二十四話 接近戦2
はじめはラルフを意識してぎこちなかった百合恵も、ステップの練習を繰り返すうちにダンスに集中できるようになった。
正直なところ百合恵は運動が苦手だ。
高校生の頃までは女子は運動会でダンスを踊らなければならなかったが、百合恵はリズム感がなく、振り付けを覚えるのが精一杯で、みんなに付いていくのに必死だった。
少しでも動きが遅れると何度もやり直しをさせられ、それに付き合わされる周りから冷たい視線を投げかけられ辛かった。
そんな思い出もあってか百合恵の体の動きは固かった。
だがラルフは丁寧に教えてくれる。
百合恵が何度間違えても口調はいつもと変わらず優しかった。
百合恵は足元を見て必死にステップを踏むが、間違えないように、ラルフの足を踏まないようにと力んでしまい、上手くいかない。
ラルフの手を握り締めるほど力が入っていることに気が付かないくらい百合恵は足の動きに集中していた。
「今日はここまでにしようか。初めてだから疲れたよね?」
「はい、少し・・・。ありがとうございました」
「ユリ。楽しかったね」
足元に集中していたのと自信の無さとで、ずっと俯いていた百合恵はこのときはじめて顔をあげた。
ラルフは翡翠の瞳を煌かせて百合恵に笑顔を向けている。
覚えの悪い百合恵のことを、さすがのラルフも内心呆れているのではないかと百合恵は不安だった。
同じことを何度も繰り返させて、ラルフの時間を無駄にしている申し訳なさもあった。
その思いがさらに百合恵を力ませ俯かせていた。
それなのにラルフは「楽しかった」と言ってくれた。
百合恵に楽しかったかと聞くのではなく、自らが楽しかったと断言したのだ。
彼は私との時間を楽しんでくれた。
その言葉に百合恵は救われる思いがした。
「はい」
百合恵は笑顔で返した。
いつもラルフは出来ない百合恵を受け入れてくれる。
そんなラルフを見て、百合恵は出来ない自分を自分で責めていたことに気付きハッとするのだ。
そんなことを繰り返しながら百合恵は少しずつ自分の中の固さをほぐし、しなやかに変化していくのだった。
次の日以降、百合恵の力みがとれ、ダンスの練習は順調に進んでいった。
「ユリ、顔を上げて。ステップが乱れても誤魔化してあげるから。姿勢だけはきちんと保つようにして」
ついつい足元を気にして俯く百合恵をラルフが優しくたしなめる。
顔を上げた百合恵にラルフは甘く微笑みかけた。
その笑みに戸惑って百合恵はまた俯きかけるのだが、ラルフの言葉がそれを止める。
「照れるのなら喉元を見ていればいいよ。異性の目を見つめるのは誤解を生むこともあるしね」
ラルフを異性として意識したことがバレているようで百合恵は羞恥心に頬を染めた。
自分はアレクが好きなのに、その弟のラルフを意識してしまうなんて、節操なしな女になったようで百合恵は認めたくなかった。
だが百合恵の考えとは裏腹に、頬の火照りは冷めず、ラルフと繋いだ手のひらはしっとり汗ばんでくる。
百合恵は動揺を悟られまいと、平気なふりをしてラルフの顔を見上げた。
左目を細めて百合恵を見下ろしているラルフと目が合った。
ダンスのステップが一通り終わっても、彼は百合恵から体を離さず手を握ったままだ。
しばらく見つめあったままいたが、いつもの雰囲気と違うラルフに百合恵が耐え切れなくなった頃、彼がそっと手を離した。
「・・・ラルフさん?」
「よくできました」
それは百合恵のダンスが上達したことへの褒め言葉だろうか。
違う意味が含まれている気がして百合恵は瞳を揺らせた。
そんな百合恵の反応にラルフは上機嫌に翡翠の瞳を細めた。
ダンスの練習をはじめて半月経った頃、アレクが様子を見に来た。
その頃百合恵は間違えることはあるものの一曲通して踊れるようになっていた。
「じゃあ今日は兄さんと組んで練習しようか」
ラルフの一言で、アレクは迷うことなく百合恵の手を取った。
百合恵は久しぶりに感じるアレクの温もりに緊張が高まり、動揺を隠せない。
「・・・大丈夫か?」
「え?」
頭上から降ってきた声に俯いていた顔を上げた百合恵は、静かなアイスブルーの瞳と視線がぶつかった。
「手が震えているぞ」
「あ・・・」
アレクに言われるまで気付かなかった。
彼の肩に添えた手も、彼の手を握る手も、百合恵の心そのままに震えていた。
アレクは百合恵の背に添えた手で、彼女の背をあやす様にポンポンと軽く叩いた。
「緊張しなくてもいい。練習だから間違えてもどうということはない」
「・・・はい」
百合恵の返事を待ってから、アレクはリズムを刻み始めた。
アレクが気遣ってくれたことに胸を震わせながらも、やはり緊張は消えず、ラルフと踊るときより何倍も失敗して散々な出来だった。
「すみませんでした」
「いや、回数を重ねれば問題ないだろう」
失敗を重ねるたびに、こんなに下手ではお役御免だと言われそうで百合恵は泣きたい気持ちになった。
好きな人と踊っているはずが、面接官と踊っているような気になり息苦しかった。
だがアレクの返事を聞いて、ひとまず罷免は免れたと肩の力が抜けた百合恵は、ラルフが心配そうに自分を見ていることに気が付いた。
ラルフは何も言わず百合恵から目をそらすと、アレクに話しかけた。
「練習に付き合う時間を増やせる?兄さんと俺とじゃ踊る感覚が違うだろうし、ユリを慣れさせてやりたいんだ」
「そうだな。毎日は厳しいが、これからはなるべく顔を出すようにしよう」
「それと、そろそろ曲に合わせたいんだけど、ウィルを使ってもいい?」
「ああ、私から言っておこう」
話が終わるとアレクは部屋を出て行った。
安心したような物足りないような感情を百合恵が味わっていると、ラルフが歩み寄ってきた。
笑みを浮かべているのに、どこか愁いを含んで見えるラルフの顔は、いつもと比べてぐっと大人びて百合恵の目に映る。
「もう疲れた?俺とも踊ってもらえる?」
「はい、大丈夫です」
百合恵の体を引き寄せたラルフの腕はいつもより力強い気がして、百合恵は彼を見上げた。
「ユリィ・・・」
ラルフの声に百合恵の胸が騒ぎだす。
ラルフはたまにこうやって甘く擦れた声で百合恵を呼ぶのだ。
そのたびに百合恵は落ち着かない気分になり、ラルフの顔をまともに見ることが出来ず視線を彷徨わせ、彼を意識しないようにする。
「踊ろうか」
ラルフの声に促されて顔を上げるが、その目を見ることは出来ず喉元を見て百合恵は自分を落ち着かせようとした。
その行為すらラルフを意識していると彼に伝えているとも知らずに。
翌日からは練習にウィルが参加することになった。
百合恵のダンスの相手ではなく演奏者としてである。
ウィルの弾くヴァイオリンに合わせて踊ると本当の夜会で踊っているようで現実離れして思え、百合恵の気分は上がった。
アレクはだいたい二日置きに来てくれるようになり、百合恵の緊張も回を重ねる毎に収まってきた。
また途中でアリスがお茶を運んで来て、その後少しのあいだ見学していく。
百合恵が人前で踊ることに慣れるようにとのラルフの配慮だった。
そのうち百合恵はラルフとは踊りながらでも会話を楽しめるようになった。
アレクとも緊張はするが顔を見て踊れるようになり、アイスブルーの瞳を見つめながら踊れる喜びを噛み締めていた。
夜会の三日前からは当日着ていく衣装に似たドレスに身を包み、ダンスだけでなくドレスを着た時の足さばきも慣れるように過ごした。