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その愛を覚えてる  作者: 桃花の宮
第二章 あちらの世界
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十一話 再会

今年の夏は雨が多く、もうすぐ八月になろうかという頃にやっと梅雨明けした。

八月に入り雨は降らなくなったものの、高い湿度で纏わりつく空気が百合恵の不快指数を上げていく。


会社からの帰り道、自宅の直前にあるこの急坂さえなければ、と百合恵はいつも思っている。

そうしたらもっと楽に家に帰れるのだ。


仕事帰りはただでさえ疲れている。

だが百合恵の疲労がピークに達するのはこのあとだ。

いや正確に言えば、この坂道を登り切った時点で体の疲れは頂点に達している。

それなのに、さらにこの上をいく精神的疲労が襲い掛かってくる。

アレクがいない現実を見るという疲労が。




アレクが消えてから一年。

あれからの百合恵はいない彼を探し、戻らない彼を待つ日々を過ごした。

日常は淀みなく流れていくのに、百合恵の心はそれに抗うように過去へ戻りたがった。


玄関の扉を開けたら彼が戻ってきているのではないかと何度期待しただろう。

誰もいない部屋に何度落胆しただろう。

一人のベッドのさみしさに何度枕を抱きしめたことだろう。


アレクが消えた現実は百合恵を疲れさせた。

百合恵の心は疲れて、疲れて、もうこんなに辛いのは嫌だと嘆いた。

そうしていつからか期待することを止めた。

願ってはダメだ、望んではダメだ、傷つくだけだと。


今日も玄関を開けて誰もいない部屋を確認するとため息が零れた。

期待するのは止めたはずなのに無意識のうちにため息が出る、その理由を百合恵はわかっていた。

期待を止めたのではない。

期待するのを止めなければと、無理やり抑え込んだだけだからだ。



もうお風呂に入って眠ろう。

汗を流したら少しは気持ちも晴れるだろうから。


ラベンダーのアロマオイルを垂らして湯船に深く浸かる。

ほんのり甘く爽やかな香りに包まれて息をゆっくり吐きだした。

あれから一年も経っている。

そう、アレクが消えた日からちょうど一年だ。


『あなたの幸せを優先してほしい。その心のままに・・・どんなときでも』


最後に聞いたアレクの言葉を百合恵はまだ覚えていた。


私はこの一年間、心のままにアレクを追い求めてきた。

でもそれで幸せを感じているだろうか。

私の心は辛いと泣いているのに。

私は今アレクを愛しているのではなく、彼の面影に縋っているだけなのではないか。


「私の心・・・私の幸せってなんだろう・・・」


気持ちがモヤモヤし過ぎている。


スッキリさせようとラベンダーの香りを吸い込んだ。

そのとき。


「っ!」


いきなり下から引っ張られるように百合恵の体が沈みお湯の中に潜っていく。

百合恵は起き上がろうと手を伸ばしてバスタブの縁を掴もうとするが、どこにも手が当たらない。

足を踏ん張ろうにも、まるで海にでも潜ったみたいに足が付かない。

もがく百合恵の頭上に浴室の天井が見えた。

そして底の抜けたバスタブ。


「えっ?!」


一瞬お湯の中だということも忘れて声を出そうとした百合恵の口の中に水が入ってくる。

苦しい・・・

もがき続ける百合恵は湯の向こう側に揺れるアレクの姿を見た気がした。

アレクっ・・・!

彼のほうへ必死に手を伸ばすが届かない。

急に視界が暗転し、百合恵は気を失った。











イグレイン王国、グランヴィル侯爵邸。


豪奢というよりは重厚といったほうが似合う屋敷の一室に、二人の青年がソファに向かい合って座っている。

一人はこの侯爵邸の主人アレクシスであり、もう一人はその弟のラルフである。

そのラルフの部屋で領地視察の話を終え寛いている二人の耳に、かすかな金属音が聞こえた。


「兄さん、何か聞こえなかった?」

「ああ。微かだが」


音の発信源を探ろうと辺りを見回すが、なにも見当たらない。

二人は顔を見合わせて首を傾げる。

その音は次第に耳を塞ぎたくなるほど大きくなり、かと思うと急に消えた。

と同時に二人が座るソファと扉の間に、大きな水の塊が出現した。


「なっ・・・!」


ラルフは驚きのあまり、吐きかけた言葉を途中で詰まらせた。

その隣でアレクは固まったように、その水球を凝視している。


突然現れた水の塊の中には、なんと女性が入っていた。

一糸纏わぬ姿で膝を抱えるように浮かんでいる。

黒い髪が水の中でゆらゆらと踊っていて顔はよく見えないが、おそらく目は閉じられていた。


「これは・・・なんだと思う?」


二人の目線よりも少し高い位置に浮かんでいる水球の中の女性を放心したように見つめていたアレクは、ラルフの言葉により我に返った。

だがアレクはその問いに答えることが出来ない。

部屋の中に突然水の塊が出現することも、その中に女性が入っていることも、さらには宙に浮かんでいることも、どれも理解の域を超えたことだった。


「魔法かな?それとも神の仕業かな?」

「・・・そんなことがあるものか」


この不可思議な現象への驚きを早くも克服したラルフは、少し長くなった金色の髪を掻き上げて興味津々に水の中を覗き込んでいる。

魔法も神も信じていないアレクはラルフのふざけた調子にため息をついた。

ラルフがそのような非現実的なことを信用していないのはよくわかっていた。

ただ好奇心旺盛なのは、ときとしていただけない。

面倒なことになりやすいからだ。


「じゃあ兄さんは今この状態をなんと説明するのさ」

「・・・」

「もしかしたら彼女は天使なのかもしれないよ?」


ラルフは翡翠色の目を細めて笑った。

よく注意してみると左目のほうが右目より少しだけ細められている。

アレクは二度目のため息をついた。

ラルフがああいう表情をするときは、お気に入りのものを見るときや、いたずらをするときや、気分が高揚しているときなど、いわゆる楽しい時だ。

こんな不可思議で怪しい事態を前にして楽しめるなど・・・アレクは嫌な予感がした。


「本当に、どうなっているんだろうね・・・」


そう言ったラルフは水球に向かって手を伸ばした。

アレクが止める間もなく、ラフルの手は水の膜を潜り抜け、その中の女性の腕に触れた。



パァーーーーン!!



途端に彼女を包んでいた水球が弾けた。

水の保護がなくなると同時に彼女が床へと落下する。

咄嗟に両腕を伸ばし彼女を受け止めたラルフは、落下の勢いに負け床に膝をついた。


「ラルフ!大丈夫か?」

「ああ・・・」


幸いにもラルフは腕と足元を少し濡らしただけで済んだが、絨毯は水を含んで色を変えていた。

彼女を抱えてソファに移動したラルフは彼女が裸であることに思い至り、自分の上着で包んでやる。

アレクはその横に立ち、じっと様子を見ていた。


「本当に、なんなんだろうね・・・」


ラルフの呟きに反応するように、彼女のまつげが揺れた。

その瞼がゆっくりと上がると黒い瞳が現れた。

彼女は何度か瞬きをすると、目の前に自分を覗き込むように見ている二つの人影をとらえた。


「あ・・・」


かすれた声を発した彼女はそのうちの一人を見て肩を震わせた。


「大丈夫かい?」


ラルフが声を掛けるが、彼女はそれには答えず、一心にもう一人の人物を見つめている。


「・・・アレク?」


彼女に名を呼ばれたアレクが驚いて身じろぎする。

彼女の意識が彼を認識するやいなや、勢いよく起き上がると彼に飛びついた。


「アレク!会いたかった・・・会いたかった!」


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