07
陽は暮れかけ、空は薄い赤紫色に染まっている。
黒い川蝉たちは夕食を終えて飛び去り、食後の大蜥蜴の亡骸の前まで三人は戻ってきていた。
空や周囲は姉妹が念入りに警戒しているが、今の所は何の気配もない。
「まぁまぁ、すっかり食べられちゃって」
亡骸を眺めながら呟くリッチー。
大蜥蜴だったものは、最早跡形も無い。川蝉たちによって骨を突き砕かれ念入りに解体された結果、そこにあるのは無数の穴が空いたただの残骸だ。八羽で食べるには量が多かったのか、肉も残っている。
「このトカゲって食べられるの?」
「まずくはないらしいですよ。美味しくもないらしいですが。せっかくなので私たちも夕食にさせて貰います」
「あららぁ」
無常感を覚えながら、リッチーが屈み込んで大蜥蜴の鱗を一枚拾い上げた。
赤紫色の鱗は彼女の手のひらほどの大きさがあり、厚さは五ミリほど。光を反射する艶やかな表面には、ごく浅い格子状の筋が入っている。
顔から近づけたり離したりしながら、鱗を眺めるリッチー。
「……少し金属が混じってるのね。まあまあ綺麗」
「リッちゃん、舐めちゃ駄目だよ。舐めるならよく洗ってからね」
「……駄目?」
「駄目だってほら、顔離してっ」
実際に舐めたくなるほど綺麗ではなかったが、わざとらしく鱗へ向けてちろりと舌を覗かせるリッチー。
ピエールは彼女の手から鱗を取り上げた。
そのまま、リッチーと二人で地面に散らばる鱗の内壊れていない綺麗な物を集め始めた。
隣ではアーサーが、食べ残しの中から自分たちが食べるに値する塊を切り出している。
「こうやって見ると本当に金属の板みたい。あ、でもあんまり硬くない。ぺこぺこする」
ピエールが、集めた鱗の内一枚を両手で握り力をかけて鱗をしならせた。
見た目は確かに金属のようだが硬度は金属とはまるで異なり、弾性こそあれど簡単に曲がってしまう。性質は金属よりも樹脂板と言った方が近いかもしれない。
そう思いながら、何の気なしに鱗へ力を加えたピエール。
べきっ。
「あっ」
大した力は加えていない筈だが、鱗はあっさりと折れてしまった。
真っ二つに割れた鱗を、リッチーが見咎める。
「ピエールちゃん何してるのよ、大切な鱗ちゃんが……!」
「ご、ごめん折れるほど強く力込めたつもりはなくって……」
「もうっ」
大声を上げずあくまで小声で、リッチーは頬を膨らませた。
隣で、蜥蜴肉を切り取っているアーサーが視線を肉に向けたまま息を吐く。
「いいじゃないですか。どうせその鱗は二束三文の価値しかない、使い道の無い不要品ですよ。数枚割れたって問題無いでしょう」
「違うでしょっ、価値がどうとかじゃなくて綺麗かどうかよ! アーサーちゃんは本当に物を価値でしか見ないんだからっ」
「そういうあなたも、評価基準は美しさ一つだけじゃないですか」
「そりゃそうよ、美しさは全てに優先するのよ」
「……」
話は平行線。
それを悟ったアーサーは諦めと慣れと乾いた笑顔をない交ぜに口を閉ざして作業を続け、リッチーもピエールと一緒に鱗集めに戻った。
三人の作業はおよそ五分ほど。
リッチーの手には二人で集めた傷の無い鱗が合計二十一枚、アーサーの手にも三人の夕食と明日の朝食に足りる程度の蜥蜴肉が抱えられていた。
作業を終えると、誰が言うでもなく足早にその場を後にし岩場の窪みへと駆ける。
窪みはおよそ人間四、五人は入れそうなほどの空間で、外からの視界の通りも悪い。隠れて一晩明かすにはもってこいの場所だ。
三人は窪みの中で揃って腰を降ろし、大きく一息ついた。
「今日はここが寝床かな」
「そうですね。油断は出来ませんが多少は安全な筈です」
「じゃあこれから夕ご飯?」
「ええ。まずはその鱗と肉と汚れた道具を洗いましょう。血の臭いが残っていると厄介事を引き寄せます」
「ういー、じゃあよろしくー」
「……あなたが、やるんですよ! 呪文で!」
「あっ、分かってる、分かってるって冗談だから、だからそこ掴むの止めてっ」
とぼけた顔でふざけた事を宣うリッチーを、アーサーはやはり服の首の後ろ部分を掴んで持ち上げた。
「アーサー、私は?」
「姉さんも一緒に外に出て休憩がてら警戒してください。それから姉さんの手袋も洗いますから、貸してくださいね」
「はいよー」
そうして歩く二人と持ち上げられる一人が、窪みの外へ出て細々とした作業を始めた。
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作業は一通り終了し、三人は窪みの中で思い思いにくつろいでいる。
窪みの内部には縄が掛けられ、手袋を始めとしたいくつかの衣類が吊り下げられている。皆リッチーが呪文で出した水によって濯がれており、水の雫を地面に垂らしていた。
三人の袂にあるのは、紅茶の満たされたカップと今日の夕食。
米粉の揚げ菓子、魚の干物、干し果物。
そして本日の目玉、蜥蜴肉である。
大きな塊の蜥蜴肉は持参していたシテテの香辛料をふんだんに擦り込まれ、わずかに黄色い。
その黄ばみ肉を直接火にかけず呪文の熱でじっくり炙り焼きにした、シテテ風ロースト蜥蜴肉だ。
量はリッチーが少女一人分、重ねず並べて手のひらに収まるほどであるのに対し、姉妹の量は一人分が両の手のひらにこんもりと山になるほど。倍以上差がある。
薄く切り分けられたロースト蜥蜴肉が、姉妹の前にどっさり積まれていた。
「相変わらずの量ねぇ」
「今日はよく身体動かしたしね」
「さて、では食べましょうか」
アーサーの合図により、三人は食事に手をつけ始めた。
勿論、最初に食べるのはロースト蜥蜴肉である。
フォークで肉を一切れ刺し、口へと運ぶ三人。
そして噛む。
「……!」
まず最初に感じたのは硬さであった。
筋に似た硬さが赤身だろうが脂身だろうが全ての部位に隙間無く存在している。
筋だけを編んで作られているかのような噛み応えだ。
まず硬さ、次に硬さ、更に硬さを味わい、噛んでいる内に香辛料の風味が口の中を満たすがやはり硬い。
三人は一言も喋ることが出来ずに肉を噛み続け、顎の力の順にピエールが一抜け、アーサーが二番目に肉を飲み込んだ。
「硬っ! 何この肉!」
「予想を上回る硬さですね……。歯が折れる、という類の硬さではありませんが、噛んでも噛んでも噛み切れない。切り分ける時はあっさり切れたのに」
「これ全部食べたら顎痛くなりそう」
「失敗でしたね。手間がかかっても細かくするべきでした」
「今からする?」
顎休めに紅茶を飲みながら、ピエールが提案した。
アーサーも紅茶を口に含みながら、視線をもう一人の少女、リッチーへ。
釣られてピエールもリッチーへ目を向けると。
「……」
まだ噛んでいた。
悲しげな瞳で二人を見返しながら、一言も発せず顎だけをもぐもぐ動かし続けている。
暫しその様を見つめ続けてから。
姉妹は顔を見合わせ、仕方ないといった雰囲気で笑顔を見せた。
「……今からでもしましょうか」
「……そうだね」
結局食事は一時中断となり、蜥蜴肉を粗く刻み直し改めての夕食となった。
それでもリッチーが噛むのに難儀したのは、その夜のささやかな笑い話であったという。
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真夜中。
月の光も差し込まない、真っ暗な窪みの中に時折雫の落ちる音が聞こえる。
ぽたり。
雫の落ちる音に紛れて、小さな呼吸音が三人分。
ある者は完全に熟睡しており、ある者は静かに寝息を立てており、またある者は規則正しく静かに呼吸をしている。
……ぽたり。
また雫が落ちた。
その間隔は、前々回から前回が五十二秒、前回から今回が四十五秒。
おおよそ五十秒間隔というところ。
つい百回ほど前までは三十秒間隔だった。この調子ならば自分が起きてる内に止まるだろうか。
そんな取り留めもないことを計測しながら、ある者はじっと不寝番をしている。
どこか遙か遠くから、蛙の鳴く声が聞こえた。
この辺りに水辺は無いと聞くが、一体どこで鳴いているのだろう。何の為に鳴いているのだろう。
そんな取り留めもないことを考えながら、ある者はじっと不寝番をしている。
膝を曲げて座り込んだ姿勢で、闇の中薄目を空けて不寝番をしている者。
再び蛙が鳴き、声の主に想いを馳せようとした瞬間外から飛び込んで来た何かにアーサーは盾を突き出すことで応えた。
ギエエエエエッ、という闇をつんざく絶叫が窪みに満ちていた静寂を一瞬で叩き壊す。
「はっ! えっ、何? 何、夜襲? お姫様はっ?」
突然の叫び声で飛び起きたリッチーが闇の中、解けた長い金髪を振り乱しながら寝惚けた頭で叫んだ。
しかし返事は帰ってこない。
絶叫すら二度は聞こえてこない。
「えっ、あ……ええと、アーサーちゃん、ピエールちゃん?」
「アーサー、大丈夫?」
「ええ。……流石です」
「何、ちょっと、何なの?」
「問題ありません。落ち着いて呪文で明かりでも灯してください」
闇の中でそう言われたリッチーが落ち着きを取り戻し、呪文を唱えて指先に白い光を灯すと。
窪みの入り口にいたのは人間ほどの大きさがある巨大な蝙蝠であった。
顎は大きく裂けて鋸のような歯が並び、皮膜の翼は大きく広げれば片翼だけで人間二人分はある。
しかしその大蝙蝠は顔面に打撃痕が残り右の歯や顔骨が砕け、更に横合いから突き出されたショベルの刃が胴に深々と食い込んでいた。
まだぴくぴくと動いているが、もう逃げる力も残っていない。
「……何これ」
「この蝙蝠が飛び込んできたので撃退した、それだけです。もうじき死ぬので問題ありません」
「あ、そ、そう」
「ではこれを捨てますので、二人とも念の為付いてきてください。一瞬とはいえこの場で誰か一人を孤立させるのは危険ですから」
「ん」
頷いて立ち上がるピエール。
遅れてリッチーも寝具を除け、姉妹について窪みの外へ出た。




