十五話 傷心と決意
その後メイリー夫人に客室に案内された百合恵は、一人きりになった途端に瞼が重くなった。
バスタブの底が抜けて溺れかけたり、アレクの世界にやって来たり、念願の再会を果たしたアレクに冷たくされたり、強烈な出来事が立て続けに起こったせいか、処理能力を超えた脳は睡眠を欲しているようだ。
アレクのことで感傷に浸る余韻もなく、百合恵はベッドに潜り込むとすぐに意識を落とした。
翌朝、百合恵のいる客室の扉を叩きメイドが入室してきた。
そのとき百合恵はちょうど目を覚ましたばかりで、ベッドに上半身を起こしたところだった。
驚く百合恵にメイドは朝の挨拶とともにお茶のカップを差し出すと、ベッドサイドのテーブルに湯を張ったボウルとタオルを準備していく。
それを終えるとメイドは一礼して退出していった。
百合恵に渡されたティーカップには緑茶のような薄い水色の飲み物が注がれていた。
それに口をつけるとレモンのような爽やかな味わいで起き抜けに相応しい一杯だった。
お茶を飲み終えた百合恵はベッドから抜け出し、セットされたボウルで顔を洗った。
昨夜は部屋に案内されてすぐに寝入ってしまったため、内装にまで目がいかなかったのだが、朝陽で明るくなった室内はとても百合恵好みであった。
淡いミントグリーンに花柄が散った壁紙は上品で、重厚な家具は立派だが重苦しさはなく猫脚が優美で、女性のために設えた客室のようだった。
まるで自分が貴族にでもなった気分だと思いながら百合恵が部屋を眺めていると、また扉を叩く音がした。
「どうぞ」
声を掛けると、先ほどのメイドが大きくて平たい箱を持って入室してきた。
「ラルフ様が朝食をご一緒なさりたいそうなので、お着替えをお願い致します」
メイドはそう言うとベッドに箱を置き蓋を開けた。
中にはドレスとワンピースの中間のような貴族の平服と思われる衣装が入っており、メイドそれを取り出してベッドに広げていく。
下着が出てきたとき百合恵はさすがに驚いたが、確かに必要なものなので助かった。
全てを取り出し広げた後、メイドは「失礼します」と言って百合恵のガウン紐に手を掛けた。
反射的にその手を押さえた百合恵は、しばしメイドと見つめあう格好になった。
高貴な人は自分では着替えず、使用人にしてもらうことがステータスだったと百合恵は何かで読んだことがあった。
今のこの状況はまさにそういうことだろうが、百合恵は断りたかった。
ガウンの下は下着を着けておらず、女性同士でもさすがに恥ずかしいからだ。
自国では身分に関係なく着替えは自分でしていたと言って断ろうかと思ったが、百合恵は異文化に触れて見聞を広げるためにここに来たという建前なのだ。
ここで自国の習慣を押し通して、この屋敷にいる意味が薄れてしまうと困るのは百合恵だ。
百合恵は羞恥心と今後の生活を天秤にかけた。
「・・・お願いします」
奇妙な間をおいて離された手にメイドは一瞬眉を動かしたものの、何事もなかったように百合恵を着替えさせた。
成すがままにされていた百合恵が出した指示は、「コルセットは締め過ぎないで」ということだけだった。
そのあとドレッサーの前に座らされた百合恵は胸まである黒髪を結い上げられた。
アレクと別れて以来、百合恵は髪形を変えていなかった。
再会したときにすぐにわかるようにと思ってのことだったが、アレクは百合恵に気付かないどころかその記憶に留めてさえいなかった。
どうしたらアレクに自分のことを思い出してもらえるのか百合恵にはまだわからないが、こうして彼と過ごしていた時とは全く違う格好をすることで、ますます彼が思い出す可能性から遠ざかるのではないかと不安になった。
「お気に召しませんでしたか?」
だんだんと表情を曇らせていく百合恵に気付いたメイドが心配そうに声を掛けてきた。
物思いに耽っている間に百合恵の髪は左右からゆるく編み込まれアップされており、仕上げにリボンで飾られていた。
こんなに綺麗にしてもらったのだ。
普通だったら大喜びで自撮りしているに違いないと百合恵は気を持ち直し微笑んだ。
「こんなに綺麗に結ってもらったのは初めてです。ありがとうございます」
百合恵の言葉にメイドが笑顔を見せた。
このメイドは赤毛で綺麗な顔立ちをしており大人びて見えるが、その笑顔を見て意外と年下かもしれないと百合恵は密かに思った。
メイドに案内され食堂に入るとすでにアレクとラルフが席についていた。
ラルフしかいないと思っていた百合恵は喜びとともに緊張を感じた。
執事のウィルが引いた椅子に腰かけると百合恵は三人に向かって朝の挨拶をした。
アレクは無表情に、ラルフは明るい笑顔で、ウィルは隙のない笑みで、それぞれが挨拶を返す。
長いテーブルのお誕生日席にアレクが座っており、その彼を挟むようラルフと百合恵が向かい合い座っている。
「昨日はよく眠れた?」
「はい、おかげさまで。洋服もありがとうございます」
百合恵に話しかけてきたのはやはりラルフで、アレクは黙って食事を摂っている。
朝食はパンと野菜スープにフルーツといった軽いメニューだった。
「髪を上げると雰囲気が変わるね。よく似合ってるよ。ね、兄さん?」
「・・・・・・」
挨拶のときチラリと百合恵を見たきり、アレクは目も合わせない。
まるで空気扱いだと百合恵は思った。
何か声を掛けてくれるのではないかと期待してアレクを見つめてしまった自分に百合恵は恥ずかしくなった。
アレクから視線を外すときにラルフと目が合ってしまい、ラルフが申し訳ないという表情をしたので、百合恵は余計に居たたまれない。
それを誤魔化すように百合恵はもくもくと手を動かした。
「そうだ、ユリ。今日から午前中は俺とこの国についての勉強をしよう。午後から俺は仕事をするから、そのあいだは屋敷内でも庭でもうちの敷地内だったら好きに散策していいよ」
「はい。よろしくお願いします」
ラルフの言葉は言外にアレクへ向けられており、アレクが何も言わないということはそれを黙認したということだ。
そして執事のウィルがいるこの場でその話題を出したということは、百合恵の行動の自由又は制限に関してアレクが了承していることを知らせるためだ。
そのことを理解したウィルはラルフに向けて目礼した。
アレクが席を立ち部屋を出ていく。
挨拶をしたきり一言も話せなかった百合恵は、その背を見送りながらテーブルの下で膝に置いたナプキンを握りしめた。
この世界のアレクは近寄りがたい空気を漂わせており、声を掛けがたい。
百合恵の部屋で二人で生活していた時は何気ない会話にも気安く応じてくれたのだから、アレクは百合恵のことが嫌いであのような固い空気を纏っているわけではないと百合恵は信じたかった。
その後、百合恵の食事が終わるのを待っていたラルフとともに食堂を出て部屋へ戻った。
「あとで呼びに行くから、それまでゆっくりしてて」
百合恵の部屋の前でそう告げると、ラルフは自室へ戻っていった。
百合恵は窓辺に立つと庭を見下ろした。
今着ている長袖のドレスでも暑くないということは、この国には夏がないのだろうか。
綺麗に整えられた庭に白い花が咲いていて、百合恵の心を和ませてくれる。
窓を開けると心地良い風が入ってきた。
日本で言うなら春のようなのどかさだ。
贅沢だなと百合恵は自嘲した。
つい昨日こちらの世界に来るまでは、ただアレクに会いたいと願い切ない日々を送っていたのに、実際アレクに会えた今はどうだろう。
百合恵は再会に感謝するどころか、自分を忘れられたことに胸を痛めている。
睨まれたと言っては傷つき、目が合わないと言っては落ち込み、言葉が交わせないことを嘆く。
百合恵は全部アレク頼みだったことに気が付いた。
アレクに見つめてほしい、優しくしてほしい、声を掛けてほしい・・・全てアレクから何かしてほしいと願っているだけであった。
「はあ・・・。こんなところまで来て何をやっているんだろう私は」
せっかくアレクと同じ屋根の下に居れるのだから、出来ることからやっていこうと百合恵は気持ちを新たにするように深呼吸をした。
アレクに忘れられ冷たくされた悲しい思いも切ない思いも確かにあり、その感情を否定することは百合恵には出来ない。
だが、その気持ちだけで日々を過ごしていくこともまた辛くて出来ないと百合恵は思った。
百合恵とアレクが二人で過ごしていたとき、アレクは百合恵のどこを好きになってくれたのかはわからないが、また一から始めるつもりでいこうと百合恵は決めたのだった。