十九話 変化の兆し
翌日、勉強のためラルフの部屋を訪れた百合恵に一冊の本が手渡された。
「この国の小説なんだけど、日常生活がよく書かれていてわかりやすいんだ。読んでおくと参考になると思うよ」
そう言われてラルフから受け取った本をパラパラとめくった百合恵はある事に気が付いてページをめくる手を止めた。
「アレクの時と同じだ・・・」
「どうしたの?」
めくられたページを凝視している百合恵にラルフが首を傾けた。
「私、字が読めないみたいです」
「え・・・」
「アレクの時もそうだったんです。最初から言葉は喋れてたけど、読み書きは出来なくて練習したんです」
「そうだったんだ。じゃあユリも練習してみよう。少し待ってくれる?」
ラルフは便箋を取り出すと、そこに一文字ずつはっきりと文字を書いていった。
大きな文字の横に、その半分くらいの小さめの文字が並んでいる。
「文字一覧だよ。これを参考に練習したらいい」
アルファベットで言うなら大文字Aと小文字aが並んで書かれているといったところか、あとはそれに倣うように文字が続いている。
「ユリは喋れるから単語の意味や言い回しなんかは理解出来てるんだよね。あとは文字とその音がわかれば本を読めるようになると思うんだ。綴りはその時に覚えればいいし」
ラルフはそう言って百合恵にノートと羽ペンを渡してその場で練習させ、書き順や文字のバランスなどを丁寧に教えた。
ある程度書けるようになると、先程の小説を読みながら、わからないところをラルフに質問するという形になった。
百合恵が取り組んでいるあいだ、ラルフは百合恵にプレッシャーを与えないように隣に座って仕事をしている。
百合恵がページをめくる音、綴りを書き込むノートと羽ペンの擦れる音、ラルフの様子を窺いながら質問するタイミングをはかる視線。
ラルフは部屋に流れる空気を好ましく思う。
百合恵の視線を感じるとすぐに応じるラルフだが、たまに気付かないフリをしていると、百合恵は彼の仕事を邪魔しないようにまた小説に目を落とす。
でもすぐに行き詰まり、彼の視線が資料のどこを見ているのか探り、区切りが良さそうなところを待つのだ。
そんな百合恵の視線を感じるのはラルフにとって意外と心地良かった。
控え目に「あの・・・」と声をかけてくる百合恵に目を細めて答えてやるラルフは左目のほうが若干細くなっている。
ラルフはそんな穏やかな午前を楽しんでいた。
午後になり、百合恵が部屋で小説を読んでいると、アリスがお茶のワゴンを押して入室してきた。
「メイリー夫人よりお茶の淹れ方をお伝えするように言われたのですが」
百合恵は昨日、アレクに淹れたお茶が渋過ぎたことをアリスに話した。
「茶葉はミントがブレンドされたものですよね。どれくらい使われました?」
アリスから茶葉の入った缶を渡された百合恵は、ティースプーンに茶葉をすくい、昨日の分量を出して見せた。
「少し多いですね。ノース農園の茶葉は濃く出やすいので一人分ならもう少し減らして・・・そう、それくらいです」
調整した茶葉をポットに入れ湯を注ぎ砂時計を返す。
時間がきたら手早くカップに注いで味を確認した。
「あ、美味しい」
「茶葉の量以外に気にするのは湯の温度でしょうか。厨房でお湯を用意してもらってからお部屋でお茶を淹れるまでに湯の温度が少しずつ下がっていくので、蒸らし時間も微妙に変わるのです」
温度変化に応じて蒸らし時間をはかるのは慣れが必要だと感じた百合恵は何度も場数を踏むしかないと気合いを入れた。
「アレクシス様の午後のお茶はだいたいミントティーですが、たまに種類を変えられることがあるのでそちらも練習なさいますか?」
「はい、ぜひお願いします」
先ほどより少しだけ温度の下がった湯でもう一度ミントティーを淹れてみたが、アリスの指示通りにやったため上手く淹れることができた。
次はハーブティーを練習しようかと話しているところにウィルがやって来た。
「ユリ様、そろそろアレクシス様のお茶の時間ですがいかがなさいますか?」
「今日もやってみたいです。よろしくお願いします」
「かしこまりました。では参りましょう」
百合恵はアリスにお礼を言い、明日も練習に付き合ってくれるようお願いして部屋を出た。
昨日と同じようにウィルと準備をしてアレクの部屋の前に立ち扉を叩く。
アレクの返事を得て入室すると、百合恵は昨日とは違う緊張感に包まれた。
昨日は初めてということで失敗を許されたのだろうが、今日はそうはいかない。
アレクとまた親しくなるためにも、ここは美味しいお茶を淹れて和やかな雰囲気に持っていきたい。
百合恵はそう思いながら、慎重に茶葉をすくいお茶を淹れた。
アレクがいる執務机までの距離が長く感じられる。
カップを運ぶ手が震えないように気をつけながら静かに机にカップを置いた。
百合恵の緊張をまるで感じていないのかアレクは仕事の書類から目を離さない。
百合恵がワゴンの位置に戻ってから初めて顔を上げたアレクは、一度百合恵に視線をやってからカップに口をつけた。
百合恵は緊張に汗ばむ手を握り、アレクの表情を伺い言葉を待つ。
しかしアレクはカップをソーサーに戻すと、何も言わず視線を書類に向けた。
あれ・・・?
何も言われないと言うことは、美味いということか、それとも文句を言うほど不味くはないという程度のものなのか。
アレクは相変わらず無表情で感情を読み辛く、百合恵はどうするか迷った。
感想を聞いてもいいのか、もう退がった方がいいのか。
百合恵の期待ではアレクから「美味い。よく頑張ったな」と感想をもらい、そこから会話を弾ませられればと思っていたのだ。
迷っているうちにアレクのカップが空になったので、百合恵はチャンスだと思い声をかけてみた。
「おかわりをお注ぎしますか?」
「ああ。それを注いだら退がっていい」
書類に目を向けたまま告げたアレクに落胆しながら、
百合恵はワゴンを押して退室した。
配膳室にはウィルとアリスが待っていたが、百合恵の様子を見て上手くいかなかったと察したようだった。
「お茶は飲んでもらえたんですが、何も言ってくれなくて・・・。上手くいったかどうかよくわからないです」
百合恵を心配して待っていてくれた二人に状況を説明すると、ウィルが顎に手を当てた。
「おかわりはされましたか?」
「はい」
「それでしたら大丈夫でしょう。あまり味に厳しい方ではありませんが、不味ければおかわりはなさいません。無表情でわかりにくいかもしれませんが美味しかったと思ってらっしゃいますよ」
「よかったですね、ユリ様。練習した甲斐がありましたね」
二人に励まされ、とりあえず笑顔を保って部屋へ戻った百合恵だが、その胸の中には薄らと虚しさが広がっていった。
アレクと二人で暮らしていた頃は、アレクは百合恵に感情を見せてくれていたのだ。
お茶を淹れれば美しい仕草で美味しそうに飲んでくれ、百合恵の好きな左の口角を上げる笑みを見せてくれるのだ。
まだ始まったばかりのこちらでの生活がもどかしくて仕方がない。
あの優しかったアレクに「ユリエ」と呼んでもらいたい。
抱きしめて欲しい。
百合恵の心が乱れ、瞳が潤み始めたころに、扉を叩く音が聞こえた。
少し早いがアリスが夕飯だと呼びに来てくれたのだろうと思い百合恵は返事をした。
しかし扉を開けたのはアリスではなく、仕事から帰ってきたラルフだった。