15
一直線に草原の下を這うように逃げて数分。
二体の巨大な魔物の争う音は未だ聞こえてくるものの、もうずっと遠い。
あの二体の出現によって周囲一帯の魔法生物らしき気配も全て彼方、或いは胃袋へ消え去っている為、暫くは安全だろう。
三人は草むらの中に余裕無く腰を降ろし、精神的に疲労困憊といった様子で項垂れた。
「やだもう怖い……何ここ……」
ぼそりと呟かれた言葉。
発言の主はアーサーである。
だがピエールもリッチーも、アーサーの乙女のような声での弱音を意外そうな顔をすることもなく平然と受け止めている。
「ギズモとかあのくらいなら対応出来るけど、いきなりあんな大物のお出迎えが来るとは思わなかったね……」
「あの青い蛇みたいな鳥、いかずちのつばさ、って言うの? あたし初めて見たんだけどピエールちゃんたち知ってるんだ」
「うん。結構前に戦ったことあってね。二人だけじゃとても相手出来ないよ」
「へー……。じゃああの黒いもやもやは? 橙色の爪が伸びてたけど、あれも鳥なのかしら。それともギズモとかあっち系?」
「あれは私も知らないなあ……アーサーは何か知らない?」
ピエールが話を振ると、アーサーは膝を曲げて身体を丸めたまま
「知らない……」
とだけ答えた。
めそめそ泣く小娘そのもののような体勢だ。
とはいえ実際に泣いている訳ではなく、二、三十秒ほどそうやって身体を丸め縮こまってから、アーサーは気持ちを切り替え顔を上げた。
「大丈夫?」
と、アーサーが立ち直るまでそっと見守っていたピエールが尋ねる。
「……大丈夫です。今のうちに進めるだけ進みましょう」
少し鼻声だが、やはり辛うじて泣いてはいないようだ。
休む時間も惜しいとばかりに、三人は再び草むらの中を這い進む。
: :
「ひょおーっ」
「姉さん、見ていて怖いからそんな際に立たないでください」
直角近い切り立った崖の際から、下界を見下ろすピエール。
後ろから、アーサーが不安げな表情で姉の服の裾を掴んでいた。
リッチーは何の興味もない顔で、二人のやりとりをぼけっと見ている。
視界は絶景だ。
遙か高みの崖の上からは、シーレペテレンペティカッソンの北部全域が一望出来るほど。
紫溶岩の大地。
生い茂る森林。
広大な平原。
エルフの涙筋。
更に、姉妹が通って来た中央大陸へと繋がる細い道、その周囲の海までも。
崖の直下は霧が立ちこめていて見ることは出来ないが、島北部の景色が全てここから見る視界内に収まっている。
殆どが雄大な自然だ。それに比べると、あまりにも小さな人の営みの痕跡。町も田園地帯も、見える景色の中にはぽつりぽつりとごく少量。猫の額程度しかない。
「いいなあこの景色……私に絵心と絵の道具があったらなあ。この風景を絵の中に閉じこめるのに。題名はそうだなあ、うーん、"宝石島の一枚"かな! 直球だけど、逆にそれがいい」
「ロマンティックなこと言っちゃってまあ」
うっとりした顔で両手を大きく広げてから、島の景色ごとかき抱くように自分の胸を抱くピエール。
を、つまらなそうな顔で冷やかすリッチー。
「姉さん、早く戻って」
「えーいいじゃん、もうちょっと見せてよ。この宝石島の宝石のような景色をさあ」
「まーた言い始めた。ただの景色を宝とか宝石とか、そういう尊いもので例えるの止めてよね。あたしそれ嫌いって言ったでしょ」
アーサーとリッチーのどちらからも好意的な反応が得られず、ピエールは若干唇を尖らせながらも崖から下がってリッチーの隣で腰を降ろした。
アーサーもリッチーの隣に陣取り、三人横並びで地面に座る。
「……しかし、よくもまあこんなところまで来たって感じだね」
「そうですね。町を出てたった三日で、こんな物騒な所まで来るとは」
「たった三日だけど色々あったわね。オパール、トカゲの鱗、アメシスト、ガーネット、トルマリン、ラピスラズリ、ダイヤ、這い宝石……ティティちゃん……美しい皆と出会い、そして別れ……」
「まだ言ってる」
「まだ言うわよ、いつまでも言うわよ。今まで拾ったもの全部あそこで落とされたのよ。ティティちゃん以上のものを見られるまでずっと言うんだから」
「はいはい、じゃああの這い宝石以上の物を探しに行きましょうね」
「まだ途中なのに、今なんで冒険の総まとめみたいな雰囲気だったんだろうね」
ははは、ふふ、くひひ、と三人は各々の調子で、軽い空笑いをこぼしてから。
崖を離れ、すぐ横に流れている巨大な涙筋を川沿いに登り始めた。
三人の冒険も、そろそろ目的地へ辿り着くこととなるだろう。
: :
――標となる川から見下ろした雄大なる滝と、島の下層はいくらか心を打つものがあった。しかし私の目的は君と、君の為の輝きである。
私は輝きを求め、川を再び遡る――
: :
三人が通った滝の裏の洞窟は、それなりの長さがあった。
うねるように登っていく道とはいえ、時間にすれば一時間強の道のりである。
にも関わらず。
洞窟から出て草むらを進み始めてから、二十分もしない内に三人は再び涙筋の流れと再会を果たしていた。
実際には縦移動が殆どで、横にはあまり動いていなかったのだろう。
三人の目の前を流れる上層の涙筋は下層のものと変わりなく、深く広く早い。
うら寂しき凍原を流れる透き通った急流の流れる音を背景に、三人は川を遡上し始める。
「んー……」
姿勢を低くして草むらの中に隠れ進む三人。
既に一時間近く遡上しているが、視界はやはり草一色のまま変化がない。
その中で、間に挟まれるリッチーが頭を伸ばし、草むらから頭を出して涙筋の流れをじっと見つめた。
何やら釈然としない様子のうなり声。
「リッチー、不用意に頭を出さないで。いつまた魔物が来るかも分からないんですから」
「ごめんごめん」
アーサーに諭され、再び頭を引っ込めるリッチー。
「どしたの? さっきの変な声」
「……もう涙筋も大分上流じゃない? だから下流よりもっといっぱい綺麗な石が見られるかなあと思ったのよ。でもさっぱりさっぱりで」
「これだけ流れが大きいのだから、肉眼での発見なんて難しいに決まってるじゃないですか」
「それはそうなんだけど、でももうちょっと何て言うか」
「止まって」
二人の会話を唐突にピエールが遮った。
その声音が尋常ではないことに二人もすぐに気づき、息を潜めて三人縮こまる。
「……え、また?」
草のざわめきに消されるほどの小さな声で言うリッチー。
ピエールは無言のまま二人を先導して、川際まで移動した。
草の横側からちょっぴりだけ頭を出して、空や上流の様子を窺う。
すると。
よく晴れた空の彼方に、無数の黒点が現れていた。
: :
「ひょええ……」
リッチーが発した衣擦れより小さな呟きすら、アーサーが過敏に反応して口を押さえた。
無数の黒点はあっという間に凍原へと姿を現し、その巨体を川縁や川の中に着地させる。
雷の翼。
黒い霧の主。
地獄の禿鷲。
真蒼の巨大鶏。
どれもこれも体長十メートルを越える、見上げるばかりの化け物ばかりだ。人里に現れれば一匹で町が壊滅するだけの被害が及び、十数名の腕利きで討伐隊を組んでようやく討ち取れるか、というほど。
それだけの怪物が数十匹。
アーサーは今にも倒れそうなほど顔を青ざめさせ、ピエールも冷や汗のかき過ぎで上層の寒さなどすっかり分からなくなってしまっている。
その様、巨象の大行進のど真ん中に取り残された子猫の如し。
しかしどうしたことか。
一斉に現れた魔物たちは、何故だか動こうとしない。
姉妹に意識を向けるでもなければ、水を飲む訳でもない。
巨大な魔物同士敵意と緊張感をちりちりと迸らせながら、涙筋の上流へ視線を向けている。
まるで、何かを待つように。
それに倣って、三人も上流へ目を向けたところ。
突然草が爆ぜた。
三人のずっと先、川縁に生えていた草が突然竜巻でも通ったかのように、根元から吹き飛び宙を舞う。
一帯吹き飛び視界が通った草むら。
その奥には。
一人の若い女が、巨大な魔物たちの注目を一身に浴びながら堂々と歩いてきていた。
その姿を目にした瞬間、何よりも早くそれを察したアーサーが咄嗟に口を塞ぎにかかる。
しかし一瞬遅く、眼前の光景を目にしたリッチーが大きな声で叫んでしまった。
「あああーっ!」
上流から歩いてきている女。
彼女の目の前には大きな台車があり。
その台車の上には、まばゆく輝く涙石がまるで畑から掘り出した芋か何かのようにうず高く積み上げられていた。
: :
「ん?」
台車を押す女が、三人に気づいて声を上げた。
同時に周囲にいた巨大な魔物たちも三人に気づき、人の頭より大きな目玉をぎょろりと、敵意剥き出しにして三人へと向ける。
今にも三人を握り潰すかと言わんばかりの魔物たち。
その様にリッチーは竦み上がり、アーサーは腰砕けになってその場にへたり込み、ピエールが全くの無意味だが二人を庇うように前に出る。
さあ、一番近くにいた地獄の禿鷲が三人の命を鷲掴みにするか、という瞬間。
「……これは珍しい、下層人とは。少し待て、話はこれを捨ててからにしよう」
女が台車に積まれていた大量の涙石を無造作に捨て始めたことで、地獄の禿鷲のみならず全ての魔物たちが
三人から意識を外し、涙石に全神経を注目させ始めた。
どぼどぼどぼっ。
赤、青、黄色、無色、漆黒、斑。
色とりどりの涙石の結晶が台車から捨てられ、水に浮き川を流れてゆく。
そのおよそほぼ全てが濃密な魔力を有し、まばゆい魔力の光を放っている。
光を放つ涙石はどれを取っても一万ゴールド超の最高級の魔法石ばかりだ。全て拾って帰れば一攫千金間違いない。
しかし、どうやらこの涙石こそが魔物たちがここへ集結した理由らしい。
川を流れる魔法石たちが女の周囲から離れた瞬間、魔物たちがその巨体を羽ばたかせ石めがけて殺到していく。
そのような状況で、涙石を横取りしようなどという気は姉妹には毛頭ない。
死を賭してでも拾ってやるという気概のリッチーと腰砕けなままのアーサーを引きずり、三人のことなど何一つ構わず石へ殺到する魔物たちに潰されぬよう辛うじて間をすり抜けるピエール。
魔物たちをやり過ごし、何とか無事に女の近くまで移動した。
近くで見ると、彼女が普通の人間ではないことは一目瞭然であった。
まず、髪と肌の色が灰色である。髪はまだしも肌などは、血色などというものが何一つ存在しない、石か陶器のような硬さのある灰色をしている。
更にその肌、一部が透過していた。
指先、頬、鎖骨付近など。
露出している肌の所々がまるで無色の硝子か水晶かのように透き通っており、体内で青白い光が透けて見えていた。
よく見れば、透過していなくとも肌が薄いと思われる箇所はぼんやりと青白い光を放っている。
青白い人型の光の塊に、人を模した灰色の皮を被せたような。
皮膚を剥がしても何一つ痛痒を覚えず、中の発光体が生物として振る舞いそうな。
そんな印象すら覚える、不可思議不気味な灰色の女であった。
ただ一つ、背丈はアーサーよりも低く少女らしい身長や顔つきをしている所だけは、幼い身体と大人びた立ち振る舞いとの差異による可愛らしさを醸し出している。
「一応尋ねるが、私の言葉は通じているか? 君らが主に使うのは第三類共通言語で合っているな?」
第三類共通言語、というものには聞き覚えが無いものの言葉が通じていることをピエールが控えめに頷いて肯定すると、目の前の発光する女も頷き返し話を続ける。
「うむ。……それで、君らは一体どうしてここまで来たのだ? 下層人に会うのは実に久しい」
三人のことを"下層人"と呼ぶ女。言葉の響きとは裏腹に、差別的な意図は窺えない。どうやらただ"下の地域に住んでいる人々"というだけの呼び方らしい。
ピエールが何か答えようとしたが、それをアーサーが制した。
彼女は巨大な魔物たちが石の流れと共に下方へと過ぎ去ったことで、いくらか調子を取り戻している。
背嚢を降ろし、中から一冊の冊子を取り出して見せた。
「……もしやあなたは、これを書いた本人ではありませんか?」
女の表情が変わった。
: :
「それをどこで見つけた?」
と問う女に入手先からここまでの経過を一通り説明するアーサー。
説明を終えると、女の顔にわずかに浮かんでいた警戒が薄れた。
「……そうか、まさか下層に……しかも宝の地図とは……」
代わりに、コップ一杯分の無表情に一滴だけ混じる自嘲の感情。
ほぼ無表情同然のまま、女は涙筋の流れへ視線をやった。
「ね、ねえ、それよりさっきの、さっきの沢山の涙石は一体どうしたの? どうしてあんなに綺麗なのを全部捨てちゃったの? あなたはここに住んでるの?」
矢継ぎ早に疑問を口に出し、更に女へ詰め寄らんとするリッチーをアーサーは素早く服の裾を掴んで押さえた。
言葉が通じ対話が出来るとはいえ、このような巨大な魔物が蔓延る凍原に一人ふらりと現れる発光する女。
気安い対応など出来る筈もない。
アーサーは礼を逸さぬよう静かに張りつめるような緊張を維持しながら、女へと視線を向けた。
相手は相変わらずの無表情だ。
ともすれば三人に興味などない、と言わんばかりの。
「……ふむ。せっかくだ。君らを私の家に招待するとしよう。ついてくるといい」
表情とは裏腹に、女はさして三人に興味が無い訳でもないらしい。
台車ごと身体を反転させ、歩き始める女。
三人は各々顔を見合わせたものの、ひとまずは女について行くことにした。




