三十話 素直な言葉
「ユリィ。気に入る商品はあった?」
ラルフの声に百合恵は驚いて彼の顔を見た。
声をかけられたことに驚いた訳ではない。
その呼び方に驚いたのだ。
ラルフが「ユリィ」と呼ぶときは、いつも甘さを含んでいて、まるで恋人のような雰囲気になってしまう。
だが今はいつも通りの声音だった。
いくぶん甘さを含んでいるようにも感じたが、ラルフはいつも通りでそんな雰囲気を漂わせてはいない。
百合恵は違和感を覚えて、ラルフの目を覗き込んだ。
「ラルフさん?」
「ん?好きなものは見つからなかった?」
百合恵は気恥ずかしい思いでラルフから目を逸らした。
なんだか胸がむずむずする。
「ユリィ」と呼ぶ声に甘さが無くなった訳ではないのだ。
百合恵に向ける言葉全てに甘さが混じるようになったため、目立たなくなっただけだった。
「ええと・・・。試飲させてもらった紅茶がとても好きでした。味も香りもすごくよかったですし」
「うちでも飲みたいくらい?」
「はい。自分用に欲しいくらいです」
「わかった。花蜜はどうだった?」
「ううん〜、迷いますね。赤い方は色と香りが良くてときめくし、でも味は最後に試食した方がクリーミィで絶品だったし」
「その二つが食卓に並んでたら嬉しい?」
「もちろん。クリーミィな花蜜はバタートーストにたっぷり塗って食べたいですね〜。それだけで朝食が豪華になる気がします。赤い花蜜はスコーンと一緒がいいです。あの色と香りはテンションが上がりますよ」
「なるほど」
花蜜の食べ方を勢いよく話した百合恵は、食い意地が張っていると思われるかもしれないとほんのり頬を赤らめた。
そんな百合恵の頬をラルフの指が撫でる。
「良い感性だね」
ラルフは百合恵の頬から指を離し、商人に目を向けた。
「聞いての通りだ。彼女が気に入った三つの商品もお願いするよ」
「ありがとうございます」
商人の口元には笑みが浮かべられているが、その目は笑ってはいない。
ラルフが書類にサインをするため、もう一人の商人の方へ行くと、残された商人は目元を緩め百合恵に話しかけた。
「気に入っていただけ光栄です。今の商品のことで何か質問がございましたら、いつでもご連絡ください。他の商品が見たくなった時でも構いませんよ。ご連絡をお待ちしております」
商人はそう言って百合恵に自分の名刺を渡し手を握ると片付けを始めた。
商人達が帰ったあと、スペンスとライダー夫人は一階の店舗に、ラルフと百合恵は二階の事務所に移動した。
「初めての仕入れは楽しめたみたいだね」
「はい。イメージしていたのと違いましたけど楽しかったです」
「イメージ?」
「市場調査をして求められている物や売れそうな物を仕入れるみたいな」
「ああ、そういうことか。そういうのは他の店がやってくれるからね。だから俺たちは自分の気に入ったものを店に置いて、それが好きだっていう人に買ってもらうだけのシンプルなやり方なんだ。商品は本当に好きなものしか置かないから品質には自信があるし、お客様も俺たちのファンになってくれるんだよ」
「理想的ですね、お客様とのそういう関係って」
そんな環境で仕事ができることに百合恵の胸は踊った。
ラルフも自分の職場で楽しそうにしている百合恵を見て目を細めた。
「あっ。ラルフさんにお渡しするものがあったんです。忘れるところでした」
百合恵は一枚の紙を取り出してラルフに渡した。
「名刺?」
「はい。私の相手をしてくれていた商人の方から渡されたんです。何か質問があれば連絡してほしいと。ラルフさんにお渡ししておいた方がいいと思って」
「・・・そう。預かっておくよ」
その名刺は商人が所属する会社のものではなく、個人的なものだった。
ラルフが牽制したにも関わらず、百合恵と個人的に接触を持ちたかった商人の悪あがきだろう。
商人の意図を何も気付いてない百合恵に苦笑が漏れた。
「ユリィ、仕入れ後の作業を教えようか」
ラルフは百合恵に極上の笑みを向けて仕事についた。
ラルフと百合恵が帰宅した時、ちょうどアレクも外出先から戻ってきた。
この一週間アレクは外出が多く、百合恵がアレクに午後のお茶を運ぶことは無くなっていた。
アレクと会話ができるのは食事の時間だけなので、百合恵はその少ないチャンスの中で、アレクに気に入られるような気の利いた話をしたい、アレクの好む反応を返したいという思いがあり、頭の中で色々考えてから口を開いていた。
会話が弾めば嬉しいが、無理をしている感もあり疲れることも確かだった。
ラルフの元で働くと決まってから、百合恵は自分の気持ちを大切にするよう意識してきた。
アレクに気に入られるかどうかではなく、自分がどう思うかを素直に伝えるようにしたかった。
嫌われたくないという思いは根強く、なんでもない会話でも本音を言うのは勇気が要り、結局話せないこともある。
今のようにアレクにばったり会った時は、何か話したい、自分を印象付けたいという思いと、煩わしく思われたくないという思いで百合恵はアレクに声をかけることを躊躇ってしまう。
だが百合恵が自分の心に耳を傾ければ、ただアレクと話をしたいという素直な思いが聞こえてくる。
「アレク様。おかえりなさい」
「ああ、ただいま。君たちも今 帰ったばかりか」
「はい」
たったこれだけの会話だった。
だが百合恵は素直に声をかけれたこと、アレクがそれに返事をしてくれたことが嬉しかった。
初めての職場を楽しめた高揚感と、アレクと素直な気持ちで会話できた喜びのまま夕食の席に着いた百合恵は、三人での和やかな会話をもつことができた。
「初仕事はどうだった?」
アレクからの問いかけに、いつもなら気の利いた答えを探して焦り「緊張したけど楽しかったです」と結局は無難に返してしまうか、ラルフのフォローを待つしかなかった百合恵だが、今日は思いつくまま話をした。
「とっても楽しかったんです。香りの良い紅茶があって、喉から鼻に香りが抜ける感じがいいんですよ。花の香りなのに甘すぎなくて爽やかなんです。花蜜も色々味見をさせてもらえたんですよ。それで、ときめくものと美味しいものと二種類見つけたんです」
アレクの冷静沈着な雰囲気から理路整然と話す方が好感度が上がるだろうと思っていたが、それは本来の百合恵ではない。
少し緊張したが興奮に任せて、ラルフと話すような喋り方でアレクにも話した。
「そうか。初日は気苦労が多いと思ったが、楽しめたようで良かった」
頭の悪い子を見るような視線を向けられたらどうしようと思った百合恵だったが、意外にもアレクは穏やかに百合恵を気遣う言葉をかけてくれた。
百合恵が喜びを噛み締めているあいだ、ラルフは今日の様子を語り、アレクは興味深そうに聞いていた。
会話が一区切りしたラルフの目が百合恵に向けられる。
左目を細めながら笑いかけられ、百合恵の胸がときめく。
それを誤魔化すように百合恵も笑顔を返したが、その目は動揺を隠せてはいなかった。
アレクの前でラルフにときめいてしまった。
以前からあるアレクへの想いに加え、最近ラルフに惹かれる自分を自覚するようになった百合恵は、この不誠実に思える感情を二人に知られたくなかった。
「ユリィ。今日は疲れたんじゃない?先に部屋へ戻って休んでいいよ」
百合恵の動揺を見抜いているかのようなラルフに促され、百合恵は退室させてもらった。
食堂に残ったアレクの気を引いていたのはラルフの態度だった。
もともと百合恵には親切にしていたが、今はまるで恋人のようだ。
ラルフの細められた左目が、百合恵への関心の強さを表している。
ラルフの左目が細められることは子供の頃から何度もあったが、それは主に面白い出来事に対してだ。
特定の人物にこんなに長く続くことはなかった。
アレクは百合恵が自分に向ける好意に気付いていない訳ではない。
気付いているが応える気がないため、あえて一線を引いて対応しているのだ。
最初から関心はなかったが、屋敷に滞在しているため何度も会話をする機会はあった。
そしてその会話からは百合恵の個性は見えなかった。
遠慮しているのかもしれないが、彼女の感情が感じられない会話を楽しむ気にはなれなかった。
だが今夜の百合恵はいつもと違い、彼女らしい感情の乗った言葉が並べられ、話を聞いていて楽しかった。
ラルフの想いが百合恵を変えたのだろうか。
先程の様子を見ると、百合恵もラルフに対して満更でもなさそうだ。
ラルフの想いが上手くいけばいいと思う反面、アレクはここにきて初めて百合恵に関心を持った。