三十一話 ある家族の恋愛観
部屋に戻った百合恵のために、アリスが入浴の準備を進めていた。
いつもなら悩むことがあればラルフに相談する百合恵だが、さすがに今回のことは相談できない。
アレクが好きだが、ラルフも気になる。
その想いを持て余し、どちらへの想いが本当なのか見分けることが出来ず、鬱々としていた。
「ユリ様。入浴の準備が整いました」
「・・・あの、アリスさん。ちょっとした質問があるんですけど」
「なんでしょうか?」
「あの、例えばですけど。例えば同時に二人を好きになったときってどうします?」
「は?」
「あっ。なんとなく、そんな時はどうしたらいいのかなぁって思っただけで。深い意味はないので・・・」
「ええと。そのままでいればいいんじゃないですか?」
「え・・・。そのままですか」
「はい。好きな人が二人いて、ユリ様は何か困ります?」
「どちらかに選べないというか。自分の本当の気持ちがどちらにあるのかわからないことが困るというか・・・」
「どちらかへの想いが偽物だと決めつけることはないと思いますよ」
「・・・」
「例えば、嫌いな人って何人もいるじゃないですか。苦手な人とか、興味のわかない人とかも、複数いても不思議ではないですよね。それと同じで好きな人が何人いてもいいと思いますし、自然なことだと思います。感情の中で好きという思いだけを神聖視しなくてもいいはずです」
「でも・・・二人同時に好きなんて、相手に失礼な気がして」
「それは相手の問題です。ユリ様を独占したくてもできなくて寂しい思いをするのは相手であって、ユリ様ではありません。もしかしたら相手の方はユリ様の好意が少しでも自分にあれば嬉しいと思う方かもしれませんし。それが嫌ならユリ様が決断しなくても相手から離れていくと思いますし。ユリ様が二人を想っていて幸せなら、なんの問題もないと思います」
百合恵は目からウロコが落ちるような思いでアリスの言葉に耳を傾けていた。
百合恵は自分の中に恋心が二つあるなら、どちらかが本物で、もう一方は錯覚が見せる偽物だと思っていた。
でも実際はどちらにも本当に惹かれており、どちらも切り捨てられず困っていたのだ。
そして世間の常識から見て不誠実な自分を恥じていた。
だから今、アリスからこんな風に自分の思いを認められるとは思いもしなかった。
どちらかの想いを無理に抑えなくても、そのままでもいい。
そのまま自分に芽生えた想いを大切に感じていたら、ずっと二人を好きなままかもしれないし、いずれ一人だけに想いを傾ける日が来るかもしれない。
自分の気持ちは不誠実なものでも恥ずべきものでもなかった。
そもそも百合恵はまだどちらとも付き合っていないし、好きだと言われたわけでもないのだ。
こうして悩んでいること自体、おこがましい気がしてきた。
「アリスさん・・・。そんな風に考えたこと、今まで一度もなかったので、ショックというか・・・衝撃で自分の心の壁が壊れて、軽くなった気がします」
「実はこれ、グランヴィルの奥様の受け売りなんです」
「アレク様やラルフさんのお母様?」
「はい。奥様がまだこちらのお屋敷にいらした頃、仲の良いご婦人方とお茶会をなさった時に、とあるご婦人に今のように仰っていらして。私もその言葉が印象深くて覚えていたんです」
以前ラルフの口からご両親の話を聞いたことがあるが、その時は自分の気持ちに忠実な方だという印象を受けた。
今回の話で、常識に囚われない奔放な女性像が百合恵の脳裏に浮かんだ。
一度お会いしてみたいと思いながら、アリスにお礼を言って、百合恵は入浴に取り掛かった。
アリスとの会話のおかげで、翌日の朝食の席でアレクやラルフと顔を合わせる時に百合恵は気負わずにいられた。
「ユリィ、今朝は機嫌が良いね?いつもより明るい気がするけど」
「そうですか?いつもと同じ寝起きだったんですけど」
ラルフと百合恵が互いに首をひねっていると、アレクが会話に加わった。
「昨日、早目に部屋に戻って休んだからじゃないのか?疲れが取れたんだろう」
「ああ。あの後、部屋でアリスさんと話したんですよ。そのせいかもしれません」
「アリスと?」
「アリスと話しただけで元気になる?会話の内容が気になるところだね」
「ラルフ・・・」
女性の会話を知りたがるラルフをアレクがたしなめる。
もちろんラルフの発言は冗談だとわかっているが、百合恵もその軽口にのった。
「ダメですよ、ラルフさん。ガールズトークは秘密です」
いたずらっぽく片目を瞑って見せた百合恵に、ラルフは目元を朱に染め、アレクは目を瞠った。
今までの百合恵はそんな軽口は叩かなかったし、ウィンクを投げかけるような熟れた表情も見せたことはなかった。
「ユリィ。本当に、何を話したの・・・」
ラルフは目元を片手で覆い天を仰ぎ呟いた。
アレクはその横で呆然としていた。
その後百合恵はいつも通り過ごし、ラルフと共に仕事に出かけた。
今日は主にライダー夫人から事務作業や店舗での接客を教わった。
商品の特徴や、それを仕入れた者がそれのどんな所が気に入り、どんな思い入れがあるのかなどを教わると、商品一つひとつに物語があるようで興味深かった。
自分が仕入れに携わっていない商品でも愛着がわき、心からお客様にお勧め出来そうだと百合恵は思った。
二階の事務所で教わったばかりの雑務をこなしているとラルフがデスクから声をかけてきた。
「ユリィ。昨日仕入れを決めた商品だけど、販売価格はいくらにしたい?」
「えっ。自分で決めれるんですか?」
「ああ、基本的には。仕入れを決めた者が一番その商品の適正価格をわかっていると思うしね。最終判断は俺がするけど、ほとんど任せてるよ」
百合恵は自分が価格を決めるとは思ってもみなかったので戸惑いが大きかった。
事務所にはラルフの他にライダー夫人と今日初めて会ったヘンリーがいる。
百合恵は席を立ち、ラルフのデスクにまわった。
「私、この国の相場や金銭感覚がまだ理解できてないんです」
他の人に知られる訳にはいかないため、ラルフの耳元でこっそりと告げた。
ラルフは耳元をくすぐる百合恵の息と声に体が反応し一瞬息を止めたが、話の内容を聞きいて真面目な表情を取り繕った。
「ユリィ、今から出掛けられる?」
「え?はい、大丈夫ですけど」
「じゃあ外出先から直帰するからデスク周りを片付けておいて」
百合恵はわけがわからないまま、ラルフに言われた通り机に広げていた書類を片付けた。
「市場調査に行ってくる。直帰するから、あとは宜しくね」
「はい」
事務所に残る二人に声をかけると、ライダー夫人から返事があった。
ラルフの後を追って百合恵も一階へ降りると、ラルフはスペンスにも同じ言葉をかけていた。
「素直にデートって言ったらどうですか?」
そう返したスペンスに苦笑しながら、ラルフは百合恵を外へ誘った。
馬車に乗り、ラルフに連れてこられたのは紅茶専門店だった。
「実際に見たほうがわかりやすいから。この店では茶葉のグレードに合わせて一種類ずつ試飲させてくれるんだ。味と値段のバランスを感じてみるといいよ」
百合恵は試飲してみて、この店の最高グレードの茶葉は自分が選んだ商品と近いと感じた。
その後は高級な雰囲気の漂う食料品店に入り、同じように花蜜を試食させてもらった。
だがこの店の花蜜はどれも自分が選んだ物より劣る気がした。
店の近くにあるティーサロンに入り一息つくと、百合恵は感じたことをラルフに話した。
「紅茶はあのお店の最高グレードに近かったですけど、あの香りは他には無いから、もう少し高価な値を付けてもいいと思いました。花蜜はあのお店よりも遥かにグレードが高いものだと感じました。正直あの倍は付けてもいいと思いましたけど、さすがに高価過ぎますよね・・・」
「こういうのは感覚頼りなんだよね。自分が選んだ商品の魅力を一番感じているのは自分だから、自分の中でその商品に対してしっくりくる価格があるはずなんだ」
「感覚ですか・・・」
「うん。相場を知らないことには値段を付けようがないからうちと違う店を見せたんだけど、それに流されないで。この値段なら売れやすいとか、割安感があるとかは考えないでいいから。百合恵が選んだ商品の魅力はいくらなのか感じたままの金額を言っていいよ」
百合恵はその言葉に勇気付けられ自分の感覚を信じて、紅茶には他の店で見た価格の二割り増しの価格を、花蜜は倍の価格をラルフに提案してみた。
「わかった。それでやってみようか」
百合恵は無謀なチャレンジをしているようで手に汗を握っていたが、あっさりとしたラルフの返事と、大丈夫だと勇気付けるような彼の笑顔に、ゆるゆると全身の力を抜いた。
そんな百合恵を見守ることがラルフは好きだった。
ラルフは百合恵が仕事で得た自信を自分自身の価値に繋げたがっていることに気付いていた。
仕事で得た自信を自分の価値にするということは、仕事が上手くいかないと自分の存在意義を見いだせなくなってしまう。
ラルフは仕事をして自信を得たのではなく、自分を信頼しているから今の仕事を自分のやり方で楽しめているのだ。
百合恵は自分の感覚を信じだからこそ仕事ができたのだとすぐに気付くだろう。
ラルフは百合恵が自分と仕事をすることで、彼女が本来持っていた自信を取り戻すことができると信じている。
出会った頃の百合恵は頼りなさが前面に出ていたが、今は頑なさが取れて、しなやかな魅力が芽吹いてきている。
百合恵の魅力が花開くのをそばで見ていたいし、彼女が望むなら手助けをしたい。
そしてその後も百合恵の一番近くにいるのは自分でありたいとラルフは願っている。