5.もう一人
そして村を出た。村を出てもとの山を越えて行った。途中に赫弥は帯人に尋ねた。
「大海人様はあの村で何を?」
「見てわかりませんでしたか?」
帯人は意地悪げにいう。赫弥はこくりと頷いた。
「村の病人の治療をしているようでしたが」
「ええ。その通りです」
「何故王子が……」
「あの方は幼い頃より医学をかじっておいででした。といっても元々興味のあったものの延長線で勉強した程度ですが、あの村からしてはそれでもありがたいもののようです」
確か村の女性が医者が来ない村と言っていた。山を越えるという手間があるとはいえ、都から馬で一日あれば行ける場所だというのに。
「ああいった村は珍しくありません。都の外れを少し抜ければ難病故に忌避される者たちが大勢います。王族・豪族ならば手厚い看護を受けられたでしょうが彼らはそれではなく受けれない」
「大海人様はそういった者を診て上げているのね」
帯人は頷いた。
「はじめは遠出をしてたまたまあの村に寄っただけでした。その頃丁度村に病人がいましてほとんどの村人が治らないものと諦め放置されていたんです。それを大海人様が診てさしあげてその者は」
「助かったのね」
赫弥の言葉に帯人は複雑な表情を浮かべ笑った。
「いいえ、看護も空しく亡くなりました。大海人様に看取られる形で、それでもその者と妻は大海人様に感謝していましたよ。同胞ですら見捨てられた身で王子が見取ってくれることを」
それから大海人は時折村へやってきては病人を診るようになった。書物で学んだ程度の知識であったがそれでも村人は大海人に感謝し、何かあると頼るようになった。
大海人はといえば決して誰にも話さないことを条件にしているらしい。
「どうして?」
帯人は苦笑いして答えた。葛城王子は薬師というものは比較的地位の低いものがするものだと考えている。大王家の者がその真似事をするのをよしとしていない。
大海人が幼い頃医学の書に興味を示した時難色を示していた。そんなものよりも政や法の書を読めと怒鳴ったこともあるらしい。
もし大海人があの貧しい村で薬師の役をやっていると葛城王子が知れば怒るだろう。優しい大王でも口にしなくても快しと思わないだろう。
大王家の者が軽々しく医者の真似事をするな、と。そんなことは薬師や坊主に任せればいい。
彼らはそう言うだろう。それが適わないから大海人が頼られているというのに。
「いろいろ面倒ですしね。ですから赫弥殿、今日見たことは宮では決して話してはなりませんよ」
「ですが、大海人様がああして外をお出になられていると知れば大王はきっと喜ばれます」
「同時に心配もするでしょうね」
確かにその通りだろう。逆に病に罹ったらどうするんだとお叱りを受けるのは目に見えている。
「でも帯人様はどうして私をあの場所へ連れて行ったのですか?」
「興味がありました」
帯人はにこりと笑う。
「大海人様は宮では変人と噂されているでしょう。どうでしたか? 赫弥殿の目から見て大海人様は変人でしたか?」
帯人は赫弥が大海人を見てどう思ったかに興味があったようである。
赫弥はその返答に困った。
館に来た当初は大海人は病を騙り会うのを拒み、赫弥を物忌みへ放り込んだ。そして今日はじめてみた彼は赫弥に対して突き出すような態度であった。
だが村の者たちに変に威張ったところがなくむしろ優しかった。
「わかりません。私には関わりたくないというくらいしかわかりません」
それを聞き帯人はははと笑った。
「そうですね。赫弥殿は大海人様にとって出会いたくな女性でしょう。葛城様からの間者のような者ですし」
「か、間者?」
「おや、定期的に大海人様の様子を葛城様にお知らせするように言われているのでしょう」
その言い方からすれば帯人は赫弥がどういう経緯で大海人の館に来たか知っているようだ。
「ですが、………大海人様に参内してもらいたいというのは大王の願いでもあります。あなただって大海人様に参内してもらいたいと思うでしょう」
舎人としては主人が政界で地位を固めてもらいたいと思うものだ。
「そうですね。どちらかと言えば私は大海人様に宮で仕事をしていただきたいと願っています」
「なら私に協力して頂けますか?」
赫弥の要請に帯人はただ笑った。
「ですが、本人にそのつもりがないなら意味のないこと。政界に戻っても政に意欲を示さず影のような存在をよしとするなら今と変わりません」
確かにその通りである。だが、参内するのとしないのでは雲泥の差である。少なくとも赫弥と大王にとっては。
「大王にとって大海人様は息子、あなたにとっては宮に復帰するための手段ですからね」
前者はともかく後者の言い方が何ともいえない。
それではまるで赫弥は大海人を利用しているような言い方である。
赫弥は言い返そうと思ったが、全くその通りなのだと気づき口を噤んだ。
「あなたは正直者ですね」
帯人はくすくすと笑った。
「宮の采女として生きるには多少の嘘には慣れておくものですよ」
「まるで采女は嘘つきみたいな言い方ですね」
「ああ、失礼。ですが、宮は政の中枢。表では華やかに飾られていますが、そこではありとあらゆる嘘が交わされています。何が嘘か何が本当か時にわからなくなってしまうこともあります。自分を失い宮から姿を消すものも珍しくない」
その言葉に赫弥はごくりとした。
ふと思い出すのは先日大王に謁見した者の話であった。
一見大王と彼はとても和やかな会話であった。しかし、彼が去ったら大王は持っていた扇を床に叩き付けたのである。普段穏やかな大王であるからその仕草に赫弥は驚いた。傍にいた年嵩の采女は何事もないように扇を広い大王に差し出した。そのときに大王はまだ落ち着いた様子ではなく少し休むと言い采女とともに下がられた。
何が起こったか理解できなかった赫弥は後で香笹に教えられた。
実際良好な関係に見えるものでもその会話の裏では棘と毒が含まれているものなのだ。時にそれが大王の気分を害することは多い。それから守るのも采女の仕事なのだと。
帯人はおそらくそのことを言っているのだろうか。
「大海人様は嘘がお嫌いなのかしら?」
その言葉に帯人は少し意外そうに驚いた表情をした。
「どうしてそう仰られるのですか?」
「宮ではありとあらゆる嘘が交わされていると言いましたよね。それが大海人の参内しない理由なのかしらと……。あ、ひょっとして私が宮の采女だから避けているとか?」
「さぁ、どうでしょう。ですがあなたは嘘はお嫌いでしょう」
「そうね。私は嘘は嫌い」
「でも宮に戻りたい。そこが嘘だらけの世界だったとしても」
「そうよ。宮は女にとって憧れの職場なのよ。それに大王の傍にお仕えするという名誉もある」
宮が嘘だらけの場所というならば采女は大王を嘘から守らなければならない。そして崩れないように支えるのだ。
「素晴らしいお考えです。いつか宮に戻れると良いですね」
その言い方だと三ヶ月以内に大海人を参内させなければずっと大海人の館で務めることも知っているということか。
「そう思うなら私の協力をしてちょうだい」
「そうですねぇ。私は今の王子も気に入っていますし……」
やんわりと断られているなと赫弥は思った。そして頬を膨らませた。
ふと帯人は手綱を握り馬を止めた。
「あ」
赫弥は目の前を見て驚いた。山道の真ん中に少女が立っていた。
大海人の館に行く途中に出会った例の物の怪の少女であった。
「あなた!」
「河内に帰れ」
少女は赫弥に向かって言った。有無を言わせない酷く冷たい言い方であった。
「さもなければお前は後悔するぞ」
「何でしょう。可愛らしい巫女ですね」
帯人は少女に微笑んだ。端正な顔立ちの青年に微笑まれたというのに少女は微塵も動揺しない。宮の采女や女童であれば黄色い声をあげて喜ぶであろうに。
「こんなところにいては危ないですよ。お家はどこですか?」
帯人はニコニコ笑いながら少女に優しく囁いた。
「帯人様、あの子よ。私が館に来る途中に出会った物の怪は」
「おや、そうですか。兵士から聞いた話では黒い犬のような姿をしていると聞きましたが」
その言葉を聞き赫弥は驚いた。あの時兵士と自分が見ていたものは別のものだとはじめて知ったのだ。
「河内に帰れ」
「い、いやよ! 私は宮に必ず戻るわ」
「せめての情けで言ってやっておるのに気づかぬとは愚かな」
少女はぶつぶつと呟いた。赫弥は意味がわからないと眉を顰めた。同胞とは何のことだろう。
「も、物の怪と同胞だったなんて冗談でしょう」
つい口にこぼすと少女は目を見開き怒りの表情を示した。赤土を顔に施した顔はとても薄気味悪くて恐ろしい。少女に厳しく睨まれ今にも呪い殺されるのではと赫弥は恐れた。
「赫弥殿、あれが仕掛ける前に逃げますので振り落とされないようにしっかり捕まってくださいね」
帯人が後ろから囁いた。それにはっとして赫弥はこくりと頷いた。
「無駄だ」
少女はそう呟き、袖を翻した。すると袖から黒い獣が現れた。三匹も。
形となり獣の声をあげる間もなく帯人は馬を駆けさせた。道を外れ林の中へと。
遅れた獣たちは少女に叱咤され馬を追った。
「振り落とされずしっかり手綱を握ってください」
「え?」
突然手綱を握らされ赫弥は困惑した。
「む、無理です」
そう言おうとするが帯人は大丈夫と励ました。
「この子はとても賢い。手綱さえ握ればあなたを無事館まで届けてくれますよ。私はあれを追い払いますので」
そう言い彼は馬から下りた。駆ける馬から飛び降りる形で。
突然いなくなった帯人に赫弥は慌てて振り返った。
「前を見て! 手綱はしっかり」
帯人はそう言い傍の木の上に飛び乗った。
何という身軽さだ。まるで猿のようである。
帯人は剣を抜いた。そしてそれで黒い犬たちに立ち向かった。
それを眺めていた少女はくすくす笑った。
「無駄だ。その子らは人の剣では切れない」
少女は犬の鋭い牙が帯人の喉笛を食らうのを想像し笑った。だがその想像に反し一匹の犬は帯人の剣によって切り倒された。
「な、に………っつ!!」
少女は驚愕した。驚きとともに手から痛みが走った。少女の手を見れば指先が刃物で切られたような切り傷が生じていた。
それと同時に一匹の黒い犬は影となり消え去る。
どうして剣で切れないはずのものが切れたのだと少女は帯人の剣を見た。剣は何の変哲もない人の作り物であった。だが帯人が手首につけているものを見て納得の表情を示した。
帯人の手首には緑色の勾玉の飾りがまきついていた。
「孔雀石………人の癖に玉の力を使うなんて忌々しい」
「小細工を使う主も十分忌々しい」
後ろから男の声がして少女ははっと後ずさった。
「主は」
「久しいな。佐久姫。会いたかったぞ」
大海人はにやりと笑った。その表情はひどく冷たいものであった。
佐久姫と呼ばれた少女は酷く怯えた。
「十四年前の借りを返させてもらおうか」
「ふふ、ありがたい。だが良いのか? 私にかまけて」
ちらりと佐久姫は林の向こうを見やった。
赫弥の乗る馬に黒い犬が追いかけてきたのだ。どうやら帯人は一匹取り逃がしてしまったらしい。彼は慌てて赫弥の方へ走るが間に合うはずがない。
大海人はっちと舌打ちをして、傍らの馬に乗せていた弓具を取り出した。矢を一本とりだしそれを構えた。静かに息をとめ、狙いを定めた。
彼が息を止めた瞬間周囲からすべての音が消えた。正確には彼の聴覚が集中のためにいらないと判断した情報を全て遮断したのだ。それにより感覚は研ぎ澄まされ狙いに集中しやすかった。
矢筈を放す瞬間ようやく無音が終わった。その矢は狙いが定まり見事黒い犬に命中した。その瞬間犬が嘶き黒いものを一斉に飛び散らした。
うぎゃぁ!
少女の苦しみの声がするが大海人が振り返ったときには既に佐久姫の姿はなかった。半身たる犬を射抜かれ今は死ぬ程の苦痛を味わっているだろう。
だがまだ死んでいない。犬を時間稼ぎにして逃げたのだ。
大海人はちっ、ともう一度舌打ちした。
馬に跨り、赫弥たちの方へ向かった。
◇ ◇ ◇
ど、どうしよう。
赫弥はまだ駆ける馬の手綱をしっかり掴んだ。犬が襲い掛かったのが見えつい瞳を閉じたが痛みがない。逆に犬の苦しむ声がした。
目を開けようと思っても怖くてできない。
風が切る音を聞きながらじっと固まっていた。
「馬に乗っている間に目を閉じるな。振り落とされるぞ」
横から声がするが赫弥はふるふると首を横に振った。それにやれやれと呆れた声と供に後ろに誰かが飛び乗ってくるのを感じた。赫弥の握る手綱を奪うように握り、馬を止めた。
「た、助かったのね」
赫弥はようやく馬が止まってくれたのを感じおそるおそる目を開けた。
体がぐらぐらする。ぼすんと後ろに乗っている男の胸に後頭部を預けた。まだ若い成長途中の少年のものだ。帯人ではないと気づいた。
(誰?)
赫弥は後ろを見るとそこにいたのは冷たい視線を送る大海人であった。
「え、お、大海人様ぁ?」
赫弥は慌てて頭をあげあわわと恐れおののいた。
「大丈夫ですか? 赫弥殿」
ようやく追いついた帯人に赫弥は涙目で訴える。
「大丈夫なわけないじゃない。すごい怖い目に遭ったのよ!」
「いや、すみません。一匹取り残してしまって、決してわざとじゃないんですよ」
そして赫弥の後ろにいる少年に帯人は拝礼した。
「おや、久しい。あなたがお出でになるとは」
「ああ、ずっと狙っていた獲物が現れたからつい興奮して」
「? 獲物? 大海人様の?」
赫弥は首を傾げた。理解が追いつかない。
大海人と呼ばれた少年は不機嫌に眉を顰めた。とても冷たい表情である。そしてその瞳を見て赫弥ははっとした。
大海人の瞳が青かったのだ。先ほどであった時は確かに黒かったのに。
深い青色、瑠璃の瞳であった。
「その瞳の色………」
そして勾玉をみた。少年の瞳に呼応するように青々と輝いていた。
「勾玉も赤かったのに、青? え?」
赫弥は首を傾げ帯人を見た。帯人は苦笑いした。どういうことだと説明を求めても困って応えてくれない。
再び大海人の顔を見た。相変わらず冷ややかな眼差しであった。
こうしてみると葛城王子に似ていると思う。だが、葛城王子の目は厳しさを湛える目である。目の前の少年の目はただただ冷たさしか感じないものだった。
「あなたは誰?」
思わず尋ねた。
目の前の大海人は大海人ではないと思った。
先ほど少し言葉を交わしただけであるが目の前の少年は彼ではないと感じた。
それを聞き大海人と似た少年はおかしげに笑った。ひどく皮肉げに。
「馬鹿だが、勘はいいようだ」
「な、馬鹿?」
「なに褒めているのだ。ひと目で我とあの愚鈍なものを違うと見抜いたのだからな」
愚鈍なものとは大海人のことであろうか。
大王家の第二王子を愚鈍とは失礼なことを言う。確かに変人と噂されているが。
ふと赫弥は宮で聞いた噂を思い出す。
――ぶつぶつと誰もいない方へ語りかけたり、誰もいない部屋で一人声を荒げたりすることがあった。時にはひどく大人びた年不相応の口調と仕草を振舞うことも。
(それってまるで大海人様の中に別人がいるようだってこと?)
そしてその別の何かが目の前にいる男なのではないか。
「ふん、我を見抜いた褒美だ。特別にくれてやろう」
そう言い大海人とは別の何かが赫弥の頭をがしっと掴んだ。
「ちょ、い、痛いっ!」
突然しっかり頭を強くつかまれ赫弥はその手を離してもらおうとした。しかし、力は思った以上に強く離れてくれない。
(何が褒美よ。痛いだけじゃない!)
そう叫ぼうとすると少年は赫弥の頭を離す。すると今までにない程の身の軽さを感じた。
一体何があったのだと少年を見ると少年の手には黒い生き物が呻き声をあげていた。
「きゃああああっ!」
その影には口が三つつきあちこちに目がつきそれでぎょろぎょろしている。
何なのだ、この得体知れない不気味なものは。
「騒ぐな。これは呪いを象ったものだ」
「の、呪い」
「先ほどの姫が主に呪いをかけていたのだ。それで今まで注意散漫で失敗を繰り返してきた。集中しても足元を引っ掛けて転ばせたり、………ま、やることは悪戯程度のもので大したものではない。物忌みをして身を清めれば勝手に出て行く」
少年はその呪いをぐしゃりと握りつぶす。それにより形を崩し砂のようにぱらぱらと落ちていった。
まさか宮で働き始めてからの失敗はこの呪いのせいだというのか。
「それで、私に物忌みを命じたのは本当に……」
「何だ、信じていなかったのだな」
「信じていたら今ここにいません」
赫弥はぶすりと呟く。
「まぁ安心せよ。我が特別に祓ってやった故もう安心だ。物忌みの必要はなくなった」
「ええ……、ありがとうございます。あの、あなたは一体」
「……眠い」
「は?」
少年の突然の呟きに赫弥は首をかしげた。少年はふらりふらりと体を揺らし馬からずり落ちた。
「ちょ」
馬からまっさかさまになるところを帯人が支える。
「いやはや、驚きました。あの気難しい漢様がここまでするとは………余程あなたのことを気に入ったのでしょうか」
帯人は苦笑いして少年の体を抱えた。