三話 無力感
カーテンの隙間から朝陽が差し込み部屋が少しずつ明るさを取り戻し始める。
昨日突然起こった出来事で疲れていたせいか二人の瞼はまだ閉じられたままだ。
睡眠欲を満たし私が目覚めたのは寝坊と言っていい時間帯だった。
アレクはいつから起きていたのか、その視線を私の顔に注いでいる。
・・・反応に困るんですけど。
「きゃっ。寝顔見られちゃった」的な赤面反応をするほど乙女でもない(目ヤニがついてたら恥ずかしいくらいは思うけど)。
だからといって「あら起きてたのね」と軽く流せるほど世慣れてもいないのだ。
とりあえずここは普通にいくべきか・・・。
「あの・・・おはよう」
アレクは「おはよう」と返しつつ、今度は視線を下げていき、そしてまた私の顔を見つめる。
もの言いたげなその仕草につられて私も視線を下げてみると。
あっ。
彼の腕をしっかりと自分の胸に抱きこんだままだった。
異世界の侯爵様の腕を抱き枕にしてぐっすり寝込んでしまった。
「あ~。なんていうか・・・ごめんね。しびれちゃった?」
「いや」
アイスブルーの瞳が揶揄いを含んだように細められて、左の口角が少しだけ上がる。
あ、この表情。
皮肉げに、でも優しく。
昨夜も見せてくれたその笑みを好きだと思った。
今日はアレクと一緒に彼の身の回りの物を揃えるため買い物に行くつもりだ。
手っ取り早くトーストとミルクティーを準備して、私は自家製イチゴジャムをのせたトーストにかぶりついた。
向かいの席に座ったアレクは、トーストを一口サイズにちぎりジャムをのせている。
「なにやってんの。トーストはかぶりつくのが美味しい食べ方でしょ」
アレクはそれを無作法だという。
私と彼は熱くトーストの食べ方について意見を交し合い、結局は彼が折れてトーストにはかぶりつくことが我が家のルールとなった。
それから二駅先のショッピングモールに出かける途中、アレクは道行く車に驚き、電車に乗ると興奮を隠しきれずに目線があちこちへ飛ぶ。
昨日に比べ感情を出すようになった彼は、車窓に流れる景色を見ながら眩しそうに目を細めた。
全国展開するプチプラで有名なショップでアレクの服を見繕っていると、なぜか彼の様子がおかしい。
一点を見つめて固まっている。
「アレク、どうしたの?疲れた?」
ゆっくりと振り返る彼は困惑の表情を浮かべている。
「・・・ないんだ」
「え?」
彼は商品についているタグを手に取っていた。
何の変哲もない、商品の値段や詳細が書かれている札だ。
「わからないんだ。なにが書かれているのか。読めない」
初めて会った時からアレクはずっと日本語をしゃべっていたから、気づかなかった。
彼はしゃべれても、読み書きができないという可能性を。
落ち込むアレクの手を引いて入ったカフェは休日らしく混み合っていたけど、運良く席を立つ人がいて座ることが出来た。
4人掛けのテーブル席の空いた椅子にどさりと買い込んだ荷物を置き、ハーブティーを二つ注文する。
「アレク・・・不安?心配ないよ、十分しゃべれるんだから。読み書きはこれから覚えていけば問題ないよ」
アレクは「それはわかってる」と返してくれたのに、そのきれいな顔に影を落としたままだ。
やはり字が読めないことは不安なのだろう。
そして不便でもある。
彼は現時点で私以外頼る術がないのだから。
私が仕事に出かけてしまえば、彼はうちで一人きり。
その長い時間を無為に過ごすことになってしまう。
この世界に慣れて外出するようになっても、標識や案内板など字が読めないと不便なことばかりだ。
「あなたまで落ち込んでどうする」
ああ、またあの笑みだ。
沈んだ私を気遣うように。
左の口角だけを上げる彼の微笑みは、今はちょっと切ない。
「読み書きができないだろうことは気が滅入る。だがそれは学べばいいだけだ。時間がかかるだろうが仕方ないさ。今、私が気にしているのは別のことだ」
たぶん。
たぶん彼は今、私にその感情を見せてくれようとしている。
昨夜私がそうお願いしたから。
そして彼が私を友人として扱うと決めたらから。
それが彼の気遣いからだとしても。
私を認めてくれているようで、ほんのりと胸が温まった。
「これまでの買い物は全て女性のあなたに支払いを任せてしまっただろう。そしてこれからも・・・。私はこの世界で収入がなく、読み書きすらできない。あなたに世話になっているのに、何もできない。情けないことだ」
しまった、と思った。
やってしまった、と。
私はどうやら彼のプライドを傷つけてしまっていたらしい。
たまたま私の部屋に来てしまった、ただそれだけの関係のはずだ。
だけど異世界に一人きりの彼を放っておくこともできなくて。
ただ助けになりたいと思っただけなのに。
でもそれを彼がどう受け取るかは考えていなかった。
彼の世界のことはよく知らないけれど、そこでは偉い身分の人だったのだ。
きっとお金持ちで人に奢ることはしても奢ってもらうということはなかったのかもしれない。
せめてこちらにいる間は心地良く過ごしてもらいたいと思ったのだけれど。
それなのに彼を落ち込ませて、私のほうこそ何もできていないじゃないか。
静かに息を吐き、温くなったハーブティーのほのかな甘みを味わう。
ちらりとアレクを見やると彼もまたお茶を口にするところだった。
私よりもずっと綺麗な所作で。
私たちはお互いに無力感を味わっている。
それでも。
きっと、ある。
できることが。知らず知らずのうちにできていることが。
さっきアレクのお茶を飲む姿を綺麗だと見惚れたように。
彼が私に向ける笑みを好きだと感じたように。
彼は私に何かをくれているのだ。
彼が意識すらしていない些細な事だとしても。
アレクが私にしてくれたように、私も素直に気持ちを伝えた。
彼が無意識に与えてくれるものがあることを。
私がそれを嬉しいと思っていることを。
彼のアイスブルーの瞳が見開かれ、頬が薄っすらと赤く染まる。
たぶん心の底から納得はしていないだろう彼に冗談っぽくお願いをした。
「じゃあさ。もし私がアレクの世界に行くことがあれば、その時は私のことを助けてね。それでチャラにしてあげる」
アレクは私が好きだといったあの笑みで「必ず助けるよ」と約束してくれた。
それから私たちはカフェを出て、平仮名や漢字の練習帳を買って帰った。