウィルに案内された場所は、百合恵がまだ屋敷に閉じこもっていた頃に何度か散歩したことがある場所だった。
ここでピクニックでもしたら気持ち良さそうだと思った記憶がある。
テーブルには真っ白なクロスがかけられ、裾がそよ風に軽く揺れている。
アレクはまだ来ていなかったので、百合恵は席に着かず庭の花を近くで眺めていた。
「待たせたな」
五分も経たぬうちにアレクが来て百合恵を席に座らせてくれた。
アレクも席に着くと食事が運ばれてきた。
「アレク様、ありがとうございます。素敵な席を用意してくださって」
「ああ。母がここを気に入っていて、たまに茶会にも使っていたからな。女性は好きかと思ったんだ。私も今日は外出しないし気晴らしだ」
百合恵は隣に座るアレクの顔を見ながら、とても穏やかな気持ちで食事をすることができた。
アレクにこの場所に誘ってもらい素直に嬉しいと思う。
今アレクに感じているのは恋愛上の好意を通り過ぎた、家族や親友に向ける親しみに近い。
アレクとの楽しかった思い出に縋り、頑なにアレクを思い続けていた。
そんな自分を疑わなかった。
でも少しずつ、だけど確実に、気持ちは変化していった。
アレクと別れてから一年以上経ち、百合恵の中での気持ちの変化を自分自身で認め受け入れることができた。
そうしたら、辛かったアレクへの想いが穏やかに昇華した気がする。
「この屋敷に君が現れたときのことを覚えているか?」
「・・・はい」
「あの時ユリは、私が君の世界に渡って共に過ごしたと言って、私との生活の様子を語っていただろう?」
アレクが切り出した唐突とも思える話題に百合恵は驚いた。
アレクは今までこの話題を口にしたことは一度もなかった。
それは百合恵の話を信じていないか、百合恵自身に興味がないかのどちらかだと思っていた。
それが今になってこの話題を口にするとは、どういう風の吹き回しだろう。
百合恵は戸惑いに瞳を揺らせた。
「君はあの時、はっきりと口にはしなかったが、君の世界では私たちは恋人のような関係だったのではないか?」
「・・・はい」
「やはりな。君の好意はわかりやすい。現れたときも、それ以降の生活でも、君からの好意を感じていた。だが今はラルフに好意を寄せている。違うか?」
「そうです」
「私が靡かないとわかったからラルフに鞍替えか。それともラルフには爵位はなくとも財産はあると見越してのことか」
「違います・・・」
「ラルフは優しいし面倒見も良い。そこに付け込んで誘惑した目的は何だ?」
アレクの口調はまるで尋問のように厳しく、アイスブルーの瞳は冷たく鋭い。
百合恵はアレクに親しみさえ覚えるようになったというのに、今のアレクは百合恵がこちらに来た当初以上に冷たく威圧感に満ちた雰囲気で百合恵を圧してくる。
百合恵は悲しみに胸が軋んだ。
自分の想いをアレクに誤解され責められている。
他の誰でもない、別れるその時まで心を通わせていたアレクに。
百合恵の目に涙がせり上がってきたが、それを食い止めるように唇を引き締めた。
泣いてしまいたいが、今は泣くよりも優先したいことがある。
百合恵はアレクに自分の本心を伝えたい。
ラルフに気持ちを伝えるときも勇気がいったが、百合恵はラルフにどんな自分も否定されることはないという信頼を寄せていたため、言葉にすることができた。
だが今のアレクとは信頼関係を築けていない百合恵は、勇気を振り絞らなければならなかった。
それでも自分の気持ちを大切にするため、百合恵は口を開いた。
「私は確かにあなたのことが好きでした。そしてラルフさんのことも好きになりました。同時に二人を好きになるなんて不誠実だと思うこともありましたが、私にとってどちらへの想いも偽物じゃなく大切なものでした。それは地位とか財産に惹かれたからではありません。私の世界で見せてくれたあなたの優しさに惹かれて好きになったし、この世界で何もできない私を否定せず受け入れてくれるラルフさんを好きになったんです。私はよく自分の気持ちを見失うし迷いもするけど、それでも自分を大切にしたいって思えるようになったんです。そうしたらあなたへの想いは過去のあなたに縋ってるだけだって気付いたし、これからもラルフさんのそばに居たいって心から思うようになりました。だから、財産とか目的とかそういうのはないです」
百合恵はアイスブルーの瞳を睨み付けるように見つめながら、偽りのない本心を語った。
べつに怒って睨み付けたわけではなく、力を抜くと涙が零れそうだったからだ。
アレクは纏っていた威圧的な空気を和らげると、百合恵の目にハンカチを当てた。
「泣かせたかったわけではない。ユリの本心を確認したかっただけだ。知っての通りラルフは自ら商売を手掛けるなど貴族としては型破りだ。同調する仲間も集まるが、見下し蹴落とそうとする輩もいる。ラルフは仲間を選ぶことも、悪意を受け流すこともできる奴だ。だが君は違うだろう。私が駄目だったからと言って安易にラルフに流れるようでは、この先上手くいかないだろう。だからユリの気持ちのほどを知りたかった。試すような真似をしてすまなかった」
「いいえ、本音を話す機会が出来て良かったです」
「そうか・・・。私はいつの間にか振られていたわけだな」
「あ・・・」
「冗談だ」
失礼なことを言ってしまったかと焦る百合恵を見て、アレクは自然な笑みを残し仕事へと戻っていった。
アレクの背中を見送った百合恵は緊張が解け背もたれに体重をかけた。
アレクに伝えてしまった本心に今さらながら動揺する。
この世界に来てアレクに面と向かって好きだと告げたことはなかった。
それを今日、告げてしまった。
もう過去の想いとして。
それは百合恵の中で、アレクと自分の道が分かれた瞬間だった。