二十八話 新しい職場
ラルフに連れられて百合恵がグランヴィル商会を訪れたのは、それから一週間後のことだった。
出迎えてくれたのは前回百合恵が訪ねた時にもいた男性と、今回初めて会う女性の従業員だった。
「ユリ、うちの従業員のスペンス・ライダーとカトリーヌ・ライダー。彼らは夫婦なんだ」
百合恵が頷いたのを見てラルフは続ける。
「スペンス、ライダー夫人、こちらはユリ・ワタヤ。俺が異国で商談した時に出会ったお嬢さんだ。少し前から当家でお預かりしているんだ」
「よろしくお願いします」
百合恵はお辞儀をしそうになったがコルセットのせいで出来ないことに気付き、夜会のために習ったこちら風の腰を落とす形の挨拶をした。
「こちらこそよろしくお願いします。それにしても社長、商談でお嬢さんを口説いてくるなんてやりますね〜。ジャルマン国に行った時ですか?」
「ああ。ユリの出自は遥か東方の国なんだ。ご家族に付き添ってジャルマン国に滞在していたところ偶然にも縁があってね」
スペンスは社長のラルフに対して砕けた話しぶりで、ラルフも特に気にした様子はなく、ライダー夫人も隣でにこにこと話を聞いている。
仕事とプライベートをキッチリ線引きして、もっと畏まった態度でラルフに接するようにしなければならないと思っていた百合恵は肩透かしをくらった気分だ。
「ユリ。見ての通り一階は店舗になっている。左奥の扉を開けると応接兼商談室で、右奥に見える通路をいくと休憩室、その奥に階段がある。二階は事務所と在庫管理室ともう一つの休憩室。とりあえず見てみる?」
「はい」
百合恵に店内を案内するラルフを、一人はニヤニヤしながら、一人は微笑ましく思いながら見守っていた。
二階に上がり事務所に足を踏み入れた百合恵は目を丸くした。
事務所というよりは書斎という雰囲気だった。
それもとても重厚な。
濃緑の絨毯にダークブラウンの机と棚が並んでいる。
百合恵が知る無機質な感じのするオフィスとは全く異なっていた。
「正面奥が俺のデスクで、その左に並んでいるのがスペンスとライダー夫人のデスク。右側のはユリとヘンリーのね」
「ヘンリー?」
「帳簿付けや煩雑な手続きに滅法強い男だよ。書類関係が得意でそれを任せているんだ。接客は苦手でやらないから、好きな時間に来て集中的に作業して、サッサと帰っていく気まぐれな奴なんだ」
得意なものを任されるのはわかるけど、苦手だからやらないというのはアリなのか。
百合恵の仕事に対する固定観念が早くも揺さぶられていた。
「ユリ。あまり固く考えないで。初めは戸惑ってもそのまま受け入れてみてほしい。やってみてユリの感覚に合わなければ変えればいいから」
「はい」
戸惑いを顔に浮かべながら返事をする百合恵をラルフは優しく見つめる。
「ここでは俺が楽しくやれるスタイルを採用しているだけなんだ。今までと違うとか、周りと比べてどうとか、考えても意味がないんだよ。わかる?」
百合恵の頭の中では、仕事に対してそれは甘い考えだと声がする。
でも心では、それは楽しそうだ、やってみたいと感じている。
感覚的にラルフの言わんとすることがわかるのだ。
「わかります。なんとなくですけど・・・」
「よかった」
ラルフ自身がいくら楽しんでいようとも、それを周りが理解するかは別問題だ。
理解せずに批判してくる輩もいるが、ラルフは受け流してきた。
だが、大切な人が自分の好きなことややり方を受け入れてくれることは格別に嬉しい。
ラルフは胸に広がる温かさを感じた。
「ありがとう、ユリィ」
急に甘くなったラルフの声に驚く百合恵の頬に彼の指が触れる。
頬を撫でるラルフの指の感触に、百合恵の胸が疼きはじめた。
アレクへの想いがありながらも、ラルフにも好意を持ってしまった百合恵は、ラルフの指を拒めない。
最近特にラルフからも好意を感じるが、彼からはっきり言葉にされた訳ではなく、百合恵の自惚れかもしれない。
ラルフに何と声をかけていいのか戸惑い瞳を揺らす百合恵を翡翠の瞳が見下ろしている。
「ユリィ・・・」
ラルフの指が百合恵の頬を滑り顎にかかった。
鼓動が跳ね身を固くする百合恵に、ラルフが次の行動に出ようとした時、タイミングを見計らったかのように部屋の外から声が掛かった。
「社長、時間です。貿易商が商品を持ってきましたよ」
「・・・わかった」
声をかけてきたスペンスに珍しく不機嫌な声でラルフが応じる。
先ほどの甘い雰囲気をスペンスに気付かれたかもしれないと羞恥心に俯く百合恵の頭上で、ニヤけ顔のスペンスを睨みつけるラルフだった。
スペンスが先に戻り、ラルフと百合恵が後に続く。
部屋を出ながらラルフがこれからの予定を説明した。
「一階の商談室に商人が様々な商品を持って来たから、気に入ったものがあれば仕入れる。それだけだよ。これは口で説明するよりも実際に見た方が感覚がつかめると思うよ」
百合恵たちが一階に降りると、店舗にはライダー夫人が店番として残っていた。
ライダー夫人に会釈をして商談室へ入ると、応接テーブルの上には所狭しと商品が並べられ、そこに乗せきれないものは絨毯の上に敷物を敷いて置いていた。
宝石が散りばめられたアクセサリーや髪飾り、手鏡、ハンカチ、クラバット、葉巻、香水、中身はわからないが金や銀の缶にガラス瓶、お洒落な文房具、ステッキの他、一見用途のわからないものも多く、幅広い品揃えのように見える。
二人いた商人の一人はすでにスペンスに熱心に説明を始めていた。
「気になるものがあれば手に取って見ていいよ。聞けば詳しく説明をしてくれるから」
ラルフの言葉を受けて百合恵は商品を近くで眺めた。
もう一人の商人はラルフと挨拶を交わしている。
買い物をする時に店員に張り付かれると落ち着いて見れないタイプの百合恵は、今の状況は好ましかった。
ひとまず気になっていた色とりどりの缶に手を伸ばす。
持ち上げた缶は軽く、書かれているのは異国の文字で読めなかった。
振るとカサカサと乾いた音がする。
蓋を開けてみると百合恵の予想通り茶葉だった。
ということは、缶の色によって茶葉の種類や香りが違うのだろうと見当をつけ、手当たり次第開けて香りを嗅いでみた。
その中で百合恵は光沢のある紫の缶に入った茶葉がラベンダーの香りに似ていて好きだと思った。
「それは紅茶に北国に咲くラバンデュラという花をブレンドしたものですよ」
それまでスペンスの相手をしていた商人が百合恵に話しかけてきた。
スペンスはラルフ達と会話を始めている。
ラルフからは好きに見ていいと言われていたが、商人に何の断りもなく触れていたことを気まずく感じて百合恵はそっと缶を戻した。
「すみません、勝手に開けてしまって」
「いいんですよ。穏やかな良い香りだったでしょう?精神を落ち着かせる作用があるんですよ」
日焼けした肌に厳つい顔付きで怖そうな印象だったが、目を見ると柔和な光があり悪い人ではなさそうだ。
そう判断した百合恵はその商人に相手をしてもらうことにした。
「甘すぎない柔らかな香りがいいですね。懐かしい感じもして。私、好きです」
「よかったら後で試飲をしませんか?味もいいですし、口に含んだ時の香りの抜け方も最高ですよ」
「は・・・」
百合恵が商人の紅茶を好きだと言ったことで、彼の目はますます柔らかく細められた。
試飲の誘いに思わず頷きそうになった百合恵だったが、ラルフの許可なく勝手に試飲させてもらっていいものか迷った。
助けを求めるように百合恵の目がラルフを探すと、ラルフはちょうど百合恵の元に来ようとしていた。
自分を探す百合恵に返す視線はいつも通り穏やかなラルフだったが、さりげなく商人を見やった彼の目は一筋の鋭さが宿っていた。