1.赫弥
健やかな朝。鳥が美しい声を奏でながら人々に挨拶をする。
その中大王のおわす板蓋宮では朝の支度で采女たちはあちこちを動いて回っていた。
「赫弥、それは私がやっておくから」
赫弥と呼ばれる少女はそれに耳を貸さずによいしょと盥を持つ。中には水がたっぷりと張られとても思い。
「大丈夫よ。私でも持てるわ」
「とか言ってあなたいつもへまばかりしているじゃない」
この前だってうっかり廊で盥をひっくり返して水浸しにして叱られたばかりでしょう。
それに赫弥はうぅと呻きながらもすぐに立ち直る。
「大丈夫よ。このために今鍛えているのよ。腕の筋肉を」
おかげさまでこの通り水いっぱいの盥も持ちあげられる程に成長した。
「もう、気をつけてゆっくり運ぶのよ」
采女はしょうがないと盥を運ぶのは赫弥に任せることにした。
「んしょんしょ」
赫弥は廊を歩きながら、だんだん腕にかかってくる重みに少し慌てた。
(はじめは何とか持てたけど、段々きつくなってきたわ)
だが、やると言った手前必ずやこの盥を大王の元へ運ばなければならない。
このペースではだんだん重みが辛く感じて来てしまう。現に赫弥の腕は運びはじめよりも垂れ下っている。
意識を盥に集中させ、赫弥は懸命に大王の部屋までを目指す。そのせいか、段々周りに注意がいかなくなる。
だから気付かなかった。
角を曲がるところに、物が落ちていることに。それは毬状のもので、すぐ転がってしまう。
運悪く赫弥は思いきってその毬を踏みつけてしまった。
「うわぁっ」
なんでこんな廊に鞠が?
そう思いながらバランスを崩す。何とか踏みとどまろうとするが無理であった。
どさりと勢いよく赫弥は床に転がる。
「あたた」
ごろりと盥が音を立て落ちた。そこには水がない。
先ほどびしゃりと勢いよく水のはじける音がした。
(ああ、またやっちゃった)
また廊の床掃除をしなければならない。自分のせいなのだから仕方ない。
赫弥はむくりと起きあがって前を見た。そして、硬直する。
向こうで同様に硬直している同僚の采女の香笹がいた。かなり青ざめている。
赫弥は自分と彼女の間にいる者を見つめた。
背の高い男がびしょ濡れで立っていたのだ。
(やばい)
さすがにこれはまずい。衣を見ればたいそう地位のある男だとわかる。
赫弥はおそるおそる男の顔を伺う為に面をあげた。
そしてさらに硬直することになる。
「また、お前か」
また、という部分を強調させた男の冷やかな声である。
葛城王子。
現大王の第一王子。先大王の第二王子。とにかく采女の赫弥よりもずっとずっと偉い方である。
水でびっしょり濡れた髪は垂れて、その隙に見える切れ長の目はとても麗しい。水も滴るいい男という言葉がよく合うなとつい思ってしまう。
そう思っていると、葛城王子の瞳はぎらりと赫弥を見つめる。それに赫弥はびくりと肩を震わす。
「も、申し訳ありません。すぐに衣を用意致します」
赫弥は慌てて膝をつき礼をする。
「いい。赫弥、お前はここを掃除するように。手水は新しいのを別の采女に運ばせろ」
そう言い彼はすたすたと赫弥の横を通り過ぎる。そしてそのまま去ろうとしたがぴたりと思いだしたように足を止めた。
「ああ、そうだ。話があるから掃除が終わったら私の部屋に来るように」
つまりそれは処罰を決めると言うこと。赫弥はふるふると震えた。
(ど、どうしよう。采女くび?)
折角田舎からやってきたというのに。
采女になったことを故郷の父母はどんなに喜んだことだろうか。
それなのにこんな粗相でくびになり故郷へ追われることとなるなんて。
その時の父母の落胆の表情を思い浮かべるとどうしよう。
「か、赫弥。しっかりして」
そういう同僚の采女は赫弥を立ち上がらせようとする。
「ほら、ここを掃除しないと他の方が困るわ。お手水は私が新しいのを持って行くから。ね?」
赫弥はこくりとそれに頷いた。頭の中ではこれからの自分の身の振り方について頭いっぱいである。
(と、とにかくここをなんとかしなければ)
赫弥はようやくそう考え重い足取りで掃除道具をとってくる。
床掃除をやっていると通る者がくすくすと笑っている。
采女が床掃除をしているのがよほどおかしいのか。
赫弥はむすりとしながら床を拭く。水拭きしたところが滑りやすいために次に乾いた布で乾拭きをした。
「もういいわよ。ご苦労さま」
香笹にそういわれ赫弥はふぅと息を吐き掃除をやめた。
「次からはできないことは他の人に任せなさい」
「はい」
「今回はさすがの私も庇いきれなかったわ。よりによって葛城王子に水をぶっかけるなんて」
(途中まではきちんと運べたのよ。でも、なんか変なものを踏んじゃってそれで………)
そう負け惜しみを内心呟きながら赫弥はあたりを見渡す。
(そういえば私、鞠を踏んだんだったわ)
だがあたりを見ると何もなかった。
確かに一瞬だけだったが鞠が見えたのに。
きょろきょろさせている赫弥に香笹は首を傾げた。
「どうしたの」
「うぅん、なんでもない」
赫弥は立ち上がり掃除道具を持ち上げた。これを今から片付けて、葛城王子の部屋へと行くのだ。
「はぁ、気が重たい」
今回で自分は采女をやめさせられるかもしれない。
あんなに憧れていた采女。
親類のつてで采女になれたときどんなに喜んだかしれない。
それをこんな形でやめる羽目になるとは。
「あまり気を沈めちゃだめよ」
香笹はそう励まして送ってやった。
赫弥は大きくため息をつきながらとぼとぼと歩く。