二十九話 嫉妬と蜜の味
商人と話していたラルフのところにスペンスがやってきた。
スペンスは早々に仕入れたい商品を見つけたらしく、ラルフに報告に来たのだ。
スペンスはいつも決断が早い。
彼が気に入った商品の特徴や仕入れ値を確認すると、ラルフは仕入れの許可を出した。
店番をしているライダー夫人と交代するため部屋を出ていくスペンスを見送っていると、百合恵に話しかけるもう一人の商人がラルフの目に留まった。
彼はこの店に何度も商売に来ているが、あのように柔和な表情をしたところをラルフは見たことがなかった。
ライダー夫人にも商売上の愛想笑いしか浮かべたことのない男なので、女性にだけ優しくするというわけではないはずだ。
その証拠にラルフの横にいる相棒の商人も一瞬だが意外なものを見るように眉を動かした。
嫉妬を自覚する間もなくラルフの足は百合恵のもとに向かおうとする。
ちょうどそのとき百合恵は困ったように視線を彷徨わせ、その視線がラルフを捉えたとき彼女は安堵の表情を浮かべた。
その百合恵の視線に応えてやり、ラルフが商人を見遣ると、商人はいつもの愛想笑いに戻っていた。
「ラルフさん。とても良い香りの紅茶があるんですけど、試飲させてもらってもいいですか?」
「試飲?」
商人たちは商品を仕入れてもらうために試飲試食をさせてくれることもあるが、高級な品になると香りを試すだけになることも多い。
どうしても試したい場合は仕入れる側が手数料を払って試飲や試食をする場合もあるくらいだ。
百合恵の場合、自分から試飲したいと言うとは考えにくい。
となれば、商人から言い出したのか。
商人から試飲を勧めてきた場合は、手数料は発生しない。
百合恵が指差した茶葉は明らかに高級品で、ラルフたちは以前に別の種類を手数料を払って試飲している。
もちろん、百合恵が興味があるなら手数料を払っても試飲させるつもりではいるが、この珍しい事態にラルフは商人を観察することにした。
「ユリが試したいならいいよ。ライダー夫人に湯と茶器の用意をしてもらおう」
ラルフがライダー夫人に声をかけるあいだ、商人は百合恵の目を見つめ、茶葉の産地や個性を説明している。
百合恵はそれを熱心に聞きながら頷いていた。
「もう一つ気になるものがあるんですけど。あのガラス瓶に入ったものは何ですか?」
百合恵の言葉に従い、商人は綺麗にカッティングされたガラスの容器を取り上げた。
「花蜜ですよ。お嬢様が気に入ってくださった先程の茶葉にブレンドされているラバンデュラの花の蜜です。優しい香りでクセはありませんから食べやすいですよ」
そう言って、商人はテーブルの端に置いていた布の包みから木製の棒を取り出すと、瓶から花蜜を掬ってみせた。
「さあ、口を開けて。零れてしまう前に」
商人が花蜜を掬った棒をサッと百合恵の口元に持ってきたので、百合恵は思わず口を開けて食べてしまった。
商人の手から食べさせてもらう形になった百合恵は恥ずかしさに頬を赤らめたが、商人の「どうですか?」という声に、これは試食という仕事だと思い出し、味わうことに集中した。
「うん、食べやすいです。でもさっきの紅茶の香りが良かったから、少し物足りないかも・・・」
せっかく試食させてもらったのに、不満を言うのは気が引けて勇気がいったが、これも仕事だと百合恵は素直な感想を口にした。
それを聞いた商人は特に気分を害する風もなく、目を細めて頷いている。
「それでは、こちらの赤い花蜜はどうですか?フィオ山地で採れる蜜を集めたもので花や木苺の甘い香りがしますよ」
商人は先程と同じように棒で蜜を掬い百合恵の口に運んだ。
百合恵がそれを真面目な顔で咥え感想を述べると、商人は柔らかく目元を緩め、また違う種類の蜜を咥えさせる。
その様子をラルフは唖然とした面持ちで見ていた。
花蜜自体は珍しくないが、この商人たちが取り扱っているものは希少な花から採れる蜜で高級なものばかりだ。
それを商人自ら何種類も試食させるというのは信じ難いことだった。
しかしそれ以上にラルフに衝撃を与えたのは、商人がその手で百合恵の口に花蜜を咥えさせたことだった。
それも何度も。
あれは営業以上の下心があるに違いないとラルフが視線を強めて商人に向き合おうとしたとき、ライダー夫人が横から割り込んできた。
「お湯の準備ができましたよ。淹れてもらってよろしいですか?」
「かしこまりました」
商人が百合恵のもとを離れ茶の準備を始めるのを横目に、ライダー夫人はラルフに向かってウィンクして見せた。
ライダー夫人のおかげで気を取り直したラルフは百合恵のもとに行った。
「ラルフさん。さっきまでたくさん花蜜を試食させてもらったんですよ。あの赤い花蜜が一番香りが良かったです。最後に食べたものも濃厚な味とクリーミーさがクセになりそうでしたけど」
「それなら俺にも味見させて」
最後の蜜を咥えているときに商人がお茶を淹れに行ったため、百合恵は蜜が付いた棒を持ったままだった。
ラルフが来る直前まで百合恵が咥えていた棒を取り上げると、棒の下のほうに残った蜜をラルフは舐め上げてから、それを咥えた。
その艶を含んだ仕草に百合恵の顔が一気に朱に染まる。
ラルフは左目を細めて百合恵を見つめたまま、咥えた棒を口から抜いた。
「ごちそうさま。確かにいい味だった」
ラルフの口元から目が離せない百合恵には、ラルフの言葉が意味深に聞こえる。
百合恵の視線がゆっくりとラルフの口から翡翠の瞳に移る。
百合恵の瞳に僅かに揺らめく熱を見たラルフは、その熱を消さないように、翡翠の左目を細めて百合恵をひたと見つめた。
それに煽られるように、百合恵の目が潤む。
ラルフが百合恵を絡め取る行動を取ってしまおうかと思案したとき、横槍が入った。
「お茶が入りましたよ」
商人の声にラルフが鋭い視線を投げる。
ラルフと商人の間に冷たい視線が交差したが、それも一瞬のことで、商人はすぐに愛想良くお茶を差し出してきた。
「はあ、良い香りですねー。ちゃんと香るのに強すぎなくて。口に残らずに喉に抜ける感じが好きです」
「お嬢様はこの茶葉の持ち味をしっかり楽しんでくださっていますね。もう一杯いかがですか」
商人はさりげなく百合恵のそばに戻ってきてこの茶葉に合った淹れ方などを話して聞かせる。
ラルフはそれを胸の奥がじりじりする思いで見ながら、紅茶を飲み干した。
紅茶を飲み終えたライダー夫人がラルフに歩み寄って小声で話しかけてきた。
「スペンスから聞いてましたけど、彼女がそばにいると社長は感情が豊かになるんですのね」
「この場にスペンスがいなくて良かったよ。また揶揄われるところだった」
「今の状況を見る限り、社長が気を揉む必要は無さそうですけどね。あの人がユリさんにどんな感情を持っていようと、今の彼女の関心は商品と社長以外に向いていないんですもの」
「ライダー夫人・・・」
ライダー夫人はサラリと言い放つと、今度は自分が気に入った商品について語り、ラルフから仕入れの許可を取った。
ラルフは嫉妬を覚えた自分を意外に感じていた。
百合恵がアレクを好きなことは初めから承知だが、アレクに嫉妬を覚えることはなかった。
それが百合恵と初対面の商人に対して嫉妬を覚えるとは。
百合恵を柔らかく見つめながら話す商人をしばらく見ていて、ラルフは気が付いた。
ラルフが商人の何に対して嫉妬を覚えるのか。
彼が初めから百合恵に甘い態度を取っていたからだ。
これまでの商人の慣例も気にせず、彼は百合恵の為にその興味を満たしてやった。
自らの手で優しく甘やかすように。
それはラルフがやりたかったことだった。
ラルフもこれまで百合恵に優しく接してきたが、それは百合恵が求めてきたときだったり、何かのキッカケを頼りに抑えきれず気持ちが漏れだした結果だった。
何のキッカケも理由もない状態でも、百合恵に優しくしたい。
ただ好きだから、その心のままに、甘く接したい。
百合恵に優しくする理由、甘やかす理由をいつも心のどこかで探していた。
商人は百合恵に向ける関心を素直に表し、彼女にだけ親切に優しく接している。
商人の己の欲に素直な所にラルフは嫉妬したのだ。
本当は自分がそうしたかったと。
それに気付いてしまえば、あとは簡単だ。
そうすればいいのだ。
ラルフはもう理由を探すことを止めることにした。
百合恵のアレクへの想いを邪魔しない。
自分の感情を押し付けない。
百合恵のためのように思われたその自制心は、自分の想いが百合恵から引かれないための言い訳に過ぎなかった。
ラルフは自分の感覚を信じている。
その想いに忠実になることを決めたのだった。