三十三話 あの人の香り2
百合恵は休憩室に戻りソファに座ると頭を背もたれに乗せて息を吐きだし力を抜いた。
特に疲れは感じていないと思っていたが、こうして座ってしまうと、もう立ち上がるのが億劫になり、足を投げ出してしまう。
「はぁ〜」
「お疲れ様」
「ラルフさん!」
ソファに体を投げ出した百合恵の姿を見て笑いながらラルフが部屋に入ってきた。
百合恵は慌てて上体を起こし、きちんと座り直す。
「疲れてるんだろう?そのままでもいいよ。楽にしてて」
ラルフは百合恵の隣に腰を下ろすと、ティーポットから紅茶を注ぎ、百合恵に渡してくれた。
「少しぬるいかもしれないけど」
「大丈夫ですよ。ティコージーが被せてあったから、まだ温かいです」
疲れたときでもこの紅茶の香りは優しくて心地良い。
もう一口飲んで、百合恵はあることに気が付いた。
「あっ・・・もしかして」
「どうした?」
「ラルフさんの匂いと同じかも」
「俺の匂い?」
ラルフは怪訝な表情をしたが、百合恵は喉に刺さっていた小骨が取れたみたいに謎が解けてすっきりした表情だ。
「気になっていたんです。この紅茶を初めて飲んだ時に懐かしい香りだなって感じたんですけど、ラバンデュラの花も知らないし何故そう感じたのかわからなかったんです。でも今、気が付きました。ラルフさんと同じ香りですよね?」
「ああ、確かにラバンデュラの香水を付けているけど。よく気が付いたね。商品を説明する時は自分の香りが邪魔になる時もあるから、ほんの少ししか付けていないんだけど」
「たぶん、あの時だと思います。ほら、私・・・何度かラルフさんの胸で泣いたことがあるから」
確かにラルフの香りは、すれ違ったり隣に並んだだけではわからない。
その体に触れるくらい近くにいないと香らないのだ。
それを思うと、百合恵は恥ずかしいことを言った気がして照れてしまった。
ラルフは百合恵が自分の香りを無意識でも懐かしいと心に留めてくれたことが嬉しかった。
「ユリィはこの紅茶の香りをとても気に入っているよね。そんなに好き?」
「はい。いつも嗅いでいたいくらいです」
「じゃあ俺の香りは?同じラバンデュラでも香水だから香り立ちは少し違うと思うけど?」
ラルフの翡翠の瞳が妖しい輝きを帯びて百合恵を見つめている。
左目を細めて百合恵を見つめるラルフの口元は微笑んでいるはずなのに、百合恵には何故か舌舐めずりをしているように見えた。
「ええと。あの時は興奮してたから、その・・・そんなに意識して嗅いでたわけじゃないし・・・」
「そうか。じゃあ今 比べてみて」
急に色気を纏ったラルフの雰囲気に負けて、しどろもどろに答えた百合恵を、ラルフは自分の胸に引き寄せて抱き締めた。
「よく嗅いで。俺の香りを覚えて」
「ラルフさん・・・」
突然抱き締められた百合恵は胸が煩いくらいに暴れて香りを嗅ぐどころではなかったが、ラルフに百合恵を離す気配はなく、戸惑う百合恵の背をあやすように撫でている。
徐々に百合恵の鼓動も収まってきて、とにかくラルフの要望通り彼の香りを確かめようと百合恵はラルフの胸に顔を埋めた。
同時に背を撫でていたラルフの手が止まり軽く身じろぎしたので、百合恵は慌てて顔を話そうとしたが、反対にラルフの手からさらに抱き込まれてしまった。
その勢いで百合恵の体勢が崩れ、縋る形でラルフの背に手を回したため、まるできつく抱きしめ合うようになってしまった。
「あのっ。私、ラルフさんの香りも好きです。落ち込んでたり辛いときに、ラルフさんと一緒にそばにいてくれた香りだから、落ち着きます。なんていうか、紅茶もそうなんですけど、ラバンデュラの香りを嗅ぐとラルフさんを感じるっていうか・・・とにかく無条件に好きなんです」
「ユリィ・・・。それは香りのことだけ?俺のことも香りと同じように好きだと感じる?」
百合恵は抱き締められた興奮と勢いで思いつくまま言葉を紡いでしまった。
ここでさらなる本音を言ってしまうことに迷う。
だがいつも百合恵のことを気遣ってくれるラルフに対して誤魔化すことをしたくないと百合恵は思った。
「私はまだアレクのことを好きだという想いがあります。でもラルフさんのことも気になって、ずっと心にあるっていうか・・・好きです」
「ユリィ!」
百合恵はさらに強くラルフに抱き寄せられた。
好きな人が二人いることを本人に知られたら軽蔑されるかもしれないし、嫌われるかもしれない。
今まで優しく気遣ってくれた関係が壊れるかもしれない。
百合恵はそんな恐れを抱き、「不誠実でごめんなさい」「いずれ気持ちが定まるかもしれないので軽蔑しないでください」と言い訳めいた謝罪をしたくなった。
でも百合恵の胸にはアリスから教えられたラルフの母親の言葉がある。
アレクとラルフに対する百合恵の気持ちは不誠実なものではない。
百合恵は本当に好きだと感じているのだから、そこに言い訳はしたくない。
だから好きだという思いだけをラルフに伝えた。
「ユリィ、ありがとう。俺はたぶんユリィの気持ちをわかっている。兄さんを好きな気持ちも、俺に惹かれてくれた気持ちも。だけど、ユリィの言葉で聞かせてもらえたから、本当に嬉しいよ」
「ラルフさん・・・」
「大丈夫。いずれは俺だけを思ってほしいけど、それをユリィに強要するつもりはないから」
ラルフは百合恵を強く抱き締めていた腕を緩め、百合恵の顔を覗き込んだ。
翡翠の瞳を妖しく煌めかせたまま左目を細めている。
「でも俺はユリィが好きだから、その想いを伝えることは遠慮しないよ」
翡翠の瞳に絡め取られた百合恵は、ラルフの唇が彼女の口の端に落ちるのを許してしまった。
百合恵の部屋にラバンデュラの香水がラルフより届けられたのは、その日の夜のことだった。
シンプルだがカッティングの美しいガラス瓶の香水にはアトマイザーも添えられており、ラルフらしい気配りを感じさせた。
百合恵は試しに手首に一噴きしてみると、優しい甘さと清涼さを兼ね備えた香りが広がった。
ラルフから抱き寄せられたときに感じた香りとは少し異なる気がするのは、その人の体温によって香り立ちが変化するためだろうか。
きつい香りが苦手な百合恵は今まで香水をつけたことがなかったが、これはずっとつけていられる気がする。
百合恵は心地良い香りに包まれて眠りについた。
翌朝、朝の支度を終えた百合恵は鏡台の前で悩んでいた。
洗顔を終えたとき、ふと手首に鼻を近づけると、昨夜つけた香りはもう消えていた。
付ける量が少なかったのか、天然の香りのため消えるのが早いのかはわからないが、あの香りを気に入っている百合恵はもう一度付けようと思った。
そうして鏡台に置いていた香水を取ろうとしたとき、あることに気が付いた。
このあとの朝食ではラルフだけではなくアレクにも会うのだ。
アレクの前でラルフと同じ香りを纏うのはどうかと思う。
ラルフの香りは体を寄せないとわからないほど仄かだし、百合恵自身も同じようにするつもりでいる。
今朝百合恵がこの香りを付けたところで、アレクには百合恵がラルフと同じ香りを纏っているとはわからないはずだ。
だが百合恵はアレクに誤解されないかと気になる。
百合恵はラルフのことが好きで同じ香りを纏っていると。
ラルフのことは確かに好きだが、この香りを付けたいのは純粋にこの香りが好きだからだ。
最近、やっとアレクと普通に会話ができるようになったのに、誤解されるとまた話が出来なくなるような気がする。
アレクとの関係を壊さないためにも、今から香水をつけるのは諦めるべきか。
そこまで考えて、百合恵ははっとした。
またアレクの顔色を窺うような思考になっている。
自分の気持ちを大切に行動できるようになったと思っていたのに、逆戻りしている。
百合恵は鏡台を離れて窓辺に立ち、今までの思考をリセットするように空を見上げた。
流れる雲を見ながら息を一つ吐き、湧き上がってくる自分の気持ちを感じてみる。
あの香りが好きだということ。
自分の好きな時にあの香りを纏いたいということ。
あの香りはラルフがそばにいるようで安心するということ。
ラルフが好きだということ。
ずっとそばにいたいということ。
優しかったアレクを好きだったこと。
左の口角を上げて笑うアレクが好きだったこと。
空を見ながら浮かんでくる思いに百合恵は驚いた。
無意識の思いとでも言うのだろうか、それとも今まで自分の気持ちをしっかり感じていなかったのだろうか。
ラルフとあの香りを同一視するくらい好きになっていること。
ずっとそばにいたいと感じるほどラルフを好きになっていること。
そしてアレクへの想いが過去形なこと。
好きだと思うのは過去に二人で暮らしていた時のアレクの姿ばかりで、この世界に来てからのアレクが思い浮かばない。
百合恵はそのことに今初めて気が付いた。
ずっとラルフのそばに居たいと思うほど好きになっていたことも、アレクへの想いが過去形になっていることも百合恵にとって驚くべきことだったが、同時に腑に落ちる感覚もあった。
気付いた思いに戸惑いはするが、疑いは浮かばなかった。