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魔女と夢魔と左手  作者: 直弥
2/4

その2

   2.

 

 ――どうなってんだ?

 おかしい、こんなのはおかしい。母さんと右子をどうやっても、それこそ大声を出そうが体を揺らそうが起こすことが出来なかった俺は、外へと飛び出た。二人は死んでるわけじゃない。心臓はちゃんと動いていたし、呼吸だってしていた。

「そうだ、病院!」

 そうだよ、こんな時のための病院だろ! 

 射鹿村で唯一の医療施設、倉野診療所を目指して走る。そう、診療所だ。病院じゃない。だけど今はそんなのどっちだっていい。待合室に入ると、俺もよく知る村の住人であるフミ婆さんが、長椅子の上で横になって眠っていた。白寿の老人が静かに眠っているという光景に、不謹慎ながら少しぎょっとする。……胸の辺りが上下している。眠っているだけみたいだ。

 ――あれ? 

 ほっとしたのも束の間。既視感を覚える。

 ――えらい静かだな。

 考えてみれば。診療所の待合室のソファで堂々と横になって眠っているというのも随分不自然な話だ。異常ってほどじゃあないけど、日常的でもない。ぞっとした感覚に囚われつつ、辺りを見渡した。ナース服を着た受付の女の人たちが、安らかな寝息を立てている。椅子に座り、机に突っ伏して眠っている。声を掛け、肩を揺らしてみる。起きない。目覚めない。どうやっても起こすことが出来ない眠り。もうこの時点で結果は分かりきっていた。それでも一応確かめなければならない。その為に俺は診療室の扉を開けた。

 部屋の中では、倉野医師とウチの近所の男の子が、椅子に座って向かい合ったまま眠っていた。

 

 診療所を飛び出した俺は片っ端から家々に入っていき、中の様子を確認していった。ほぼすべての家に鍵はかかっていなかった。それでも不法侵入ということにはなるが、インターホンを鳴らしても反応がない以上、この非常時にそんな悠長なことを言ってはいられない。

 結局、すべての家で結果は同じ。途方に暮れかけた俺の脳裏に現れたのは、勿論、魔女を自称したあの女の姿だった。


 時間は八時を回っていた。夏とは言っても、外灯もほとんどないこの村でのこの時間帯は真っ暗に近い。月はまだ出ていない。星明かりだけが輝きを放っている空の下、膝に手をつき、乱れた息を整えている俺の前に、あの女が立っている。

「あ、やっと来た」

「はあっ、はあっ、ふう、はあぁ、はぁっ」

「大丈夫? お水飲む?」

「も、持ってるのか?」

「ううん、持ってない。買ってきたら?」

「な、なんじゃそりゃ……」一気に肩の力が抜けた。ずっこけそうになる。「……説明、してもらうからな」

「もちろんだよ」

 呑気な声と表情で、女はほざいた。無邪気に。それが。凄まじく。癪に障った。

「ふざっけんなよ!! お前、この村に何しやがったんだよ! 何の恨みがあるんだ!? さっさと皆を元に戻せ!」

「きゃっ。おお、落ち着いてよ。確かに村の人たちを眠らせたのはわたしだし、当然、起こすことだって可能だけど、まだダメなんだよっ。まだ、皆を起こすわけにはいかないんだよ」

「なんでだよ!」

「だって、そうしないと」

 君にとり憑いた夢魔を祓えない。と、魔女は言った。


「サキュバス」

 それが俺にとり憑いた夢魔だと、彼女は言った。俺たちは今、俺の部屋にいた。

「名前ぐらいは聞いたことがあるんじゃないかな?」

「ああ、まあ」

 サキュバス。人間の男の夢に入り込んで精気を奪い去っていく夢魔。ここでいう精気とは、活力ではなくて、要は子種だ。ぶっちゃけると精液だ。そんな夢魔がはるばる日本の片田舎にやって来て、俺なんかにとり憑いているということは荒唐無稽もいいところではあるけど、それを言い出したら今のこの状況がもう徹底した異常なんだ。

「昼間、わたしが君のところに着いた時には、もう君は魅入られていたから、直接見たわけじゃないけどさ、君、キスされたでしょ? 変な女の人に」

「ああ、そうだ」

 そうしたら、こいつが現れた。

「そのキスが言ってみれば準備段階なんだよね。それで、その子は君の夢に入り込む準備を終えたってとこ。あとはもう、ある程度離れた場所からでも君の夢に直接干渉出来る」

「準備か。でも、それだったら俺が寝ているところに直接来ればいいんじゃないか? 口づけしたその場で夢に入り込めばいいだけの話だと思うんだけど」

 ――そうだ、その方が簡単じゃないか?

「いや、家の中で寝られたら鍵開けられないんじゃない?」

「納得出来ねえ!! 何だ、その理由!?」

「サキュバスは夢の中でこそ強力な夢魔だけど、現実では正直言ってかなり弱いからね。ごく一部を除いて。人を自力で眠らせることすら出来ないから、ターゲットが勝手に寝るのを待つしかない。腕力なんて人間以下だよ。中学生の女の子と腕相撲しても敵わないんじゃないかな?」

「いや、でも魔法みたいなのは何か使えないのか? 壁をすり抜けるとか」

「無理でしょ。現実で使える術は結局、どれもフィールドを夢に移すためだけのものだしね」

「ああ、そう……。いや、でもこの村って、寝ている時でも基本的に鍵なんて掛けないぞ」

「そんなことまで知らなかったってことでしょ」

「適当だな。そんな奴が相手なら、こっちから出向いて行って、さっさと見つけ出して、倒すなり何なりした方が早いんじゃないか?」

 俺は当然とも思えるその考えを口にするが、それはどうにも能天気な考えだったらしく、女は首を横に振って否定した。そのジェスチャーは日本人と同じなのか。

「ダメだって。見つかりっこないよ。今頃は誰かの夢の中に隠れているかもしれないし。そうなったら幾らわたしでも手出しは出来ないもの」

「そりゃ、お前がこの村ごと眠らせたせいじゃないのか?」

「村の人たちは夢を見ないよう(・・・・・・・)に眠らせたの。ノンレム睡眠よりももっと深くて強力な眠り。わたしが言ってるのは、この村の外で、っていうこと。サキュバスの気配を感じてすぐに村の人たちは眠らせたし、それより前に眠っていた人にも同じ術はかけたよ。そこからは皆も同じように深く眠り始めたはず。君がキスされたのは少なくともその後。だから必然的に、サキュバスはこの村の人の夢には逃げ込めないようになってる」

 夢を見ないように眠らせた、か。なるほど。確かに幾ら眠っていても、夢を見ていなければサキュバスはどうしようもないわけだ。それにしても――そう考えると、この女が村人を眠らせた狙いは。

「お前が村の人たちを眠らせたのは、もしかして皆を守るためか?」

「さあ、どうかな。ただ単に、サキュバスの逃げ場を少しでも減らすためかもね」

 魔女はそう言って笑う。真偽はわからない。だけど、理由はともかく、結果的にこいつはこの村の人たちを守っていることになるんだ。だったら、恩は感じなくちゃいけない。

「とにかく、既に魅入られた人間がサキュバスを倒すには、危険だけど、夢の中じゃなきゃダメなの。現実でサキュバスを見つけられたらそれは簡単かもしれないけど、見つけるより先に君の寿命が尽きちゃう可能性の方が高いよ。そりゃあ、わたしのお祖父ちゃんかお姉ちゃんでも連れてくれば、一瞬で見つけてくれるだろうけど……。そのお祖父ちゃんたちが今はどこにいるのか分からないし」

「しかしな、そこまでして何とかしなきゃならない相手か? 精気を吸われたからって別に死ぬわけじゃないんだろ? 知らない振りをして素直に吸われときゃいいんじゃないか?」

 という俺の考えはまたも能天気なものだったらしい。

「サキュバスが何のために人間の精気を吸うか知ってる?」

 サキュバスが人間の精気を吸う理由。それはやっぱり、

「子どもを作るため、じゃないか?」

 サキュバスには女性しかいないから、子どもを作るためにはつがいとなる人間の男が必要であるって、何かで読んだことか聞いたことがある。もっとも、サキュバスからすればつがいというよりはただ精気を搾取するだけの存在に過ぎないんだろうけど。

「そう。実際には人間じゃなくても、ヒトなら誰でもいいみたいだけど。一番相性が良いんだろうね、人間が。ただ、人間相手でも、一回吸うだけじゃ子どもは出来ないんだってさ。一人の子どもを作るために、少なくとも十年はかかるらしいよ」

「十年? ってことは、その間ずっと精気を取られ続けるのか」

「そういうことになるね。しかも子どもは一人だけつくるわけじゃないだろうし。かと言ってパートナーが死んじゃったら困るから、現れるのは毎晩の夢の中だけだけどね。昼間は普通に生活を送れるよ」

「それならやっぱり問題ないんじゃ」

「いやいや。君、夢魔と結婚するつもり? それにサキュバスとしてはパートナーの精気は全部自分のものにしたいわけだよ。だからパートナーが現実で精気を発散することは避けたい。だから発散できないようにする」

 ぞっとした。だってそれは結婚というより、サキュバス専用の子種(こだね)(ぶくろ)になるってことだ。それは困る。一部の人間には魅力的かもしれないけど、少なくとも俺は御免だ。やっぱり、祓うしかないのか。だけど。

「どうやって倒すっていうんだ? さっきお前は、夢の中ではサキュバスは無敵だ、みたいなこと言ってたじゃないか」

「無敵とまでは言ってないよ。ただ強力だって言っただけで。絶対に勝てないわけじゃない。もっとも、普通の人じゃあまず無理だろうね」

「だったら、やっぱり無理ってことじゃねえか。俺は何の変哲もないごく普通の人間だぞ?」

 瞬間、魔女が目を細めた。

「よく言うよね。それだけレアな〈生得能力〉を持っていて、〝普通〟だなんて」

「はあ?」

 わけがわからず間抜けな声を出すと、突然、魔女が俺の左手を掴んだ。

「この手でやったことを、もう忘れたの?」


 ◇


 九年前、俺は親父と喧嘩した。込み入った事情なんてなく、どう思い出そうとも百パーセント俺にだけ非がある喧嘩。だから、喧嘩っていうのも本当は違う。あれはただの叱責だった。調子に乗って親に盾突いたガキが叱られただけの構図。九歳の子どもが大の大人に腕力で適うはずがない。なかったのに。倒れたのは親父だった。

 母さんは狂ったように親父の身体を揺すっていた。

 二歳にもなっていなかった妹は、どうせ意味も分かっていないくせに泣き叫んでいた。

 救急車を呼んだのは俺だった。親父は今も、病院で昏倒し続けている。原因不明のままに。


 ◇


「確かに本気で殴ったよ。親父の腹を。だけど、小学生の(パンチ)だぞ? そんなもんで今もずっと眠り続けているわけないだろ」

「そう考えるのが普通だね。君は特別な鍛練を積んできたわけじゃない人間だし。だけど、本当は薄々感じてはいたんでしょ? あれは確かに自分がやったことなんだって」

「……っ」

 図星だ。根拠なんてない。俺にとっても本当にわけの分からない事件だったんだ。でも、確かに自分が起こした事件だと感じていたのも本当だった。確信に近いレベルで。なんでだろう。 

「君の左手に宿っている力はね、〈奪牙(だつが)〉って言うの。牙を奪うと書いて、奪牙」

「奪牙?」

「そ。勘違いしてるかもしれないけど、君の力は、お父さんに対して行使した瞬間に生まれたものじゃないんだよ。ただ使い方が分からなかっただけで、君の中に確かな形で存在していたの。生まれた時、いや、生まれる前から。使い方の分からない機械を無茶苦茶に操作して偶然動かしてしまった、って感じかな。お父さんに使った時っていうのは」

「なるほど、そういうことか。それで、結局どういう力なんだ? これは」

「君は何だと思う?」

 ここで逆に質問してくるか。俺の力。それはやっぱり。

「一生気絶させ続けるとか、そういうのか?」

 そう考えるのが自然だろうな。実際、親父は今も病院で眠り続けているんだから。しかし、

「全然違う」

 その考えはあっさりと否定された。

「じゃあ、なんなんだよ。分かるわけがないって。あの一回しか使ったことないんだから」

 ――しかも無意識だったし。

「まあ、それはそうかもね。君の力、それはね、敵と判断した相手が持つ最も優秀な攻撃手段、つまりそれを〝(きば)〟って呼ぶんだけど、それを奪う能力だよ」

「ええっと……」

 なんだそれは? 思ったよりややこしそうな力だな。だけど、どんなものか、大体の見当はついた。でもそれが、

「それがどうして、親父が眠り続けてることに繋がるんだよ」

「考えてもみてよ。人間の一番の武器ってなんだと思う?」

「人間の一番の武器……」

 何だろう? 腕力か、脚力。その何れも違う。つまる所、人間の最大の武器っていうのは、

「思考とか、理性とか?」

「正解」

 正解した。考えてみれば、そりゃそうだ。人間がどれだけ体を鍛えた所で、たとえば石や煉瓦で頭を思い切り殴られでもしたらただでは済まない。落ちている石を拾い、それで相手の頭を狙って叩きつける。そんな単純な、猿にだって出来そうなことでも、思考は要る。人間にとっての思考は、つまり攻撃手段としても最高峰の物だと言えるのか。

「常識外の腕力を持った人間とか、君みたいな特殊な能力を持つ人間は他にもいるわけで、一概に人間の〝牙〟=思考能力とは言えないんだけどね。だけど、一般人の場合、普通はやっぱり思考能力だよ。君のお父さんがそうだったように」

 俺は親父から思考能力ことを奪った。思考が出来なければ、当然話すことも出来ない。動くこともできない。結果、まるで人形の様に眠り続けることになる。思考出来ないということは、夢すら見ていないんだろう。

「……返したい?」

「え?」

「お父さんに、思考する能力を」

「返せるのか?」

「返せるよ。でもその前に、まずは君が助からないとね」

 そう言って魔女は俺に優しく微笑みかけた。

「なぁ」

「何?」

「俺の力だけじゃなく、俺の過去まで知っていたり。お前、一体何なんだ?」

「だから、魔女だってば。ただその、君が普通の人間から少し外れているみたいに、わたしも普通の魔女からは少し外れているというか。実は、わたしのこの眼だけど、他人の心を読む眼ってわけじゃないの。他人のすべてを読み取る眼なんだよ。……こんな眼のせいで、小さい頃は色々と苦労したんだ。君みたいに」

 そう言って。魔女は、今度は悲しげに微笑んだ。同情するような目が辛い。こいつは本当に俺のすべてを見透かしている。俺は、親父との一件以降、自分におかしな力があるかもしれないという恐怖心から、極力、親しい友人を作らないようにしてきたんだ。だから学校に行かなくていい休みの日は、身体以上に〝心が休まる〟し、長期休暇には必ず、人の少ない田舎に帰って来ていた。本音を言えば、もっと都会で遊びたい年頃なのに。

 ――だけどそんな日々が、もしかしたら終わるかもしれない。この魔女が、終わらせてくれるのかもしれない。

 魔女の眼を見る。きっと、同朋の多くにすら忌避されてきたであろうその眼は、今まで見てきたどんな人間の眼よりも澄んでいた。


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