二十三話 接近戦
その後ラルフは早目に仕事を切り上げて、百合恵と一緒に帰宅した。
ラルフと百合恵が二人で屋敷に入ってくるのを見てウィルは驚いた顔をした。
「庭に出ていたユリが馬車の音に気付いて出迎えてくれたんだ」
ラルフがそうフォローしてくれたので怪しまれずに済んだ。
帰りの馬車の中で、百合恵はラルフから女性の一人歩きは危険だから今後絶対にしないようにとしつこく言われていた。
屋敷を飛び出した事をウィルにまで知られたらラルフ以上にきつく言われそうだ。
百合恵はラルフに感謝の眼差しを向けた。
それに気付いたラルフは片眉をクイっと上げる。
「本当にダメだからね」
「ごめんなさい」
項垂れる百合恵の様子に苦笑しながらラルフは彼女の髪を撫でた。
「訪ねて来てくれるのは嬉しいんだけどね。心配だから必ずうちの者に付き添ってもらって」
百合恵が頷くのを確認すると、ラルフは左目を細めて微笑んだ。
それからの日々も百合恵はアレクへのお茶出しを続けていた。
ラルフは辛いならしなくていいと言ってくれたが、これを止めるとアレクとの接点が食事の時間だけになってしまう。
食事のときはラルフやウィルの他にも使用人が側にいるため、アレクと二人になれるのは彼の部屋にお茶を運ぶときだけなのだ。
二人になれたからといって上手くいくわけではない。
百合恵はあれ以来、アレクに話しかけることが出来なくなっていた。
アレクはいつもと変わらない。
ただ百合恵が臆病になったのだ。
またアレクに一線を引かれるのが怖くて、彼に話しかける勇気が出ない。
これまでのアレクの様子を見て、おしゃべりな人は好きではないかもしれないと思い、黙々とアレク好みのお茶を淹れて気に入ってもらえるようにしていた。
そんな百合恵の生活リズムに変化が訪れたのは、それからさらに数週間過ぎた頃だった。
いつも通り軽くおしゃべりをしながら朝食をとったあと、食後のお茶が運ばれてきたのをみてラルフは話し始めた。
「実はユリにお願いがあるんだ」
「何ですか?」
「一ヶ月後に夜会があるんだけど、俺たちと一緒に参加してほしいんだ」
「夜会に?」
百合恵の脳内には、ベルサイユのばらの様な煌びやかな場所でゴージャスなドレスを着て踊ったり、噂話と嫌みの応酬をする貴婦人の姿が浮かび、はははと乾いた笑いを漏らした。
百合恵の微妙な反応にラルフは首を傾げつつ話を続けた。
「クレイニー公爵から招待状が届いたんだ。最近は夜会に出席するたびに面倒な状況になりがちで、それをユリに助けてもらいたいんだよ」
「面倒な状況ですか?」
「ああ。兄さんは結婚適齢期だからね。周りがうるさくて困ってるんだ。ユリが一緒に夜会に出てくれたら、それも少しは収まるんじゃないかと思ってさ」
「・・・要はアレク様の女除けになれと?」
「あはは、ユリはあからさまだね。でもその通りだよ」
ラルフはグランヴィル兄弟を取り巻く現状を説明した。
アレクが社交界にデビューした頃は士官学校に在籍中で、その後も軍の仕事や領地経営の見習いやらで忙しく社交界にはほとんど顔を出していなかった。
それでも縁談を持ち込まれることがあったが、自身の未熟と忙しさを理由に断り続けていた。
侯爵家を継いでからは、父親の発狂が醜聞として残っており、誰も娘を嫁がせようとしなかった。
しかしそれから数年経って、父親は領地に籠りきり大人しくしているし、侯爵家という地位と名誉と財産、アレク自身の才能や容姿という魅力に釣られ、娘を売り込もうとする動きが強まってきた。
ちなみにラルフは次男で領地や財産を受け継がないため積極的に娘を売り込んでくる家はなく、むしろ率先して商売をしていることを厭われることすらあるらしい。
「政略結婚するつもりはないと暗に断っているんだが・・・」
アレクは渋い顔をしながらお茶のカップを取り上げて言った。
ラルフもうんざりするように、その言葉に頷く。
「ああ、あれは酷いよね。政略がだめなら娘自身に誘惑させようとして、兄さんに絡んでくるご令嬢方の熱心なことと言ったら・・・。そばで見ていて気の毒になるよ」
「情報収集のために社交の場に出向いているのに、あんなに纏わりつかれては話もできない」
「え・・・私にそれを蹴散らせというんですか?」
「ユリ、そんなに引かないで。ただそばに居てくれるだけで牽制になるんだ。今迄誰も同伴しなかった兄さんが女性をエスコートするだけで効果があると思うから」
アレクが女性に言い寄られていることを考えるだけで百合恵は胸がもやもやする。
自分がアレクと一緒にいることで、その女性たちを牽制できるならそうしたい。
ただ百合恵は自信がなかった。
「あの・・・アレク様は私が相手でもいいんでしょうか?」
今のところアレクは百合恵に何の関心も抱いていない。
百合恵はそのことをよくわかっている。
今回のことは百合恵の恋心を知っているラルフがアレクに提案したものだろう。
百合恵を応援するために提案してくれたのだろうが、当のアレクが嫌がっているのに強引に押し付けるようなことはしたくなかった。
「ああ。君の負担でなければお願いしたい」
百合恵はアレクの言葉に目を瞠った。
アレクが百合恵を頼るなんてこちらに来てから一度もなかったことだ。
彼に認められたようで百合恵の胸は高鳴った。
そんな百合恵の顔をラルフが目を細めて見ていた。
「わかりました。参加します」
「ありがとう、ユリ。助かるよ。じゃあ、今日から早速ダンスの練習をしよう」
「え・・・ダンス?!」
「そうだよ。ユリは踊れないんだよね?一か月後だから頑張らないといけないね」
「はい・・・」
「今迄勉強に充てていた午前中の時間をダンスのレッスンに使おうか。俺が教えるけど、兄さんも時間を作って参加してね。夜会で踊るのは兄さんなんだから、慣れておいたほうがいいでしょ」
「わかっている」
こうして百合恵の日常にダンスの特訓が加わった。
百合恵は左手をラルフの肩に乗せ、右手を彼の左手に重ねる。
ラルフの右手が百合恵の背に回り二人の距離が近づくと、自分の鼓動が跳ねたことに驚いた百合恵は反射的に一歩後ろに下がった。
これまでラルフの隣で勉強していた百合恵は彼が近くにいることに慣れていると思っていた。
ラルフの胸に泣きついたことだってあるのだ。
ダンスで密着するくらい平気だと思っていた。
百合恵は今までラルフのことを好きな人の弟として認識していたはずだ。
だが今 確かに百合恵の鼓動は跳ねた。
百合恵はそれが何を意味するのか深く考えてはいけない気がした。
なぜか自分が悪いことをしている気になるからだ。
「ユリ、そんなに離れると踊れないよ」
「あ、足を踏んじゃいそうだから・・・」
「そんなのは気にしなくていいよ」
ラルフはそう言って百合恵の腰を引き寄せた。
先ほどから動揺している百合恵の様子を見て、ラルフは内心喜んでいた。
百合恵がラルフに向けるのは友情か、親族に向ける家族愛に近いと彼は感じていた。
その百合恵が初めて自分を異性として意識したのだ。
もちろん百合恵がアレクに恋心を抱いていることを知っている。
だからラルフはそれを邪魔しようとも、強引に自分の感情を押し付けようとも思わない。
だが諦めようとも思わなかった。
百合恵が自分を意識してくれるチャンスがあれば、それを逃すことはしない。
「さあユリ。ステップを踏んでみようか」
百合恵の目線は足元に向いており、せっかくのラルフの微笑みを見てはいなかった。
だがラルフは気にしない。
百合恵の手のひらから伝わる緊張が彼女の動揺する心の内を如実に彼に伝えているのだから。