三十二話 あの人の香り
それから数週間過ぎ、百合恵は順調に仕事に慣れていった。
ラルフや同僚の気遣いあってのものだったが、百合恵は卑屈になることなく有難く助けてもらっていた。
ラルフは百合恵が失敗してもいいと思っているようで、先回りしてフォローすることはなかったが、百合恵が落ち込んむことがあれば必ず笑顔をくれた。
失敗を責めるのでも嘲笑するのでもない、それでも大丈夫だと言ってくれるようなラルフの笑顔が百合恵は好きだった。
元気付けるために明るく振る舞ったり、気持ちを鼓舞するような激励の言葉をかける訳ではないが、ラルフの存在は百合恵を安心させた。
同僚たちも同じように感じているらしく、ラルフの職場の信頼関係は心地良かった。
ある日、スペンスと百合恵が一階で店番をしているとアレクが訪ねてきた。
「アレク様⁈どうしたんですか?」
「急にノートン卿を訪ねることになったので手土産を選びに来た。見繕ってもらえるか」
百合恵は夜会の時にチラリと遠目で見たことがあるだけで、ノートン卿のことを知らなかった。
折角アレクが来てくれたのに役に立てず残念だが適任者に振ることにした。
「スペンスさん。ノートン卿への手土産を見てもらえませんか?私、思いつかなくて」
「いいですよ。アレクシス様、こちらへ・・・」
アレクは頷いてスペンスのあとに続いた。
スペンスに二〜三点商品を紹介されているアレクを見て、百合恵は不思議な感じがした。
アレクを穏やかに見ている自分がいるからだ。
以前なら折角アレクがお店に来てくれたのだから、アレクのために何かしたいと意気込んだり、アレクに認められたいとお勧めの商品を自分で必死に考えていると思う。
今回はそんな気が起きず、さらりとスペンスにお願いできた。
百合恵が働き始めたのはアレクのことばかり気にしている自分が嫌だったからということもある。
しかし今はアレクの顔色を窺って機嫌を取ろうとしていた自分から解放されて、気負いなくアレクを見ている自分がいる。
ここで働くことを選択したのは正解だった。
百合恵は変われた自分が頼もしくあった。
ひとり感慨にふけっていると、スペンスから声をかけられた。
「ユリさん、夫人への贈り物を見てください。私はこちらの商品を包んでいますので」
「はい」
アレクを見ると、すでに百合恵のそばへ来ようとしていた。
すぐに隣に並んだアレクを百合恵は見上げる。
アレクの隣に並んだのは久しぶりだった。
同じ屋敷に住んでいるが、食事以外で会うことは少なく、会っても廊下ですれ違うくらいだ。
「夫人の好みとかご存知ですか?」
「・・・以前夕食のときに、ユリが仕入れたと言っていた紅茶が見たい」
「えっ、覚えてくださってたんですね。ありがとうございます。これなんですよ。すっごく香りがいいんです」
百合恵は缶の蓋を開け、アレクに茶葉の具合と香りを確かめてもらった。
アレクは香りをかいで少し驚いた表情をした。
「これは・・・なるほど。良い香りだ。これをお願いしよう」
「ありがとうございます」
百合恵は先ほどのアレクの表情が、単に茶葉の香りに驚いただけには見えなかったので気になったが、すぐにスペンスがやってきたので聞くことが出来なかった。
「社長をお呼びしますか?二階の事務所にいらっしゃいますが」
「いや、どうせ夜に顔を合わせるから構わない」
百合恵は商品を詰めた袋を持ち扉の外まで見送りに出た。
ゆるい風が吹きアレクからほんのりとミントのような爽やかな香りがした。
そういえばアレクはミントをブレンドした紅茶をよく飲んでいたし、ミント系が好きなのかと百合恵はぼんやり思った。
外で待っていた従僕に商品を渡すと、笑顔でアレクを見送った。
それから数日後、この日はなぜか開店直後から忙しく、ひと段落したので休憩しようと皆で一階の休憩室に集まっていた。
念のため入り口の鍵を閉めておくように言われ百合恵は店舗へ向かうと、ちょうどアレクが店に入ってくるところだった。
「アレク様。今日もお出かけですか?」
「今日はこれから帰るところだ。よかったらこれをと思って、寄ったんだ」
「これは?」
「新しくオープンした店のチョコレートだ。この前の手土産はとても喜ばれて助かったから、そのお礼だ。今から休憩か?」
「はい」
「ちょうど良かった。皆でどうぞ」
「アレク様は?ラルフさんもいるし一緒にお茶しませんか?」
「いや、私はこれで失礼するよ。この後の仕事も頑張るんだな」
アレクはそう言うと自分で扉を開けて出ていった。
百合恵は店の中からアレクの後ろ姿を見送ると、休憩室に戻った。
テーブルにチョコレートを置き、アレクからのお礼だと伝えるとそれぞれが感想を口にした。
「兄さんが来たの?珍しいな・・・」
「いやぁ、ユリさんの手腕は見事でしたもんね。アレクシス様から差し入れを頂くなんてやりますね」
「このお店のチョコレートは珍しい味がたくさんあるのよね〜。これは何味かしら」
ちなみにヘンリーは今日は来ていない。
スペンスから変なことを言われた気もしたが、百合恵はライダー夫人と同様にチョコレートに夢中になっていた。
箱の中にはチョコレートが四列に並んでおり、右からダーク、ローズ、シトラス、ミントだった。
百合恵は色に惹かれてローズチョコを口に入れた。
香りはほのかだったが、刻んだ花びらが入っており乙女心をくすぐった。
次に目に付いたミントチョコを見てアレクを連想した百合恵は、これをわざわざ買ってお店まで来てくれたアレクの心遣いに頬が綻んだ。
ミントがキツくなくチョコの旨味が生きていて美味しかった。
その時、店の扉が開く音がした。
「あっ!鍵を閉めるのを忘れてました。私、行ってきます」
鍵を閉めるために店舗へ行ったのにアレクに会ったため忘れていた。
ラルフが口を開きかけたが、それを待たずに百合恵は部屋を飛び出して行った。
店舗に戻ると、いかにも高貴で品の良い夫人が佇んでいた。
その女性を見て百合恵はどこかで会ったことがある気がしたが思い出せない。
すると夫人の方から声をかけてきた。
「あら、あなたはグランヴィル侯爵がお預かりしているお嬢様ね。こちらにいらっしゃるということは、ラルフ様のお仕事を手伝われていらっしゃるの?」
「はい・・・。クレイニー公爵夫人。その節はありがとうございました」
先に声をかけてもらえたおかげで、このご婦人は先日招待された夜会の主催者であるクレイニー公爵夫人だとわかった。
「今日は新しいものがないかと思って伺ったのよ。いつもは御用聞きで済ませてしまうけど、ラルフ様のお店は自分で見て楽しみたいよのね」
「ありがとうございます」
「お勧めのものはある?」
「はい。新しい紅茶を仕入れまして、ラバンデュラの花の香りがとても良く・・・あの、よろしければ試飲なさいませんか?」
「まあ、試飲もできるの?」
「ふだんはないのですが、今日は裏でちょうど準備をしてましたので。少しお待ちいただけますか?」
休憩室でラバンデュラの紅茶を出していたことを思い出した百合恵は、急いで休憩室に戻った。
「あのっ、まだお湯は残ってますか?紅茶を淹れたいんですけど」
「ええ、もう一杯飲もうと思って、今淹れたところよ」
「ユリィ、どうしたの?」
「クレイニー公爵夫人がいらっしゃってるんです。ちょうどここで紅茶を淹れてたから試飲してもらおうと思って・・・。もしかしてダメでした?」
「いや、公爵夫人は特別だしね。大丈夫だよ」
話しているうちにライダー夫人がお茶を準備してくれたので、百合恵はお礼を言って店舗に戻ると、公爵夫人にカップを差し出した。
「香りが口に残らず、喉を通って抜けるんです。上質な紅茶だけの楽しみを味わえます」
「本当にそうね。香りも味も他にはないわ。来週のお茶会で出したら喜ばれそうだわ」
「お茶会でしたら、スコーンに合う花蜜もありますよ」
百合恵が花蜜の説明をするとクレイニー公爵夫人はとても関心を示し、スコーンに合う赤い花蜜だけでなく、それと一緒に仕入れたクリーミィな花蜜も購入した。
「クレイニー公爵夫人、いつもありがとうございます」
百合恵が商品を包んでいるとラルフが挨拶のために出てきた。
ラッピングに時間がかかる百合恵は、ラルフが出てきてくれたおかげで間が持てるとホッとした。
続いてスペンスとライダー夫人も出てきて公爵夫人に挨拶をすると、奥で休むようにと言って接客を変わってくれた。
百合恵がほとんど休憩せずに接客に向かったのを気遣ってのことだとわかったので、百合恵は遠慮せず休憩室へと下がった。