06
――島最大と言われる河川。真っ直ぐに遡り進んでいると、やがて大きく左へうねり始めた。
しかし川に沿って蛇行することは良しとしない。森を抜け、頂きへと直進する――
: :
「臭いー」
「我慢してください」
顎を上げ、歯をむき出しにしてコミカルに呻くリッチー。
彼女の日焼けした小麦色の首に、アーサーが木綿の布切れを巻き付けた。
布切れは肌と接触しない部分に強い虫除け効果のある苔色の膏薬が塗られており、それがかすかな刺激臭を放っているのだ。
「いーっ」
「我慢してください」
「私も臭いの嫌ーっ」
「我慢してください」
リッチーの呻きに先ほどと全く同じ調子で返し、更に同調したピエールにも全く同じ口調で返し、アーサーは改めて森へと向かい合った。
隊列は先頭アーサー、間にリッチー、殿ピエール。
「では行きましょう」
そうして妹を先頭に、三人は森を直進し始めた。
: :
どこか遠くで、鳥の鳴き声がする。
声量や声の太さからして、恐らく声の主は相当な大きさだ。きっと魔物だろう。
鳴き声が発された途端、三人の周囲からも小鳥のざわめく鳴き声が一斉に発され大勢の小鳥が飛び立ってゆく。
しかし幸いなことに巨鳥らしき鳴き声が三人へと近づくことはなく、進行方向から逸れる方角へと遠ざかっていった。
「……」
鳴き声が消えていくのを聞き届けたアーサーが、歩みを再開する。
右手に持つ剣で目の前の蔓植物をなるべく音を立てぬよう切り払い、一歩。
三人が進んでいる森はいかにも南国の森といった風体で、太く大きい樹木が点在し、その隙間を埋めるように低木や蔓植物が生い茂っている。
日射しも視界もよく通り、滑りやすい苔や危険な裂け目、傾斜なども無い歩きやすい土の地面だ。
おかげで歩く分には支障はない。
が、高温多湿で蒸し暑く、三人の周囲、二歩分ほど離れた距離では大勢の羽虫が大挙して飛び交っている。
もしも虫除けの効力を切らせば、この羽虫の群れが一斉に飛びついてくることだろう。
三人は各々表情こそ違えど飛び交う羽虫に辟易しながら慎重に、そろりそろりと森を進んでいた。
「……」
抜け目無く周囲を警戒しながら進む姉妹に挟まれたリッチーが、同様に左右をきょろきょろと見回しながら干し果物を一つ口にする。
意外に慣れた忍び足で歩きながら、小声で呟いた。
「この道は最悪ね。虫は気持ち悪いし、魔物はいるし、石が無い」
「リッちゃん的には最後が一番重要そう」
「当然よ、あたしは石を見に来てるんだから」
「石なら転がってるじゃないですか、投げやすそうなものが」
「分かってて言ってるわねこの意地の悪い妹は……」
「ふふ、ここを抜ければ多少は見られる筈です。我慢して抜けましょう」
「ちぇっ、はあーい」
三人とも、衣擦れほどの小さな囁き声で話している。森の中は生物の活動音や風の音で騒がしく、この程度の話し声ならば問題はなさそうだ。
それ以降も散発的に囁き声で会話をしながら、森を進む三人。
おおよそ一時間も進んだ頃だろうか。
ピエールがぴたりと足を止め、一瞬遅れてアーサーが止まり間のリッチーがアーサーの背嚢に鼻をぶつけた。
「ふぎっ」
鼻を押さえるリッチーをアーサーが即座に小脇に抱え込むようにして側へ寄せ、姉妹は背嚢を地面にどすん、と降ろし武器を構えた。
アーサーは持っていた方位計を戻し剣と盾を。
ピエールはショベルを。
ピエールは無意識で武器を抜いてからそれがショベルだったことを思い出し、一瞬顔をしかめたがすぐに真剣な表情に戻る。
「……何か来る?」
「多分ね。こっちを意識して近づいて来てる。一匹、飛んでる」
真剣な顔のピエールに返され、リッチーは自身も肩掛け鞄から道具を取り出した。
巻物が一巻と、手首から肘ほどの長さの毒針。
巻物は右手。鞘に納まったままの毒針は鞄内、すぐ手に取れる位置に。
気配の主は進行方向左手側。そちらへ向けて隊列をピエール、アーサー、リッチーと整え構えていると、およそ三十秒もした頃それは現れた。
視界の開けた森の奥。立ち並ぶ木々の合間にごくわずかに見えた存在は、一匹の大きな鳥であった。
: :
きゅききききゅ、きゅきりりりりいっ!
木々を伝うように飛来した一匹の鳥が、少し離れた木の上に止まり三人を見下ろして鳴いた。
音量が大きい上に驚くほど甲高く、金属同士を擦り合わせるような耳障り極まりない鳴き声だ。
身体の大きさはリッチーより一回り小さい程度。胴体は細長いが嘴は太く短く、羽毛は葉に紛れる緑、嘴は枝に紛れる茶色をしている。
「……嫌な奴に遭った」
その姿を捉えたアーサーが、不機嫌さをはっきり表に出して呟いた。
その言葉も、未だ続く金属音めいた不快な鳴き声に被せられて聞き取り辛い。
「こいつどんな奴? 何かめっちゃうるさ」
言葉半ばで鳥が突撃した。
ピエールは目にも留まらぬ早さでショベルを構え迎撃に躍り出る……が、鳥は有効な間合いに入る直前でぴたりと止まりすぐに再び距離を取った。
集中が空振りに終わったピエールへ、離れたところから再び金属音めいた不快音声を叩きつける。
流石のピエールも不快感で眉をひそめた。
「軋み鳥。見ての通り不快感を煽る鳴き声とからかうような行動で緊張を誘い、相手の神経をすり減らそうとしてくる。こちらから追うと絶対に近寄ってきませんし、動きは機敏なので矢や呪文で狙っても早々当たらず矢や魔力を無駄にするだけ。かといって夜ですら同じように鳴き続けるので放置しておくと消耗著しく、心身共に弱り切ったり油断すればその時こそ本当に襲撃して来る」
「何て性格の悪い……」
「まるでアーサーちゃんみたい」
余計なことを言ったリッチーのわき腹にアーサーの肘が刺さる。
その瞬間再び軋み鳥は素早い動きで距離を詰めるが、やはり直前で止まり風圧と緊張だけを押しつけてきた。
止まれば再びの金属音。
きゅきききききゅ、きゅりりりりっ。
耳孔を通って脳まで微振動するような鳴き声が森林内を埋め尽くす。
「……それで、どうするのこいつ? 無視は出来ないんでしょ?」
「そうですね。やはり始末するべきでしょう」
言いながら、降ろしてあった背嚢の口に手をかけるアーサー。
軋み鳥は背嚢を開こうとした瞬間再び突撃し、直前で止まるかと思いきや今度は木の枝を一本投げ槍のように投げつけてきた。
アーサーは盾を構えて防ぐ姿勢を取ったが、それより前にいたピエールがショベルで叩き落とす。
枝を投げ終えまた離れた位置に止まった鳥はきゅりきゅりきいきい鳴き始める。
耳に手を当てたくなるのを堪えながら、ピエールが軋み鳥を睨み続ける。
その間にもアーサーは背嚢から短弓と小さな矢を数本取り出し、弓に弦を張った。
「さっき矢は当たり辛いって言ってなかった?」
「ええ。なのでこれは囮です。……リッチー、あなたも手伝ってください」
一人だけちゃっかり耳を塞いでいたリッチーを呼びつけるアーサー。
リッチーは渋々耳から手を離した。
「なーにー、あたしに何をさせるのよーっ」
爆音の鳴き声の中、かき消されないよう声を張り上げるリッチーに弓と矢を渡し、アーサー自身は地面から石を拾い同様にピエールにも石を拾うように言う。
「あたしー、弓って別に得意じゃないんだけどーっ?」
「あなたのそれは陽動です。実際には射らなくてよろしい。矢をつがえてあいつを狙って、軽い殺気を出してください」
「殺気って、あたしそんなの出したことないんだけど」
「今にも射かけるぞ、という気持ちを前面に出すだけです」
「アーサーちゃんとは思えないあまりにもふわっとした説明……」
愚痴りながらも、リッチーは矢をつがえて真っ直ぐ軋み鳥を狙った。
一直線に弓矢で狙われる軋み鳥は相変わらず大音量の金属音を掻き鳴らしながらも、意識はリッチーの矢の鏃に向いている。
その間に姉妹は石を軽く握り、リッチーから数歩分離れた。
「殺気、殺気ね、出すわよ……ほああっ!」
気の抜けたかけ声と共に全身に力を込めるリッチー。
しかし何も起こらない。
軋み鳥も無反応だ。
「ねえ、何も起きないけど」
「いえ、それでいい。そのまま情けないかけ声と情けない気を張り続けて」
「……なんかひどくない?」
一連のやり取りにピエールが内心含み笑う中、リッチーは再び全身に力を込め続ける。
相変わらず反応の無い軋み鳥。
殺気などどこからも感じられないのだから当然だ。
逆に"あれは矢を構えているのに隙だらけ"と認識され、脅かして矢を無駄にさせてやろうと軋み鳥はリッチーめがけて突撃をしかけた。
「わわっ!」
眼前に迫る鳥の姿に慌てたリッチーが矢をあらぬ方向へ放ちながら頭を抱えてうずくまった。
これでもう自分を矢で狙うなどという愚かな真似はしなくなる筈。
と、軋み鳥が油断し普段通り直前で停止した瞬間。
アーサーの手によって石が投げられ慌てて避けるもその回避の隙に本命であるピエールの投石が軋み鳥の胴を掠め抉った。
「ごめん浅かった!」
「追撃して! 確実にここで殺します!」
ぎゅるるっ、と先ほどの精神を苛むものとは違う、苦しげな鳴き声を発しながら慌てて逃げようとする軋み鳥に追撃を仕掛ける姉妹。
水平に飛び跳ねるような迅速な動きで軋み鳥へ向けて一歩踏み出し、射線の通る位置を見極めながらベルトポーチに入れていた石と地面にあった石とを無数に投擲した。
軋み鳥は胴を抉られ体勢の崩れた飛行状態でも何とか数個の石を避けたが、最終的に翼に石が直撃し風切り羽を折られて地面に墜落した。
手傷を負い飛行能力を失って落下した軋み鳥。
もう逃亡は不可能だ。
姉妹は握っていた石をベルトポーチに戻し、背嚢を背負い直して一息ついた。
視線を向けると、うずくまっていたリッチーが頭だけ上げて上目遣いで姉妹を見返している。
「……やっつけた?」
「飛行能力を奪いました。早く立って、とどめを刺しに行きますよ」
アーサーに急かされると、リッチーは立ち上がって二人の元へと駆け寄った。
三人は先ほどと同じ隊列に戻り、必死に逃げようとしている軋み鳥の元へと辿り着く。
軋み鳥は胴の羽毛を流れる血で赤く染めながら、必死に羽を羽ばたかせている。だが投石により飛行能力だけでなく身体の均衡をも大幅に損ない、ただ足と羽を無為に振り回しているだけだ。
「あれだけうるさくて嫌な奴だったのに、こうして見ると哀れなものねえ。可哀想にすら見えてくるわ」
「……殺すの止める?」
「駄目ですよ。こいつは組合でも有害生物として駆除の対象になっています。このままではただの不快な魔物ですが、何かの拍子に魔法石を得ると音波の呪文を扱うようになり危険度が大きく上がる。なので見つけたら可能な限り殺す。それに殺した証明として嘴を切り取って組合に持ち帰れば小遣い程度ですが報奨金も貰えます」
「大丈夫よ、可哀想だから殺すななんて言わないから。さ、やっちゃって」
リッチーが言うと、アーサーはもがく軋み鳥の元へ歩み寄り一息に剣を突き立てた。
刺される直前に恐怖からか一際大きな叫び声を上げてから、ぱたりと動かなくなる軋み鳥。
アーサーはそのまま剣で軋み鳥の嘴を抉り切り、その辺の植物で嘴と剣の血を軽く拭ってからそれぞれベルトポーチと鞘に納めた。
「行きましょうか」
「あの肉は?」
「軋み鳥の肉はよくある臭くて不味い駄目肉です。羽毛も質の良いものではありませんし、殺して価値のあるものはこの嘴による報奨金、三十ゴールドだけ」
「三十……本当に小遣い程度なのね」
「あとの死体は私たちではない何かが価値を見出すでしょうよ」
それきり振り向きもせず、姉妹は歩みを再開する。
リッチーも最後に一度だけ振り向いて軋み鳥の躯を眺めてから、前を向いて森林行に戻っていった。
: :
軋み鳥の襲撃を返り討ちにしてから、暫しの時が過ぎた。
以降今まで襲撃らしい襲撃は無く、時折リッチーの為の休憩を挟みながら三人は森を進んでいる。
「この森ってどれくらい続くの?」
「組合で聞いた情報によるとこの森は狭く、もう八割は進んだと見ていい筈です。もうすぐ抜けますよ」
「ほんと? この先は色々期待出来そうだし、やる気が湧いてきたわ! ……よろしくねピエールちゃん!」
「えっ、何で私……ってあー……そうか……」
聞き返す言葉半ばで、自身の腰に提げられている得物のことを思い出したピエール。
露骨にテンションを下降させる。
……と思えば、突然真剣な表情に変わり顔を上げて前方を見つめ始めた。
遅れてアーサーの雰囲気も変化し、挟まれたリッチーが暫く経ってから姉妹の変化に気づく。
「また何か来る?」
「いや、来る訳じゃなくて、進む先に何かいるかな。結構大きい」
「大きい?」
聞き返すリッチーにピエールが何か答えようとしたところで、アーサーが手を上げ立ち止まった。
今度は鼻をぶつけずに、二人とも立ち止まる。
「もう見えます」
身体を横にずらし、アーサーの脇から前方を見据える二人。
その先では森の景色が途切れ、黒紫色の岩石が剥き出しになった長い登り坂へと変化していた。
道は長く、登り坂であることも相俟って終わりが見えない。おまけに坂道の左右は黒紫の岩石による高い崖が果てしなく広がっている。上体を逸らして見上げねば頂点が見えないほど高い。
黒紫の断崖の隙間に一本だけ開拓された上り坂、と言える。シテテの上層へ登る為の貴重な坂であり、ここを避けて断崖を登るのは大きな回り道になるであろう。かといって鳥の魔物が多いこの島で断崖を直接登るのは自殺行為以外の何者でもない。
その貴重な上層への登り坂。
坂の根本には、大きな蜥蜴が一匹、悠々と鎮座していた。
体高は地面に寝そべった状態で姉妹の身長ほどあり、体長も相当に長い。樹齢百年を越える大木の丸太が横たわっているかのような大きさだ。
体表には赤紫色の鱗。暮れかけた陽の光をいっぱいに浴びて、きらきら眩しく煌めいている。
坂を占拠する一匹の蜥蜴。
その名を、鉄火大蜥蜴と言った。
: :
三人は少し離れた位置で息を潜め、じっと大蜥蜴の動向を観察した。
だが五分、十分、三十分と待っても、大蜥蜴が動く素振りは見られない。寝ているのではないかと思えるほど。
しかし目は開いており、三人をしっかり視界の端に納めている。近づけば確実に一悶着あるだろう。
つまるところ、道を塞ぐこの巨大な厄介者をどうにかせねば先へは進めないのだ。
「……姉さん」
「大丈夫だって、あれくらいならこの作戦でも大丈夫。任せてよ」
顔を付き合わせて作戦会議をしていた三人。アーサーは暫く作戦に難色を示していたが、ピエールが自信に満ちた顔で胸をとん、と叩いたのをきっかけに覚悟を決めたようだ。
大きく息を吐き、名残惜しげにピエールを見てからアーサーは隣にいるリッチーを小脇に抱えた。
リッチーは妹に抱えられるがまま、手には巻物を持っている。
「……ではお願いします、姉さん」
「ピエールちゃん気をつけてねー」
リッチーを抱えたアーサーが、ピエールから離れて坂道の真横、崖の真下付近に移動した。
それを見送ってから、ピエールが大蜥蜴の真正面に姿を現す。
「よおし」
わざと大きな声を上げると、大蜥蜴も頭を上げ、ピエールを真正面に捉えた。
自分を見つめる大蜥蜴の眼球を見返す、ピエールの右手には石。
「うおしゃあっ!」
かけ声と共に石が投げられた。狙いは一直線、目玉だ。
しかし蜥蜴は当然のように頭を傾け、鱗を使い投石を斜めに弾く。
そしてお返しの光弾である。
目の前の小娘を敵と認識した鉄火大蜥蜴が、ごあががが、ががががっ、と鳴き声を発しながら大口を開いた。
途端、大蜥蜴の全身から白い魔力の光が溢れ、鱗が光で一層輝く。
光はやがて白から赤に変わり、赤い光は槍状の塊となって一斉にピエールへ向けて投射され始めた。
矢のような速度だ。
一発は右へ半歩ずれて避け、二発を屈んで潜り、一発をショベルの腹で受け流す。
狙いを逸れた槍は森の植物に命中すると着弾箇所を黒く焦がし、時には灰と変えながら消失した。
呪文による高熱の光弾だ。炎そのものではない為延焼はしにくいが、焼けた鉄の如き高温の光弾が刺されば命中箇所は内部まで黒焦げだろう。
「しゃらあッ!」
間髪入れず射かけられる赤熱の矢を避けながら、ピエールも負けじと雄叫びを込めて石を投擲した。
風を切って飛ぶ石を大蜥蜴は先ほど同様鱗で弾こうとしたが、二発弾くも続けて投げられた一発が眉間に直撃した。
ぎゅっ、と短く鳴く大蜥蜴。
どうやら痛手だったようだ。
勿論致命傷という訳ではなく、向こう脛を強く蹴飛ばされた、程度だが。
片や魔力を消費しているのに当てることが出来ず、片やいくらでも残弾を拾える石ころを着実に当ててくる。
撃ち合いは不利。
それを悟った大蜥蜴が動いた。
二対の足に力を込め、飛び出すように地面を這う。その動きは蛇のようにうねっているが、森林内でありながら平地を人が走るより速い。
蜥蜴が動いたのを確認したピエールは石を捨て、ショベルも鞘へと戻した。両手を空けて身構える。
とてつもない質量の大蜥蜴が、一切の振動無く淀みない動きで身体をくねらせながら迫る。
巨体が自身へと衝突する、その直前。
ピエールは手近な木に手を掛け、一息に樹上へ向け跳ねた。背嚢を背負ったままとは思えない軽やかさだ。
敵が突如視界から消えたことに、蜥蜴が一瞬だけ戸惑う。
それは瞬きほどの間の隙だったが、その間にピエールは木を利用し大蜥蜴を飛び越えていた。
振り向く大蜥蜴と、ピエールの視線が一瞬交錯する。
大蜥蜴の身体から溢れる白光。
至近距離、防ぐのは困難。
が。
白光が赤く変わる前に、ピエールは手の中にある物を使い終えていた。
巻物だ。
呪文を読み終えた巻物からは灰色の霧が溢れ、ピエールはそれを蜥蜴へ投げつけた。
不気味な霧は一瞬にして巻物ごと大蜥蜴を飲み込まんと広がり、大蜥蜴は慌てて巻物から距離を取り警戒する。
しかしその霧がただの目眩ましだと気づいた頃にはピエールと、脇に控えていたアーサーとリッチーは全速力で坂を駆け上る最中であった。
「よし、すり抜けた!」
「ピエールちゃんかっこいー!」
「安心するにはまだ早いですよ、あいつが……ほら来た!」
アーサーの叫び声にぎょっとした顔でリッチーが振り向くと、大蜥蜴は猛然と三人の追走を開始していた。
走りながら呪文すら展開している。
「姉さん、これ!」
「これって何よ、あたしは物じゃな……ああっ!」
アーサーは小脇に抱えていたリッチーをピエールへ投げ渡し、腰に提げていた革張りの丸い小盾を構えた。
ぱぱぱんっ。
革の盾が三発の熱弾を弾き、水の跳ねるような高い音が鳴る。着弾箇所は黒く焦げているが、盾が壊れることはなく手に熱が伝わることもない。
「何よあいつ、しつこい! 坂道通るだけなんだからもう見逃してよっ!」
「投げた石が、痛かったのかも! いい所入っちゃったし!」
「リッチー巻物、冷気! 唱えたら進路を塞ぐように投げて!」
熱弾を弾きながら駆けるアーサーが叫んだ。
リッチーは持っていた巻物を開き、読み終えて光が溢れるのを確認するとすぐに投げつけた。
大蜥蜴と三人の間に落下する、冷気を放つ巻物。
しかし巻物は熱弾をぶつけられて即座に壊され、蜥蜴は何一つ構うことなく巻物を踏みつけ走り続ける。
「げっ、あいつ巻物壊してきた! 次はどうしよ!」
「二巻目の準備だけしておいて!」
「アーサーそろそろ坂終わる!」
走りながら後方の警戒をしていたアーサーの耳に、ピエールの呼びかけが聞こえた。
熱弾の合間を見計らって前方へ視線を戻すと、坂道は終わり黒紫の大地が視界に広がる。
周囲は非常に凹凸が激しく、黒紫の岩石がそこらじゅうで山になり、柱になり、穴になっている。
「ここまで来ればあとは適当に……」
言葉半ばで、ピエールとアーサーはばっ、と同時に勢いよく空を見上げた。
暮れかかった空には何も見えない。ただ空と雲と太陽があるばかり。
しかし姉妹は鋭い気配と存在感を感じ取り、即座に道を真横に跳ねるように曲がり岩石の窪みへと身を隠した。
身など隠しても、隠れる瞬間を目の前で見ていた大蜥蜴には何の意味も無い。ただ袋小路にはまり込んだだけだ。
だが。
気配に反応したのは、大蜥蜴も同様であった。
それも姉妹よりよほど敏感に。
三人が岩石のくぼみから頭を三つ、ごくわずかに覗かせ様子を窺うと、ひどく慌てた様子の大蜥蜴は大急ぎで身体を翻し坂道を下り戻ろうとしていた。
しかし時既に遅く、大蜥蜴は彼らに見つかってしまう。
気配の主は、太陽を背に飛んでいた総勢八匹もの川蝉に似た鳥たちだった。
やや青みがかった黒い羽を持つ大型犬ほどの鳥が八匹、その見た目からは想像出来ない鋭く力強い鳴き声を発しながら大蜥蜴へと群がり始めた。
大蜥蜴は呪文を最大展開し、十発、二十発もの熱弾を放ちながら坂を下ろうと四苦八苦している。
しかし黒い川蝉たちは蠅のような機敏さで呪文を避け、急降下してはすれ違いざまに長く鋭い嘴を突き立てすぐ飛び去るという戦法で代わる代わる大蜥蜴の表皮に嘴を突き刺していった。
大蜥蜴は必死に逃げようとするも、坂を下ろうとすれば黒い川蝉たちは蜥蜴の目を突き、足を突き、時には力業で骨すら砕いて足止めや妨害をしながら着実に鱗に覆われた表皮を穴だらけにしていく。
じきに大蜥蜴の両目は潰され、足も肉ごと腱を貫かれ、身動きの取れなくなった大蜥蜴は八匹の夕食として生を終えることとなった。
この鉄火大蜥蜴が三人を坂道まで追っていたのは、先のピエールの発言通り投石の直撃に怒りを覚えた、それだけである。
だがその怒りによる無為な深追いが、無惨な結果を招くことになったのだ。
三人は朧気にそれを実感しながら、川蝉たちが食事を終え立ち去るまでじっと息を潜めその場に隠れ続けていた。
時折彼らが"他にも何かいるのでは?"と周囲に注意を巡らせるのをやり過ごしながら。




