二十一話 自分を許す
ラルフに心を許してから百合恵の日々は穏やかに流れていった。
百合恵がラルフに素の自分を見せるということは、彼を信頼したということだ。
そのときから百合恵の中に渦巻く不安が軽くなった。
ラルフの気まぐれでこの屋敷を追い出されるかもしれない、そうなった時のために早くこの世界に慣れないといけない、一人でも暮らしていけるように仕事を探さないといけない・・・そういった見えない不安と焦りに百合恵は心を擦り減らすことがなくなった。
午前中は相変わらずラルフの部屋で勉強をしている。
仕事をしているラルフの隣で、百合恵は本を読み、辞書を引き、綴りを練習する。
それでも難しいところはラルフに質問すると嫌な顔一つせず、翡翠色の瞳を細めて丁寧に答えてくれるのだ。
百合恵はその瞬間が好きだった。
アレクのことで自信を無くしていた百合恵は、ラルフのその丁寧な態度のおかげで、まるで自分がここにいるだけで価値があるように思え嬉しくなる。
「ユリが横で勉強をしていると、俺も仕事をしようって気になってはかどるよ」
実際には百合恵の質問によって仕事が中断されるため、本当に仕事がはかどっているのかは疑問だが、ラルフは態度と言葉によって百合恵の存在を認めてくれる。
きっとそれは、この世界で何も出来ないと自分を嫌っていた百合恵に再び自信を持たせ、自分を好きになるようにとのラルフの心遣いだろう。
百合恵はそのことに気付いてから、何も出来ない自分を許すことにした。
アレクは一週間で日本語の読み書きをマスターしたのに、百合恵は三週間経った今も怪しいところがある。
アレクの前例もあるし、喋れるのだからすぐに出来るだろうと思っていた百合恵だが、ブロック体で書かれた書物はなんとか読めるが、手紙の様に筆記体で書かれるとさっぱり読めなかった。
そんな自分に落ち込みながらも、必要以上に卑下しないのは、出来ない自分を許すと決めたからだ。
出来ない自分に嫌気がさす時もあるし、何も頭に入らなくて投げ出したくなる時もある。
そして自分を責め始めるのだが、ラルフはそんな百合恵を見て「それでもいいよ」と笑うのだ。
笑うラルフの細められた翡翠の瞳を見ると、それでもいいかと思えてくるから不思議だ。
自分を責めても、許しても、どちらでもいいと思えるのだ。
つまりは自分を責めている自分ごと許すといったところか。
実際はそんなに悟りめいた心境ではないのだが、ラルフのそばで楽になれたのだから、それはそれでいいと百合恵は思うようになったのだ。
午後にはアレクにお茶を出しに行くのも百合恵の日課になった。
そうはいっても、アレクが外出することもあり、毎日というわけではなかったが。
初めのころと変わらずアレクの表情は崩れない。
おかわりを注げば退室となり、気さくに話すことなど皆無だった。
食事の時はラルフを通していくらか会話ができる時もあるが、お茶の時間に会話ができたことはなく、お茶の味や好み、天候の話題、百合恵の勉強の進捗状況、アレクの趣味についてなど勇気を出して話しかけてみても「ああ」「いや」「そうか」で片づけられることが多く、最悪「仕事中だ」と睨まれて終わる。
アレクからは一向に心を許してくれる気配も、百合恵を思い出す気配も感じられないまま、百合恵はそれでもお茶を運び続けた。
今日もアレクの好きなミントティーを淹れながら彼の様子を窺う。
アレクの気に入る話題は何だろうか、二人で暮らしていたときは何を話していただろうか。
もう何度となく自分に問いかけてきたが、未だに正解は導き出せていない。
お茶を飲むアレクを見ながら、そろそろおかわりだろうかと思っていた百合恵に珍しくアレクから声をかけてきた。
「お茶を淹れるのが上手くなったな」
アレクはそう言って、いつものお茶の時間には視線すら合わせないアイスブルーの瞳を百合恵に向けた。
形の良い唇を左右に引き上げ完璧な笑みをたたえながら。
百合恵はそれを見て心が割れる音を聞いた。
そのあとの百合恵は冷静だったと思う。
きちんと礼をとって退室し、ワゴンを戻し、茶器類を片づけた。
だが冷静なのはそこまでだった。
涙が込み上げてきて、必死に抑えるのに、我慢できず零れ落ちる。
今すぐ部屋に戻って大声で泣きたいのに、一人にはなりたくないと思う。
この苦しさを吐き出してしまいたい。
誰かに縋り付いてしまいたい。
そう思ったときに百合恵の心に浮かんだのはラルフだった。
その瞬間、百合恵は走り出し屋敷を抜け出した。
ラルフが午後から会社に出向くとき、屋敷の前で見送ったことがある。
ラルフの乗った馬車は屋敷の前の道を左へ真っ直ぐ進み、大通りに出ると右に曲がった。
そのあとは道なりにしばらく進むと沢山の店や会社が立ち並ぶ、いわゆるオフィス街になるのだとラルフに聞いたことがある。
その中の一角にラルフの会社があるのだと言っていた。
百合恵はその場所へ向かって走り出した。
大通りに出るまで走り続けると流石に息があがり疲れてきた。
少し立ち止まって呼吸を整えると、百合恵はまた歩き出した。
初めのころ屋敷内なら自由にしていいと言われていたが、今もそれは変わっておらず、百合恵が屋敷の外に出たのはこれが初めてだ。
無断で出てきたことを怒られるだろうかと思ったが、このあとは夕食の時間まで静かに部屋で過ごすことの多い百合恵の不在を気付くことはないだろうと思い、気にせず進むことにした。
興奮状態の百合恵は道行く人たちからちらちらと視線を向けられていることを、さほど気に留めなかった。
視線を感じるのは、この国の人よりも少しばかり平たい顔の自分が珍しいからだろうと思っていた。
自分も周りの人たちと同じような服装をしていると百合恵は思っていたが、グランヴィル家は侯爵家であり、そこで用意された服は一見して上品かつ上等なものだとわかるのだ。
良いところのお嬢様がお供もつけず一人で歩いている姿は、この国の人にとって珍しいものだった。
漠然とした場所しかわからないため辺りを見回しながら歩く百合恵の姿は異国人ということもあり目立っていた。
店がたくさん立ち並び、パッと見ただけでは何の店が分からず中を覗き込まなければならない店もある。
一階に会社があればいいが、二階以上にある場合は見つけるのが困難だ。
そもそも百合恵はラルフから貿易の仕事をしていると聞いたことがあるだけで、何を取り扱い、社名は何というのかも知らなかった。
その事実に百合恵は愕然とした。
今まで百合恵は自分のことばかりラルフに話して、彼自身のことにほとんど関心を示していなかった。
あんなにラルフの存在に助けられながら彼について知っていることはほとんどなかった。
自分はもしかしてラルフにとんでもなく失礼なことをしていたのではないか。
百合恵にとってラルフは信頼できる大切な存在だ。
百合恵に自分を許すことを教えてくれ、弱い百合恵を受け入れてくれるかけがえのない人だと思っている。
いつもその言動で百合恵に自信を与えてくれたラルフの心遣いを当たり前のように受け取っていたけれど、そのおかげで救われた自分の心を彼にきちんと伝えたことがあっただろうか。
百合恵は大切に扱いたいと思っている人をないがしろにしてきたことに気が付いて呆然と立ち尽くした。