十話 消えていく夏2
「ユリエ・・・ユリエ!」
アレクは私の名を何度も呼んでは口づけを繰り返す。
苦しいほどに抱きしめられた私は返事もままならない。
「ああ・・・どうして・・・」
こんなに動揺をあらわにした彼を初めて見る。
私の体を加減を忘れて力任せに抱いているくせに、彼の声は震えて頼りない。
いま彼を支配しているのは不安という漠然とした感情ではない。
もっとはっきりとしたもの、それは怒りにも似た悲しみ。
彼のその様子で私は確信した。
「アレク・・・。元の世界へ帰るのね・・・・・・いつ?」
「・・・おそらく、明日には・・・」
アレクが曖昧だと言っていた記憶が甦ったのだ。
そこには彼がこの世界からいつ元の世界へ戻るか知り得る何かがあったのだろう。
「あなたと離れたいなんて願ったことは一度もないのに・・・!」
「何故なんだ・・・あなたをこんなにも愛おしく思っているのに何故!」
「あなたを大切にしたかった・・・それなのに、私は・・・悲しませることしかできないなんて」
「本当は私が・・・!誰よりも、私が・・・幸せにしたいのに・・・」
アレクの慟哭は私への愛の告白であると同時に懺悔のようでもあって、私は一言も聞き漏らすまいと鳴き声を上げないように唇を噛み締めた。
明日消えてしまう彼のこの声を、この愛を、この悲しみを、私は覚えておきたいから。
せめて今だけはと彼は私を掻き抱く。
本当にひとつになれたらいいのに。
思いが伝わるように彼の背に腕を回した。
私たちは宿を出た後どこにも寄らず帰ることにした。
別れる前にたくさん話をしておきたい、そう思うのに何の会話も生まれてこない。
私の中には「好き」と「さみしい」の言葉だけがぐるぐると流れていた。
彼の肩に頭を乗せ、私の頭の上に彼が頬を寄せ、新幹線の中でただ寄り添うことが唯一できることだった。
「今日は二人で夕飯を作ろうか」
自宅最寄り駅の改札を抜けたところで、日差しに眩しそうに目を細めながらアレクが言った。
京都で見せた動揺は今はもう彼の胸の内に仕舞われ、表面上は穏やかだ。
でも抑えきれないやるせなさが、アイスブルーの瞳の奥で踊っている。
「アレクは何が食べたいの?」
「ここに初めて来たときにユリエが作ってくれた・・・」
「・・・トマトとしらすのパスタ?」
「そう、それ。思い出の味だからな」
「あんな簡単なものなのに?」
「ああ・・・忘れられない」
二人並んで歩く景色も、私に歩幅を合わせながら私を見下ろすそのまなざしも、二人で作る夕飯も、二人で穏やかに食べる食事も、私の首筋に落とす熱い吐息も、左の口角を上げて笑う彼の笑みも。
私は忘れたくない。
全部、全部覚えておきたい。
最後の夜を私の部屋の狭いベッドの上で過ごす。
このベッドで過ごすとき、今までは私が一方的にアレクの腕を抱き枕代わりに抱きしめていただけだったけど、今夜は彼がしっかりと私を抱きしめている。
「ユリエ・・・私はあなたの幸せを願っている・・・心から」
これはきっと別れの言葉。
胸が潰れそうだ。
耐えきれなくなって嗚咽を漏らす私をアレクがさらに抱き寄せる。
「私も行く・・・一緒にアレクの世界に・・・行く、から・・・」
しゃくりあげながらも途切れ途切れに言葉を紡ぐ私の顔を優しく撫でて上を向かせると、彼は真っ直ぐに私を見つめた。
「あなたにはあなたの幸せを優先してほしい。その心のままに・・・どんなときでも」
アレクは言外に、彼が居なくても幸せになれと言っている。
そんなこと言わないでほしい。
今の私の心は彼でいっぱいなのに。
私はもう声を抑えることもせず泣き続けた。
彼にしがみついて、このままひとつに溶けてしまえたらいいと思いながら。
「好き」と「さみしい」の気持ちを彼にぶつけるように。
そのあいだアレクはたくさんの口づけをくれ、髪を撫で、抱きしめてくれていた。
絶対に寝たりしないと固く決めていたのに、私は泣き疲れていつの間にか眠りに落ちていた。
そしてようやく気付くのだ。
朝陽に照らされた部屋の中、ひとりベッドの上で。
アレクはもういないということに。
第一章はここまで。第二章はアレクの世界へ。




