二十話 降参
その日仕事を早めに終えたラルフは屋敷へ戻ると百合恵の部屋に向かった。
夕食までもう少し時間はあるし、その間に今日のお茶の時間はどうだったのか聞いてみようと思ったのだ。
扉越しに聞こえた「どうぞ」という声が震えている気がして、急いで扉を開けて中へ入ると目を潤ませた百合恵がいた。
「お茶は上手くいかなかった?」
「・・・わからない」
優しい声音で尋ねるラルフに百合恵は首を振った。
お茶ならたぶん上手く淹れることができた。
すごく美味しく淹れれた訳ではないが、失敗はしなかった。
その点を見れば、上手くいったと言ってもいいだろう。
だが百合恵の真の目的はアレクと親しくなることだ。
その点から見ると、退出を命じる言葉以外かけられていない今回も失敗だったと言える。
「兄さんとは話せなかった?」
ラルフは百合恵の恋心を知る唯一の人だ。
ウィルもアリスも親切だが、百合恵とアレクの事情を知らないため、百合恵は二人を前にして出したい気持ちを出せないでいた。
そのことが百合恵をラルフに甘えさせる一因となった。
「寂しい・・・あんなに優しかったのに・・・もう目も合わない・・・お喋りも、できない・・・」
泣きながら途切れ途切れに話す百合恵の肩を抱き寄せ胸を貸したラルフは、百合恵が落ち着くまで静かに背を撫でていた。
百合恵の涙が落ち着く頃、部屋の扉が叩かれた。
今度こそアリスが夕食に呼びに来たのだろう。
「そこで少し待っててくれる?」
扉の外のアリスに向かってラルフは声をかけた。
その間もラルフの手は百合恵の肩を優しく抱いている。
「ユリ。食事はこの部屋に運んでもらおうか?」
「・・・大丈夫」
「本当に?今の状態で兄さんと顔を合わせても平気?」
「・・・」
ラルフは百合恵の髪をひと撫ですると、そっと体を離し扉へ向かった。
顔だけ扉から出し、待たせていたアリスに何事か告げると、また百合恵の隣に戻ってきた。
「勉強が一区切りついてから食事をとることにしておいたよ。兄さんが食べ終わる頃合いを見計らって食堂に行こうか」
「ごめんなさい・・・」
「ユリ、もっと甘えて。こちらに来たばかりで遠慮があるのはわかるけど、今のままでは疲れてしまうよ」
百合恵は今の状況がすでに頼って甘えていると思っている。
こちらに来てからずっとそうだ。
誰かに頼ることしかできていない。
今までの生活で、誰にも頼らないこと、出来るだけ一人でやることを良しとして、それを自分の自信に繋げていた百合恵はラルフの言っている意味がわからなかった。
頼ってばかりだから辛いのではないか。
何も出来ないからアレクは自分を見てくれないのではないか。
初めてお茶を運んだ時も、夕食の席でも、アレクは百合恵がお茶汲みすら満足に出来ないと不満げだった。
本当は慣れないことをしている百合恵を気遣っての言葉だったが、アレクの真意は百合恵には伝わらず、百合恵はただ自分を否定する言葉として受け取っていた。
アレクへ向ける恋心を応援してくれるラルフや、こちらの事情を知らないのに百合恵に協力してくれるアリスやウィルに対して申し訳なく思う。
彼らが応援してくれる気持ちに応えたいと思うのに上手くいかず、すぐに落ち込んでしまう自分が百合恵は嫌だった。
そんな百合恵の髪をラルフは無言で撫でていた。
その手の優しい動きは、もっと甘えていいのだ、もっと感情を吐き出してごらんと百合恵に囁きかけるように彼女の心を揺さぶる。
百合恵の口から揺さぶられた感情が出ようとしたとき、また扉が叩かれる音がした。
ラルフが百合恵から離れ扉に向かう。
百合恵はハッとして口をきつく結んだ。
もう少しで誰にも言うつもりのない弱音を吐いてしまうところだった。
百合恵はラルフの優しさを認めながらも付き合いの浅い彼を完全には信用できない、そう思っていた。
だが彼と二人になると、つい心を許してしまいそうになる。
知り合った日数に関係なく、ラルフは人の心に入り込む何かを持っている気がした。
百合恵のもとに戻ってきたラルフの手にはタオルが握られていた。
「夕食までの間、これで目を冷やすといいよ」
ラルフがそっと百合恵の目元に押し当てたのは冷えたタオルだった。
どうやら先程アリスに頼んでおいたらしい。
本当にラルフは百合恵を気遣ってくれる。
アリスが部屋へ来るたびに、わざわざ扉の外まで出ていくのも、百合恵が泣いているのを知られたくないと思っていることをわかっていて、そうしてくれているのだろう。
降参してもいいかもしれない。
百合恵は自然にそう思えた。
ラルフに対して強がることは、もうしなくてもいいかもしれない。
弱い私も、何もできない私も、彼は否定しないでいてくれるだろう。
ラルフに降参して、鎧を脱いだ素の自分を見せてもいいかもしれない。
「ありがとう、ラルフさん」
百合恵は目元をタオルで隠したまま、ラルフに向かって微笑んだ。
だから百合恵は知らなかった。
そのときラルフがどんな表情をしたのかを。
彼の顔に朱が差したことも。
そのあとで嬉しそうに左目を細めて笑い返したことも。
その特徴的な笑い方が好きなものを見るときのラルフの癖だということも。
ラルフと二人だけの夕食の席で、百合恵はアレクと生活した日々を話して聞かせた。
アレクと出会った経緯が特殊なだけに、百合恵は今までアレクとのことを誰にも話すことが出来ずにいたのだ。
誰にも話せなかったからこそ、アレクへの思いは百合恵の胸のうちで燻り続け、百合恵を苦しめていたのかもしれない。
一年間離れている間もアレクの恋人でいる気持ちでいた百合恵は、アレクに忘れられ冷たくされるという事実に自信をなくしていた。
そして恋人に忘れられるような情けない自分を誰にも知られたくないと思っていた。
百合恵は心のままに、アレクとの思い出を嬉しげな笑みを見せて話し、別れてから今までの想いをときに涙を浮かべて話す。
ラルフは翡翠色の瞳を柔らかく細め相槌をうった。
今 ラルフという理解者を得て、アレクとの楽しかった日々やこれまでの切ない思いを聞いてもらうことで、百合恵の心に風が吹き軽くなっていく気がした。