十三話 事情聴取
髪を拭っていると、扉が叩かれる音がしてラルフのくぐもった声が聞こえた。
「もういいかな?」
「はい、どうぞ」
淡いクリーム色の上着に着替えたラルフは首元に深い緑色のスカーフを巻いていた。
まるで王子様のようなラルフのいでたちに百合恵は軽く目を瞠った。
先ほど見たアレクも濃紺の生地に金銀の刺繍が入った上着を纏っていた。
二人にはその装いがしっくりきていたので、ここは中世ヨーロッパに似た世界かもしれないと百合恵は納得した。
「少しは落ち着いた?」
隣に座りながら問いかけるラルフに、百合恵は頷いた。
「先ほどからお気遣いいただきありがとうございます」
「別にいいんだよ。ちょっと面白そうだと思ったのもあるしね」
面白そうとは何のことだと百合恵が問おうとしたとき、また扉を叩く音が聞こえた。
ラルフが「どうぞ」と声をかけると、ティーセットを載せたワゴンを押してアレクが入ってきた。
アレクはそのままソファの近くまでワゴンを押してくると、無言でお茶の準備を始めた。
「侯爵様に手ずからお茶を入れてもらうなんて悪いなあ」
「そう思うなら手伝え」
その言葉に腰を浮かしたのはラルフだけではなかった。
百合恵も手伝わねばと条件反射で腰を浮かしかけたのだ。
だがアレクの冷たい一瞥を受け、結局腰を下ろしたのだった。
それを見ていたラルフはアレクの手元を見ながら苦笑する。
アレクが注いでいるお茶はジンジャーをはじめ数種類のハーブがブレンドされた体を温める効果のあるものだ。
冷え性の母親が好んで飲んでいたため、色と香りですぐにわかった。
アレクは濡れた彼女の体を気遣って、このお茶を用意したのだろう。
おそらく無意識のうちの選択だろうが、不器用なことだとラルフは思う。
広く社交はするが家族以外には滅多に心の内を見せないアレクは、一見冷たそうに見えるが、必要なところにはきちんとした気遣いのできる人物なのだ。
そのことに彼女が気付いてくれるだろうかと思いながら、ラルフは百合恵の前にお茶を置いた。
「温まるから、冷めないうちにどうぞ」
アレクと自分の分のお茶をそれぞれセットしたラルフは、再び百合恵の横に座りながら彼女の様子をうかがっていた。
百合恵はソーサーを手に取りカップを口元に運ぶとゆっくり口をつけた。
「ジンジャーですかね・・・。温まりそうです。ありがとうございます」
これ以上冷たくあしらわれるのも嫌だったが、心遣いにはやはりきちんとお礼を言いたいと思った百合恵は向かいのソファに腰を下ろしたアレクに遠慮がちに声をかけた。
礼を言われたアレクはアイスブルーの瞳に微かに驚きの色を見せたが、それは一瞬のことですぐに元に戻ってしまった。
その様子に満足し、空気が和んだことを感じたラルフは、この不可思議な事態を紐解くための問いを百合恵に向けた。
「さて、落ち着いたところで少し話をしようか。あなたはどこからやって来たのかな?」
百合恵は簡単な自己紹介と彼女の世界の日常やこれまでの生活、そしてアレクがトリップしてきたこと、そのひと月半後に彼は元の世界に戻ったこと、それから一年後に今度は自分が彼の世界にトリップしたことを説明した。
ただ、アレクの態度から、二人が恋仲になっていたことは言えなかった。
「つまり兄さんは階段から落ちて頭を打ったショックで異世界に渡り、あなたと生活を共にした。そして今度はあなたが入浴中にバスタブの底が抜けて気が付いたらこちらの世界に渡っていた。そういうこと?」
言葉にしてみれば実に突飛な話だが本当のことなのだという思いを込めて百合恵は強く頷いた。
だがアレクは眉間にしわを寄せて百合恵の言葉を否定した。
「私は異世界などに行っていない。一年前に階段から落ちてもいないし、ひと月以上屋敷を留守にしたことなどない。それはラルフも知っているだろう」
「たしかにね。だけど、彼女が水の玉に包まれてこちらに現れるのを見ちゃったからね。彼女の話を否定するにはあの現象を説明できないとね」
さすがにアレクもあの水球の中の女性が宙に浮く現象を見なかったことにはできず、苦い顔で押し黙った。
そんな兄を横目にラルフは百合恵に質問を重ねる。
「兄さんがあなたの世界に渡ったという証拠はないかな?たとえば一緒に生活していた時の様子でもいいんだけど」
アレクの世界に一糸纏わぬ姿で来た百合恵には、自分が異世界から来たと示すものを何も持っていなかった。
あるのは自分の体と記憶だけだ。
アレクが百合恵のもとにトリップしたとき、彼の記憶は曖昧な部分が出来たが、今の百合恵にそのようなことはなく、すべて覚えていた。
「ええと。アレク・・・様は、はじめはそう呼ぶのを馴れ馴れしいって嫌がっていて、でも話をしていくうちに呼ばせてくれるようになって。それからアレク、様はお茶を飲む姿がとても綺麗で。あとは煮込み料理が得意でした。軍隊だったかな・・・そこで覚えたとかで。それから剣術も好きだと・・・」
兄さんそのものの姿だなとラルフは感心して聞いていたが、アレクは納得していない様子で口を開いた。
「そんなことは少し調べれば誰にでもわかることだ。君の作り話の証拠にはならない」
「う~ん、他には何かないかな?」
アレクのきつい口調を宥めるように、ラルフは百合恵に問いかけた。
アレクの言葉に胸を痛めながらも百合恵は必死に記憶を手繰るが、証拠になりそうなものは浮かばなかった。
「ほかに印象深かったのは、アレク様の笑い方でしょうか・・・。左の口角を上げて笑うアレクの笑みを私はとても好きだったから」
これは何の役にも立たないなと肩を落とす百合恵だったが、アレクとラルフはその話を聞いて驚きに固まった。
百合恵が語ったあのアレクの笑い方は、彼の癖のようなものだが、それは特定の者しか見ることができないものであった。
社交場では完璧な微笑みを見せるアレクが、心を許した相手だけ、家族やごく少数の親友だけに見せるのがあの左の口角を上げる笑みなのだ。
「これはもう彼女の話を認めるしかないんじゃない?」
「しかし・・・本当に身に覚えが・・・」
戸惑うアレクにラルフが追い打ちをかける。
「あれじゃないの?あちらの世界では記憶が曖昧になっていたって言ってたから、こちらに戻ってからは逆にあちらのことが曖昧になって思い出せないんじゃないかな。それに、あちらとこちらの世界は色々と違うみたいだから時間の流れ方も違うのかもよ。あちらで過ごしたひと月半はこちらでは一時間半くらいかもしれないじゃない」
「・・・・・・」
強引な解釈だと思いながらも、百合恵が突然出現した現象を否定することはできないため、アレクはひとまずは百合恵の話を受け入れることにした。