二十六話 揺れる吊り橋
ラルフは百合恵の頬に添えている手をそっと離した。
先程の言葉を冗談にしてくれたラルフだが、その目はまだ熱を残している気がする。
百合恵は甘くなりそうな雰囲気を紛らわすためにラルフに仕事の話を向けた。
「ラルフさん、今日は仕事に有益なお話はできました?」
唐突に話題が変わったことにラルフは一瞬驚いたが、百合恵の意図を察したらしく唇を少し苦笑するように動かしただけで話題に乗ってきてくれた。
「今日はそうでもなかったかな。会話の中でさりげなく相手が欲している情報とか関心のあるものを聞き出して、俺が提供できるものがあれば仕事に結びつくように誘導するし、なければ今後の取引材料の参考にするんだけどね。貴族というのは働かずに稼ぐことが当たり前の人たちだから、俺みたいに自ら事業を手掛けているのをはしたないと思う人も多くて、こういう場所では慎重に進めるようにしてる」
「働かずに稼ぐ、ですか?」
「ああ。裕福な貴族は潤沢な資金があるから、事業に投資するだけで、自らが経営したり現場で働いたりすることはないんだ。やることは利益が上がるか監視するくらいかな。それも人任せなことも多いけど」
「そういうものなんですね」
「まあ、それができるのは爵位を持つ者だけだけどね。つまり現当主とその後継者である長男だけ。次男以降は爵位も領地も財産も継げないから、たいていは騎士として身を立てたり、あとは医者や学者とかかな」
「ラルフさんは騎士や医者になろうとは思わなかったんですか?」
「兄さんが爵位を継ぐ前は騎士として勤めていたよ。でも今の仕事に興味があったんだ。兄さんの領地経営を補佐したいという思いもあったけど、なにより楽しかったんだ。うちの領地は海に面していて貿易が盛んなんだ。活気があって明るくて良い所だよ。社交シーズンが終わったら領地に帰るから一緒に行こう」
「はい」
ラルフは周りをよく見て心遣いをできる人だが、周りに流されず自分の気持ちを大切にしていることが百合恵にはわかる。
貴族社会の常識とは違う流れを選んだラルフは、百合恵から見れば大変なことをしているように思えるのに、彼の言葉通りに楽しそうだ。
話し終えて夜空を見上げるラルフを百合恵は尊敬の眼差しで見つめた。
「ユリ、踊ろうか」
「え、今から?」
「うん。ホールから音が漏れ聞こえてるだろう?ここで踊ろう」
そう言って座っていた百合恵の手を掬い取り立ち上がらせると、百合恵の体を引き寄せてゆったりとステップを踏み始めた。
煌びやかなホールで踊るのも物語のお姫様にでもなった気分で素敵だったが、星空の庭園で踊るのも幻想的で百合恵を酔わせた。
ラルフを見つめる百合恵の瞳が戸惑いに揺れる。
胸の高鳴りを誤魔化しきれなくなったのは、この雰囲気に流されているだけだろうか。
百合恵が好きなのはアレクで、その思いは今も間違いなく百合恵の胸にある。
それなのにラルフを見つめて感じる熱も確かにあるのだ。
曲が終わり二人の動きも止まる。
踊りが終われば、百合恵の熱も治まるはずだった。
この幻想的なひとときに流されているだけならば。
握っていた手を離し、寄り添った体を離せば、夢から醒めるはずだった。
百合恵はアレクへの想いに誠実でいたかった。
今この瞬間ラルフに感じている胸の高鳴りは、星空の下で踊り高揚した気持ちの余波だ。
自らの想いもラルフの想いも直視することを避け、体を離した百合恵の耳にラルフの切ない声が響いた。
「ユリィ」
この語尾が掠れる甘い呼び方をされると、百合恵はいつもラルフを意識してしまう。
今も無視できずラルフを見上げてしまった。
いつもは優しい翡翠の瞳が、切なさを滲ませて百合恵を見ている。
芽生え始めた彼への想いを無かったことにしようとする百合恵を悲しむかのようだ。
その顔を見て百合恵の胸は軋んだ。
「こんなところにいたのか」
切なさと戸惑いを残す空気は、離れた所から二人を見つけたアレクの声によって消された。
アレクが二人のそばまで来た時には、すでにラルフはいつもの雰囲気に戻っていた。
そのまま屋敷に戻るまでアレクとラルフが会話をする横で、百合恵は自分の胸の内を見つめていた。
夜会で帰りが遅くなったため、翌日の朝食はいつもより少し時間が遅かった。
三人とも席に着くと、まずアレクとラルフが昨夜の労をねぎらってくれた。
「昨夜は助かった。よく休めたか?」
「はい。ありがとうございます」
「ダンスも上手かったし、兄さんとの息も合ってたよ。これでしばらくは落ち着きそうだね」
その後今日の予定をアレクとラルフは確認し合っていた。
百合恵は夜会が終わったこともあるし、今日は一日体を休めるように言われ、部屋に戻った。
窓辺の椅子に腰掛け、ぼんやりと外を眺めながらこれまでのことを思う。
こちらの世界でのアレクは冷たく百合恵に接しながら、でも時折気遣いを見せてくれる。
百合恵はアレクと二人で暮らしていたときの彼の想いや優しさを今でも覚えている。
だが、こちらに来てからアレクに以前のように接することができない。
冷たくされると嫌われるのが怖くて、つい彼の機嫌を伺うような思考になってしまう。
アレクが百合恵に心を許していないのと同様に、百合恵もまたアレクに心を許せなくなっていた。
過去の幸せだった思い出に縋っているだけなのだろうかと百合恵は戸惑う。
アレクの恋人として過ごしていた時の自分と、今の自分とは何が違うのか。
あの頃の百合恵はアレクを気遣いはしたが自分の気持ちを押し隠したりはしなかった。
自分の気持ちに正直に過ごせていたと思う。
それが今やアレクに気に入られることは何かと考えるようになってしまった。
自分の気持ちよりもアレクがどう思うかを気にしている。
百合恵は確かだと思っていたアレクへの気持ちがわからなくなってきた。
そんなとき百合恵の思考を遮るように扉を叩く音がした。
返事をするとラルフが顔を覗かせた。
「ユリ、ちょっと出掛けない?」
「お出かけですか?」
「兄さんは用事で出掛けていて夕刻まで戻らないんだ。外にランチを食べに行かない?良い店を知っているんだ」
そういえば、朝食の席でアレクが外出するようなことを言っていた。
夕刻まで戻らないということは、ずっと続けていたアレクへのお茶出しもない。
気持ちがわからなくなり、モヤモヤしていた百合恵は気分転換になりちょうどいいと思った。
「行ってみたいです」
笑顔で答えた百合恵にラルフは頷いて、出掛ける準備のためにアリスを呼んでくれた。
百合恵の準備が整うと二人は馬車に乗り出発した。




