6.不穏
そこに存在するのは一面の海と満天の空。
それだけしかそこにはなかった。
視界のどこをみても海だけで陸など全く見えない。
そこに二人の少年がいた。
一人はまだ成人して間もない少年。大海人である。
一人はいくつか年上の青年である。大海人をそのまま成長させた姿のように見える。
少年が不満そうに目の前の青年を睨んだ。青年は面倒くさげに何だと聞いた。
「なんでばらすかなぁ」
「ばらしておらぬ。あの采女が勝手に我の存在に気づいただけよ」
青年はしれっと言った。
「そりゃ、あんな別人な態度とれば誰だってそう思うだろうが!」
少年は悪気なさげに言う青年にびしっと指差して言った。
「ああ、あまり大声でわめくな。力を使い疲れているのだから」
「これからあの采女にどう説明すりゃいいんだよ」
少年ははぁとため息をついた。
「知らぬ。己で考えよ」
「元々、お前が私の体に勝手に棲み付いたのが原因なんだよ!」
「ほう、我を厄介者扱いか。いい度胸だ」
青年は手刀を形作り少年の首筋にあてる。
「その身、誰のおかげでこの年まで生きながらえられたのだ? 本来ならば主は五つになるかならない頃に殺されていたというのに」
「ああ、そうですね。感謝していますよ。でも、あなたがいたおかげで私は十四年間変人扱いなんですよ」
親に見限られなかったのが奇跡だと思った。父親は心配する反面不気味がりあまり近づこうとしなかったが。
「あなたのせいで子供のときに知らなくていいことまで知ってしまった」
華やかな宮が嘘つきだらけの世界だということに。
国の頂といわれる大王は体の良い器であったことに。
都合の悪い大王ならば廃され次に役立ちそうな器へ替えてしまう。そして今都合の良い器は少年の実母。
大王以外に邪魔になりそうな王族や豪族は消されていった。それが大王家の者であっても。
葛城王子大海人王子も例外ではなかった。
二人とも幼少時に何度か呪詛に遭っていた。表向きではただの病気ということになっているのだが。
その呪詛から護ってくれたのが大海人の体に寄生する青年であった。
「我に感謝することだな」
青年は鼻高々に言った。
「私からすればあなたも呪いのようなものです」
そう言われ大海人の首にあたっていた手刀は一旦離れた。そして勢いよく大海人の側頭部にあたった。
痛みに大海人は頭を抱えた。恨みがましく青年を睨んだ。
「覚えておけ。主は我に生かされている。故に主は我に従う義務がある」
「めちゃくちゃなこと言わないでくれる。まぁ、一応感謝はするから協力するけど」
「そう思うならとっとと参内に戻れ。こんなところで遊ぶな」
「あー。はいはい。あなたまで私にそう言うんだね。全くあなたのせいで私は呪詛とか憎悪の念とかに過敏で宮にあがるとすごい耳鳴りがしてしんどいんだよ」
この苦しみをわかってくれますか?
「軟弱な。葛城よりは術の才があるから色々教えてやったのにとんだ見込み違いだ」
「うん、じゃぁ兄上にとり憑き直せば? 私よりもよっぽど真面目で義務感が強い。大王家の為といえば率先しちゃうよ」
青年ははぁとため息をついた。そして大海人を冷ややかに見た。愚鈍なものと目で言っているのが嫌でもわかった。
「それができたらそうしているわ。だがあれには術の才は全くない。それに好きで主にとり憑いだ訳ではない」
「はいはい。そうですか」
大海人はぷいっとそっぽ向いた。
「そろそろ体力が戻った頃だから私は戻りますよ。次は倒れるところに気をつけてよね。全く帯人がいなかったら今頃私は馬から真っ逆さまでお陀仏でしたよ」
ぶつぶつ文句言いながら大海人はすっと海から消えた。青年はふんと鼻を鳴らし頭上の付を眺めた。とても大きな満天の月であった。それが美しく輝き青年のいる水面をきらきらと照らし続けた。
◇ ◇ ◇
葛城は宮の仕事部屋にて書類の整理をしていた。時折部下を呼んでは各部署へ届けさせるように指令を出す。
そんな葛城の後ろにこそこそと近づく影があった。
「だぁれだ?」
愛らしい少女の声とともに葛城の視界は真っ暗になった。
「何のようだ。間人」
葛城は表情を崩さず少女の両手を外した。
「お兄様、最近仕事ばかりでつまらないのですもの。この前だって一緒に参詣する約束をすっぽかすし」
間人王女はぶすりと美しい顔を膨らませる。
「仕方ないだろう。もう昔のように一緒に遊ぶ時間もない。早く部屋に戻れ。采女たちが心配しているだろう」
「あーあ。大海人がいれば大抵のことは聞いてくれるのに。あの子仕事は不真面目だけど外出の約束だけはすっぽかさなかったのよねぇ」
葛城はぴたりと筆をとめた。
確かに大海人王子は昔宮にいたとき間人王女とともに外出にでかけるのが多かった。むしろ宮の外を出るのを好んでいたようにみえた。
それが葛城にとって実に不愉快なことであった。五つや六つの童のときなら良いが成人して参内するようになったというのにそれで何とする。大王家の王子としての自覚が足りないとしかったことがある。その翌日に例のふざけた書置きを残し参内拒否してしまったのだが。
「ところでお兄様。例の采女はうまくやっているでしょうか?」
「さぁな。特に問題がないと思うぞ。何かあれば文を出すように命じてあるし」
「ねぇ、お兄様。ひょっとしてあの采女、お兄様の恋人だったりしない?」
「何を馬鹿なことを」
「だって、お兄様に粗相をしでかしたんでしょう。許されないわ。おまけにお母様がお優しいのを言いことに失敗ばかりやっていたそうだし」
間人は噂で聞く赫弥の話をひとつひとつあげていった。いくら今年はじめたとはいえ、慣れないとはいえありえない程の失敗の数々であった。どじっこという言葉で以ってしてもありえない。
「お兄様だったら即効くびにすると思っていましたのに、わざわざ大海人の元へ間者として送り込むとか」
「人聞きの悪いことを言うな。私は彼女の仕事に対する情熱に感銘を受けひょっとしたら大海人に良い影響を与えないかと思い送ったまでだ」
「それでももうちょっとましなのを送れば良いのに」
間人はぶぅぶぅ文句を言った。
「それにもし赫弥が大海人の恋人になったらどうするんですか?」
その思いもしない発想に葛城はああと頷いた。
「別に良いのではないか? 大海人ももう十四だし、妻を娶ってもいい時期。それに恋人ができれば少しはましになるかもしれない」
いつも館に引きこもっている大海人に恋人ができたと知れば大王も大喜びであろう。
むしろ賛成だといわんばかりの葛城に間人はむすっとした。
「まぁ、あの采女がお兄様の恋人じゃないとわかったのでよしとします」
「何だ、いきなり。私の恋人だったらどうだったというのだ」
「別に」
つんと拗ねた仕草を見せる間人に葛城はわけがわからないと頭を抱えた。
「用が済んだら帰ってくれ。まだ仕事が終わらないんだ」
「……お兄様、少し顔色が悪いのではなくて?」
間人は前に回りこんで葛城の顔を改めてみる。元々色白であったがどことなく元気がなさそうであった。
「やはり働きすぎなのよ。今日はもうお休みになった方が良いわ」
「そうか。では仕事を終わらせなければな。だから邪魔をしないでくれ」
「もう、心配しているのにっ!」
知らないと間人は拗ねて部屋を出ようとした。
「間人、心配してくれてありがとう」
葛城は書類から目を離さないがとても優しい声で言った。
この声は他の誰にも聞いたことのない声であった。弟の大海人ですら知らない間人に対してだけの優しい声である。
それに間人は気をよくして振り返った。
「早く休まないとお母様に言いつけますからね」
にこりと笑って間人は部屋を飛び出した。
「やれやれ」
葛城は苦笑いした。
あれでもう立派な適齢期だというのに未だに子供っぽさが抜け切れていない。
兄として心配になるが、同時に安心もしていた。
全く変わらない美しい妹。幼い頃から宮で過ごしてもその美しさと純粋さは損なわれることがない。
できることならずっとあのままでいて欲しいと思うのは兄馬鹿というものだろうか。
そうついつい自分の愚かな考えに笑いがこみあげてきた。
棚にある書をとるために立ち上がろうとした瞬間、葛城は急いで机に手をかけ自身を支えた。
「っ………」
突然耳鳴りがして葛城は思わず耳を塞いだ。一瞬だけだがめまいもした。
どうやら間人の言うとおり本当に疲れているようだ。
早く仕事をあがらせて帰ろう。