表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

冷凍冬眠槽

ムーンスター・オデッセィ

作者: gaia-73

 

 

 飼っていた蝙蝠から、虫の足みたいなのが生えてきました。

 お医者さんに行ったら感染症の一種だと言われました。

 なんと、人間にも感染(うつ)るのだそうです。


「きみ、3日以内にその蟹の足が生えてきたら、また来なさいね。有難くもらっ……いや治療しますから」と、初老のお医者様はおっしゃいました。生えてきたのは虫の足ではなく、蟹の足だったのですね。言われてみれば私のかわいいファイフラッセルちゃんの足は確かに逞しい蟹さんのおみ足なのでした(でもこれでは重くって、とてもとても空を飛ぶことはできませんね)。――残念ながらさっぱり蟹に誘われたことがない私なので翼長20センチのファイフラッセルちゃんから生えた足を、しげしげと見つめて今後の訓戒を何か得ようと思いました。――足はサカサカと高速で動き回っています。赤くはありません。海の匂いがします(蝙蝠の匂いも、勿論しますけどね)。と、そうこうしているうちに屋上に着きました。屋上には憩いの場があるのです。街は羽化する途中の蝉のように神妙に静まっていました(実は今は夜なのです)。いやここは蟹さんにあやかってサンゴ礁のようにとでも言っておきましょうか(でもサンゴ礁が静かなのは昼間だけなのですけれど――なんたって夜行性ですから――私のように)。

 屋上は街の中心にあるために、一番せい(・・)が高いために、街の中でもっとも時間の経つのが遅い場所なのです。何かこう重力のせいでしょう。なにせ中心に届くのはそこ(・・)くらいのものなのですから。――私がしばらく屋上を歩いてトコトコとフェンスの辺りに来たとき、すでに黒猫のセデゲムがそこにもたれていたことに気が付きました。「遅いじゃないか」と彼女は少し怒ったように言いました。「ファイフラッセルちゃんを病院に連れて行っていたのですよ」と私は答えました。「お前から呼んでおいてそれなんだものなぁ相変わらず勝手な奴だぜクレイヤンクールはさ」セデゲムは憎々しげながらも口端を上げたのでした。「懐かしいですね。ここでこうして逢うのは」私は抱えていたファイフラッセルちゃんを右肩に乗っけて言いました。「ああ、懐かしぃ……ってオイ! 蝙蝠にキモい足が生えてるぞ!!」悲鳴のような声を出してセデゲムが叫びます。耳がピンと張りつめていました。「なにやら流行っているようですよ、こういうの」「病気か?」「ウィルス性だそうですが、我々には感染りませんよ」「本当だな?」「人間には感染るんだそうですけどねぇ」夜の種族である我々にとってこの程度の災厄は意味を成しません。西暦102000年代の現在においてさえも我々の数が紀元前の頃よりむしろ多いくらいなのがそのよい証拠と言えましょう。「霧に煙る倫敦(ロンドン)が廃墟と化してから、既に100000年あまりが経つのか……早いものだなぁ」「太陽が赤色巨星と化す50億年後なんて、このぶんだとすぐに来てしまいそうですね」「――太陽風で燃え尽きる最期も、悪くないか」「もちろんそれでも死ねるとは限らないですけれど」「それでも宇宙放射線に被曝するよりはましな気がするがね、私は――」セデゲムの尻尾はフェンスに巻き付いて震えていました。夜の種族たる我々は、しかし虚無の種族たり得なかったということでしょうなるほど我々も死ぬのが怖い。「そういえばセデゲム、こんな話を知っていますか?」耳をぺたりと頭に張り付け、その未来へと潜考するセデゲムに私の気持ちも誘導されたのでしょうか? 私の中の夜に安らかな月光が差し込んだようでした。「あれは確か第四次大戦の頃でしょうか《ユーフォビ》というそれなりに大きな軍艦がありました。その軍艦には劇場の踊り子と噂話と野性的な人魚と、異国の商人とアメリカの博士が乗っていました。商人の手の甲には鎌と槌が交差した入れ墨があり、博士の専攻は量子帝王学でした」めくられた記憶のページは数万年の間にどこも欠けてはいないようです。私は続けます。「――商人は利益を重んじ、博士は学術的価値を重んじました。そして他の乗組員は全員そんなことは知った事ではありませんでしたから、ずっと機関銃ばかりを撃ち続けていました。そしてユーフォビ自身はずっと退屈で、孤独でした。彼らは107回の海戦で勝利しましたが、その半数は味方の船でした。司令部は怒りユーフォビの羅針艦橋(エーグ)へと当時開発中だった強力な粒子砲(ビーム)を撃ち込みました。甲板は地獄と化しました。飛び散った脂肪酸と、融けた重金属の臭いしかしませんでした。ユーフォビはそこでひとつの決断をしました。乗組員全員をその鋼鉄の身体へと取り込んだのです」私は、そこで一旦ことばを切りました。「それで?」セデゲムはちらっとこちらを視て先を促しました(・・・・・)。私は続けました。「そして、……出来上がったのは脈打つ戦艦(・・・・・)でした。焼け爛れた金属の皮膚からは同じように爛れた人間の一部が蠢いていました。腎臓がてらてらと月光に照らされながら血液を鋼鉄の機械に送っていました。操舵室の椅子からたらたら(・・・・)と垂れる液体は、椅子の被膜(シート)から覗く剥き出しの脳髄と眼球から溢れていました。腐ったような臭いがしていました。船はその後どんな攻撃にも耐えました。もし1954年に行われた水爆実験に居合わせていたとしても、彼らはきっと(・・・・・・・)無傷だったでしょう。彼らはそれから何世紀も何世紀も海を彷徨いました。時には接触する人間もいましたが大抵は呪われたと思い込みました、多くは海賊でした。ユーフォビは地球が滅んだ後も沈むことはありませんでした。海が消えても宇宙空間のその虚無と無慈悲な厳しさの中で存在し続けていることでしょう。脈打ちながら今もそうでしょう。宇宙(コスミク)のどこかで永遠に彷徨いながら、ね――」虫の鳴く声が聞こえましたがこれは松虫でしょうか、よく分かりません。「ようは宇宙空間で永遠に生きなければならないとしても、死んだように生き続けなければならないとしても、死にながらにして・・・・・・・・生き続け(・・・・)させられねばならないにしても、それはきっと私達だけではないというお話です。……お分かりですか? セデゲム」そんな悲しそうな顔をするものではありませんよ。「うぅん――でもなぁ、クレイヤンクールよ。君はそれを視たことがある(・・・・・・・)のか?」「視たことなどありませんよ」と私は笑って返しました。「君はグリーゼ581dを確かめるために数万年かけて惑星の実物を視にいくのですか? ナガサキの惨状を確かめに、君は時間を超えていくのですか?」「でも赤ん坊が自分の手を確かめる手段は」セデゲムは緑色の瞳を、私へ向けます。「まずは視ることしかないじゃないか」「それでも、」わたしも自らの紅い瞳を彼女へと向けました。「いちいち確かめているくらいなら、次を知る方が経済的です。それが経済なのだという言葉さえあるほどなのですよ。」「わからないな(・・・・・・)」「夢と同じです」「()とも同じか?」「ハハ……君の夢が祭であることはわかりましたよ」「――いや、経済が祭(・・・・)と同じだと言ったんだ」――屋上の空気は冷えていました。中心では月光が球形に取り囲む街を照らしていました。私とセデゲムはフェンスのそばで向かい合っていました。そこにひとつの影が、近づいてきました。それは小さな影でした。それは人間の影でした。ファイフラッセルちゃんが鳴かなければ私も気付かなかったかもしれません。「セデゲム、逃げる準備をしておいてくださいね」と私はふたりのあいだでしか通じない符号――もちろん声も出ず、気配も変わりません――を使って伝えました。屋上へと降り立ったその方は、黒い詰襟の学生服を着ていました。襟に世界政府の紋章がありました。――それはヴァンパイア・ハンターでした。



「《真実は暗闇で見つかる》――そう書いたのは20世紀の前半に活躍したSF作家ケネス・ロブスンだったんさ。でもこの作家の正体は既に活躍していたレスター・デントをはじめとした八人のパルプ小説家でありましたんさ。――彼は実際にはいない作家だったわけさ?」腰の日本刀(カタナ)に手を掛けながら、そのハンターは我々に語りかけてきました。気付かれていることに気付いていたのでしょうか。キトロピーグージュ・コックリート=ラインスターと名乗りました。鈴のように高い、可憐な声でした。「自分は貴妖(アナタ)がたを亡ぼす積もりで、参上した次第でしたさ」驚いたことにその方の見た目は私よりも更に幼い少女でした。まだハイ・ティーンというのは若いように思いました。しかし、ぞっとするような表情でした。まるで太古の爬虫類のような、あるいは牛を狩る禽類のような、そんな眼をしていました。まばたきを殆どしませんでした。肌は白く、瞳は穴の開いたように黒い。髪は後ろで束ねられ、やはり墨のように黒い。唇には同じように真っ黒のルージュが引かれています。詰襟には金色の釦が月光に輝いていました。白い手袋が夜に映えていました。

 長いので、彼女のことは《キト》さんとでも呼んでしまいましょう。キトさんは諦めていました・・・・・・・。それでも彼女は仕事をしに来たのです。彼女はそこにいる・・・・・人間でした。少なくともそこに居ようとしていました。そこにいなくなることの・・・・・・・・できずにいる・・・・・・人間でした。「自分は貴妖(アナタ)がたを、殺すべきでしょうか? 今は自信がありませんのさ。その蝙蝠を見て自分はどうしていいのかもう、分からなくなりましたさ」「ファイフラッセルちゃんのこの蟹さんの足のことでしょうか?」「それがどういうもんか分かっていなさるんさ?」「病気だとお聞きしましたよ。私たちには感染らないのでしょう?」「そりゃ、貴妖(アナタ)がたに感染る病原体など存在しませんけどさ」「ではなぜキトさんは襲ってこないのです」「おそらく貴妖(アナタ)がたは永くないでしょうからさ」見なさい、と言ってキトさんは詰襟の前をちゃっちゃとはだけ出しました。詰襟のホックと釦を外し、下のワイ・シャツの釦も外してゆきました。すると鎖骨の少し下、まだ幼い溪谷の上辺に生えているものが見えました。あの蟹の前足でした。首の方へ伸びたその足はハサミを震わせており、あるいはネックレスのようにも見えるのでした。「視えますかさ?」この蟹の足は、とキトさんは言いました。「もうこの時腔(じくう)臼街(きゅうかい)の人間のほとんどが罹っていますんさ」「はあ……」「いやまだ植物には感染しちゃいないですがさ、あとの生物には粗方感染していますのさ」キトさんは蟹の鋏に手を触れ、白い手袋でその暗い赤茶けた足を摘まみました。胸元から引っ張られ引き延ばされたそれが根元から引き千切られたのはその直後のことでした。乱れた息が聞こえ、千切れた足の付け根が月光を反射し、硬い、蟹の殻が、荒く噛み砕かれる音が、辺りへ響きました。野蛮な音でした。獣が立てる音でした。すべてを喰べ尽したのち、彼女はまたこちらを向きました。口のまわりが汚れていました。

「人間は蟹には勝てない」――呆然とした表情を一瞬で消したキトさんはハンカチーフで口元を拭ってから唇にノワールのルージュを引き直しました。胸元を閉じながらキトさんは話し始めます。「――もともとこの病原体は、エイズ・ウィルスに取り込まれた特殊な(そう、よくわからないほどに特殊な)プリオンの一種でしたさ。だから最初はその宿主の感染者にしか現れない性質だった。だがそれがいつしか宿主のウィルス自体を喰いつくしたんさ。こいつらは空気感染もしない。体液で感染もしない。でもこいつらは過去に類を見ない速度と規模で広がっているのですさ」キトさんは月光に照らされた屋上において肌の白さを際立たせていました。きっと彼女も夜の住人といった生活習慣なのでしょう。何せ我々の敵なのですから。しかし夜の住人だからと言って必ずしも白いわけではありません《月光浴》という言葉のある通り月の光は太陽の光の反射であるため長く当たり続ければ月の光で日焼けをすることもあり得るのです。現に欧州を旅するサーカス団の人間などはみな夜の仕事でありながら日焼けをしていたと伝わっています。――つまりキトさんは本当に夜の暗闇で生きてきたのでしょう。私とセデゲムとファイフラッセルちゃんは彼女の話を聞きながら逃げるためのルートを確認しました。いやルートというのもおこがましい。フェンスを腐蝕させながら突き破れば、あとは街に紛れるなど造作もありません。キトさんはそのことをもちろん承知でしょうが、特に手を打っているようには見えませんでした。まさか仲間が潜んでいるのでしょうか。しかしそんな様子は伺えないのでした。「――こいつらは自身を食べられることでしか他の個体に感染することができないんさ」キトさんの話はまだ続いていました。彼女の手はもう腰の日本刀(カタナ)には伸びませんでした。我々を殺そうとしないヴァンパイア・ハンターは疲れた眼でこちらを見据えるのでした。「人間は蟹を見ると食べずにはいられないから。《食べたい・・・・という欲望が・・・・・・、人間の脳に巣食うそんな欲求がこのウィルスたちを、増やしているのですさ?」それは物を食べたいという欲求のない我々へのあてつけなのでしょうか。とりあえず私は、さっきから気になり始めたカサカサいう蟹の足音を消すためにファイフラッセルちゃんの足を全て平等に引き千切りました。ぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶち、ぶちぷち、きゃん! とファイフラッセルちゃんは気持ちよさそうに悶えました。これは言ってみれば動く吹き出物かカサブタのような感覚なのでしょう。私はその八本の足を素早く振りかぶり、キトさんへとナイフのように投げつけました。普通の人間なら致命傷にもなりかねない速度。しかしハンターの反応速度はそれを易々と上回り飛来する足を中空において鞘から抜いた日本刀(カタナ)ですべて斬り捨てるとそのまま已む無しと攻撃に転じようとしてきました。恐ろしい戦闘能力ですまともに戦えば危ういのはこちらでしょう。ですが今回の武はこちらにあると言えます。なぜなら彼女は、自分の斬り捨てた蟹・・・・・・・・・の足を食べないわけに・・・・・・・・・・はいかない・・・・・からです。フェンスを腐蝕させるまでもない。私はセデゲムとファイフラッセルちゃんを抱え、悠々と時腔(じくう)臼街(きゅうかい)の摩天楼へと飛び去りました。




 時腔(じくう)臼街(きゅうかい)は織り込まれた地球ですが、地球自体はもうありません。そこに登る太陽も月もそこにある限りにおいて本物ですが、もともとのそれとは究極的には関係がありません。しかしその外には依然として旧太陽系が存在しており、付近には八つほどの時腔(じくう)臼街(きゅうかい)が点在しています。超巨大なカラビ=ヤウ空間とでもいうのでしょうか。おそらく違いますが似たようなものでしょう。それらの時空隙(げき)で人類は連絡をし合いながら暮らしているのですが、直接外に出ることは叶いません。移動には、世界政府の辿位(てんい)装置(ターミナル)を用います。――ヴァンパイア・ハンターを召喚するその装置が我々にとってどれほど邪魔なおそろしいものか知れませんが、それ無くしてこの世界は持続可能な生活を手にすることはできないでしょう。我らも大陸(くが)のひと(くれ)であり人をただ家畜として見るような中世以前の御先祖様のようにはどうしてもいきますまい。バッタを食べ尽したカマキリは飢えるしかありません。カマキリにはやがてきたるであろう死が、我々には通りすぎていくものである以上それはもうなおさらそうせずには置かれないのです。

 あれから数晩が経ちました。セデゲムは私のもとを再び去り行き、ファイフラッセルちゃんはまた足をすこしばかり生やしました。そして私はと言うといま夜を食事へと駆けているところです。街から町へと流水は避けて、できればニンニクの臭いのしない爽やかな息の方が理想です。

 私は目的地も無く屋根から屋根へと伝い歩き、ときに跳び、窓を覗いては通りすぎました。私は町にも飽き、いつもなら足を運ばないような方角へと進んでゆきました。市街地の郊外に広がる原っぱにはひっそりと屋敷塀の連なりが視えています。土地の広さも相まって大きな家々が、――ふるい洋館等が視えていました。そうしてそのなかに建つ一軒に私はこころ惹かれ、今日の食事をそこで取ることに決めたのでした。それは石造りの館であり、(ぶな)(みず)(なら)の巨木に囲われたそこは、古めかしい尖塔や櫓楼が冴え冴えと月光を受けていました。正面には大きな鉄の門なぞもあり、麝香(じゃこう)葡萄酒の香りでもしてきそうな雰囲気でした。建材は滑らかに磨かれた自然石で、コンクリートの類もほとんど使用されていません。絨毯は厚く柔らかい。部屋の扉をひとつずつ開けて住人を探す楽しさも、数時間後には住人の発見と共に終わりを告げました。

 ちょうどよい少年が眠っていました。年頃にして十一歳ほどでしょう。肌は健康に赤みを帯び、頬に触れると温かい。血と時間の静かな過程を経て、人細胞の中の糸が織り合わさり、ひとりの少年を形作っていました。私は「あはっ」と嬉しさのあまり声を上げると、容赦なく首筋に牙を立てました。このときの私には数秒後の自分が床を転げまわっていることなど予測できなかったことでしょう。少年の血は、赤くなかったのです。



 赤い血が生命の証であるというのは宗教の常識ですがそれはひいては我々の常識でもありました。赤い血の中の鉄という金属は、武器となることで争いと死を呼ぶために破滅の一端を象徴するのです。しかし世界には銅元素を主成分とする青い血が存在します。空気に触れると透明に変ずるために一般にはあまり知られていませんがそれは、例えば昆虫や蟹のような・・・・・脊椎動物以外の動物に通う血なのです。――私はここまで考えたとき、既に少年の胸を引き裂いていました。肉を掻き分けて白い膜を引き千切り、溢れる透明な血液を飛び散らせて、骨を、内臓を、窓から注ぐ月光のもとに博覧させてゆきました。そこには、少年の体内には、どこもびっしりと、小さな蟹の足・・・・・・が生えていました・・・・・・・・。骨から生えるもの、内臓の一部として脈打つもの、体内においてさえ何かを掴もうとするかのように、鋏を動かすもの。私は絶句しました。それは死刑宣告でした。赤い血がないのなら、我々は生きてゆくことが・・・・・・・・できない・・・・

 死ぬのか? 亡びるのか? こんなにも早く・・・・・・・? ――馬鹿な、まだ人類すべてがこうなると決まったわけではないのだ。しかし、私の脳裏にはキトさんの言葉が反響していた。『――人間は蟹を見ると食べずにはいられないから。《食べたい・・・・という欲望が・・・・・・、人間の脳に巣食うそんな欲求がこのウィルスたちを、増やしているのですさ?』人が人である限りこの病に打ち勝つことは出来ないのだと気付きました。我々は赤い血のなくなった世界で飢えながら、全ての望みに見放された生物として消えていくしかないのか? どうして! 嫌だ、死にたくない! 怖い。人でない我々に、祈るべき神は存在しない。魂の救済などない。混乱する私の前で引き裂かれた少年の胸は塞がり、蘇生してゆきました。それもおそらく蟹の仕業であるとわかりました。そう、キトさんが手を下す必要などなかったのです。我々に感染することのない蟹はその性質ゆえに、我々を亡ぼすのです。なんという逆説でしょう。何という非情でしょう。私たちの永遠は唐突に、終わりを告げられたのです。

「――泣いていなさるんさ?」と、そこで響いたのはキトさんの声でした。窓から降り立った彼女は、私へと鋭い日本刀(カタナ)の切っ先を突き付けてきました。「今なら一瞬で、楽にしてあげられるんさ」彼女の眼には哀しみの色がありました。「貴妖(アナタ)がたは永く生きすぎた。ここいらが潮時ではないですか?」

 私はその切っ先を見詰めました。しかし、「どうせ死ぬのなら、」私はその場で殺されてやる気にはなりませんでした。「私は自分の死にざまは自分で決定したいと常々思っていたのですよ」私はキトさんから離れました。「どうか哀れだと思って見逃して下さい。どうせ長くはない命ですから……」命乞いの才能をここで開花させるとは私もなかなかやるのかもしれませんなどと考えましたが、キトさんにそもそも私を殺そうとする意図など最初からなかったのでしょう。

 私は夜の闇を再び駆けていました。街は静まり、月は朧さのない満月でした。ファイフラッセルちゃんのいる家に帰りましょう。セデゲムにもう一度くらい会えるでしょうか。私は今までの人生を振り返っていました。実は悪くなかったのかもしれませんでした。そう、生まれた頃には私にも赤い血が流れていました。「………あ?」――そう、赤い血は私にも流れているのでした。ならばそれを吸えばよいのでは? もしかしたら。私は震える爪を手首に突き立てました。そして――そこから溢れだした液体を見て、絶句しました。それには、色がなかったのです。「――何で」それは私にもあの蟹が感染している証拠でした。でも、その理由はひとつしかありえませんでした。つまり、あの少年の血を私が飲んだからです。

 私は自身の永遠が終わっていないことに気が付きました。というよりも、むしろ世界の全体が永遠を共有するようになりつつあるのだと気付きました。この時腔(じくう)臼街(きゅうかい)自体が、そもそも地球の終わりを半永久的に引き延ばしている場所なのです。そこに棲む生命が永久性を獲得していけないことがあるでしょうか。並列分散した永遠の終りが、それが夜の月光のもとで始まっていたとしても不思議ではないのでした。

 私は、このあいだキトさんから逃げて、夜にセデゲムと街を駆けながらした会話を思い出しました。それは蟹の見る夢についての話だったか、生命の確かさなどについてだったか。ともかくセデゲムがこんなことを言いました。「……これはお前に聞いたのではなかったと思うのだけど、確かノヴァーリスがこんなことを言っているぜ――」つんと黒猫らしくしなやかに走りながら彼女は言ったものでした。「《わたしたちの生命は夢ではない。しかしそれはやがて、いやおうもなく、夢とひとつになるだろう》」


 

 

 

 初出:『天然水』Vol.52(2014年10月発行)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ