労働者-02
三日目の朝。
肉体労働である外壁修理を難なくこなしていたことをどこからか嗅ぎつけたアーノルにあれこれ詮索されるのをいなしながら、二人は朝食を終えた。
宿の掃除の準備をするニナと二言三言挨拶を交わして、宿を後にする。
空は一面の曇り空。今すぐ雨が降るという雰囲気では無いものの、東の山脈から吹き降ろす風は強く昨日よりも肌寒い。
ピエールはまだ平然としていたが、アーサーは風が吹き付ける度身震いして外套を握り締めていた。
「風強いね」
「そうですね、冷たくて嫌な感じです」
「私はまだぎりぎり気にならないかな」
「羨ましいですね」
アーサーの言葉に嫌味な部分は無く、素直な気持ちから出た一言のようだ。
寒空の中を暫く歩いて、役場へと辿り着いた二人。開かれたままの入り口を悠々とくぐる。
扉の脇に寄りかかっていた細面な青年が、薄い微笑みを湛えながら二人を眺めていた。
: :
「くああ」
顔を逸らすことすらなく大欠伸をかます職員と、ピエールの視線がカウンター越しに交差した。
それでも職員は一切取り繕うことなく欠伸を吐き終え、目を拭う。
「君達か。監督官のシュナイルさんから話は聞いてるよ。女とは思えない馬鹿力と体力の持ち主だったってね」
昨日と全く同じ様子で呟く職員に対し誇らしげに頷くピエールと、それとは真逆に忌々しげな顔で職員を睨むアーサー。
職員は敵意に満ちたその視線に気付くと、数秒見詰め合ってから小さく微笑んだ。
「昨日は悪かったね。もう余計なことは言わないから好きな仕事を選んでいくといい」
アーサーは苛立ち露わに鼻を鳴らすに留まり、それからぶっきらぼうに外壁修理、と呟いた。
「昨日と同じ外壁修理ね、ちょっと待って……はい」
カウンターの上に差し出された木札を無言でひったくるように受け取ると、アーサーはさっさと役場を後にする。
ピエールはすぐ後を追おうとはせず、職員へと申し訳無さそうに微笑んだ。
「色々ごめんね、あの子知らない人が相手だと凄い怒りっぽくて」
ピエールが謝ると、職員も眠そうな笑顔を返した。
「いいよ。昨日は私も失礼だったしね。妹さんが怒るのも無理はない」
職員が返答した所で、役場の外からアーサーの呼び声が響く。
ピエールは職員に手を振って挨拶し、それから役場の外へと駆けて行った。
: :
朝は強かった風も昼には穏やかになり、幾分過ごしやすくなっていた。
二人が出掛けに羽織っていた外套も、今は丸めて背中に括り付けられている。
二人は町の南西の外壁修理の一団に混ざって、今は昼休憩の最中だ。
ピエールは他の労働者である筋骨隆々の男達と笑顔で雑談、現在は労働者仲間たちに斧という道具がいかに素晴らしいかを熱の篭った口調で語り、アーサーはそれを少し離れた所から眺めている。
昼食である携帯していた保存食の残りを、合間合間に口へと運びながら。
アーサーは視線をピエールへと向けつつも、注意はピエールには向いていない。
「……」
アーサーの横。五メートルほど離れた場所で、一人の男がピエールを見ていた。
その男はすっきりとした細めの顔立ちの、若い青年だ。
薄い茶色と金色が混じったまだら模様の髪と釣り目の碧眼。顔立ちの整ったいかにも優男と言わんばかりの顔とは裏腹に、身体つきは服の上からでも分かるほど引き締まっている。
彼女たち姉妹とは別の意味で、外壁修理の一団の中で異色の存在だ。
そんな男がにこにこと気さくな笑みを湛えて、ピエールのことを見つめていた。
(こいつ。今朝役場の入り口でこっちを見ていた奴だ)
アーサーは表向き姉を見守りながら食事をしている風を装い、内心強く男への警戒心を固めていた。もしもピエールに接触しようとすれば、即座に割って入る算段だ。
斧の素晴らしさの主張に熱の入ったピエールは、周りの男たちを下がらせ勢いよく立ち上がった。
鞘から薄緑に輝く斧をするりと抜き去り、アーサーへと許可を求めるように視線を向ける。アーサーが視線で頷くと、ピエールは得意げに斧を振り回し始めた。
手の中にある斧を、まるで薄緑のリボンが付いたバトンか何かのように片手で軽々と振り回している。
時折決めポーズらしき格好を取って観衆、そしてアーサーへと誇らしげな視線を向けながら。
アーサーにとってその姿勢自体は心底どうでもいい路傍の石にすら劣るものだったが、そうやって楽しげに笑っている彼女自身の存在は、何者にも代えがたい愛おしいものとしてアーサーの心を和ませた。
これで横の男がいなければ、アーサーはもっと安らかな顔で微笑んでいたことだろう。
: :
その日の労働も終わり、二人は夕食を食べに鳩麦堂へと向かっている。
今日のピエールは終始上機嫌だったが、逆にアーサーの表情は優れない。今も、外套のフードの奥にある不機嫌な顔を隠そうともしない。
「アーサー、今日どうしたの?」
ピエールに尋ねられたアーサーは、自然な仕草で姉の横へと身体を密着させる。
「昼間一緒に働いてた痩せマッチョの男。朝からずっと私達のことつけてますよ。今も後ろにいます」
何気ない調子で、小さくアーサーが答える。
同様にピエールも前も向いたまま、平然を装ってアーサーへと尋ね返した。
「……後ろにいるのは知ってるけど、偶然じゃないの? 向こうも鳩麦堂にご飯食べに行くつもりなんじゃ」
「だといいんですけどね」
「にしても、つけてるなんてこと考えもしなかった」
「姉さんは町中だと無警戒過ぎるんですよ。それはともかく、食事の後も付いて来るようなら何か考えましょう」
「アーサーは逆に気にしすぎだと思うけどね……」
小声で会話している内に、目的地へと辿り着いた二人。店内は相変わらず盛況で、席も七割ほど埋まっている。
店内に入ると、既に顔馴染みになったそばかすの店員が目ざとく二人を見つけ店内の一席へと案内した。隅の席ではないが、それでも端にあるテーブルだ。
アーサーは壁に背を預けられる位置の椅子へと座り、ピエールもその向かいに座る。
店員に昨日までと同じ安価で腹の膨れるメニューを頼んで、二人は黙り込んだ。店内でも外套を脱ぐことは無くフードも目深に被ったままだ。
そうして待つこと一分。予想通りの人物が現れる。
「ここ、いいかな?」
二人が返事をするより先に、細面の青年は同じテーブルの席へと着いた。
: :
「今日一日見させて貰ったよ。いやあ、君達凄いね。力持ちだ」
男は余裕と自信に満ちた笑顔で、二人に交互に視線を向ける。褒められたピエールは満更でもなさそうな顔で、照れ隠しにうなじを軽く引っ掻いた。
アーサーはいつものような丸出しの敵意をぶつけることはせず、真剣な顔で男を観察している。
暫くの間そうして観察してから、小さく息を吐いた。
「それで、わざわざ朝から私達のことを監視して何の用でしょうか」
単刀直入に尋ねようとするアーサーを、男は制止した。
「まあ待ってよ。まずは自己紹介でもしよう」
あくまで余裕の笑みを崩すことはなく、男は多少気障っぽく手をかざしている。
「俺の名前はアルフレドって言うんだ。仲間と一緒に冒険者をしてる。『攪乱のアルフレド』って言えば地域によっては結構有名だったりするんだけど、知らない?」
二人が揃って「知らない」と即答しても尚、アルフレドの笑みは揺るがない。
「そっか、知らないか。まあそういう人もいるよね。それで君達の名前は?」
それぞれ名前を告げると、アルフレドは小さく頷く。
「いい名前だね。勇ましい君達にぴったりの名前だ」
それが本音なのか、世辞なのかは分からない。
しかし、ピエールは素直に顔を綻ばせた。
「いつもからかわれてばかりであんまり褒められたこと無いから、そう言ってくれると嬉しいな」
「用は?」
対照的に不機嫌そうなアーサーが割り込むと、アルフレドはようやく本題を切り出し始めた。
「僕達のパーティは、『城』に行くつもりなんだ」
城。そう呼べる場所は、この辺りにはレールエンズただ一つ。
アーサーは目を細めてアルフレドを睨み、ピエールは十秒ほど考えてからようやく言葉の意味に気付く。
「それで、臨時のパーティメンバーを……」
「生憎ですが」
「まあまあいいじゃん。話くらいは聞いてみようよ」
話を遮り拒否しようとしたアーサーを、ピエールが押し留めた。既に興味津々だ。
「それで、何で私達なの?」
ピエールの問いかけにアルフレドは待ってましたとばかりに微笑み、頷く。
「いい質問だね。僕達のパーティは僕含め三人なんだけど、城まで旅するならあと一人か二人欲しかった。だから臨時のメンバーを探してたんだ。でもこの辺りは冒険者にとっての旨味が少なくて人がいなくてね。町民も色々あって城に行こうとする人は見当たらない。それでどうしようか迷ってた所で、昨日面白い話を聞いたって訳さ」
そこまで言って、アルフレドは白い歯を見せてにっと笑う。端正な見た目も相まって、絵になる姿だ。
「役場で躊躇無く城の話を切り出して周囲の人間を震撼させたっていう、姉妹の冒険者の話を」
発端はそこか。アーサーは、恨みを込めて隣の姉を横目で睨んだ。
「それだけならまだしも、その姉妹は女性に見合わぬ力と体力の持ち主らしい。これは調べてみるしかないよね。その結果が……っと、仲間が来たみたいだ」
アルフレドが立ち上がって入り口付近に手を振ると、仲間と思しき集団がテーブルの前まで近付いて来た。
向こうも三人だ。
一人は頬のこけた長身の、三十歳手前ほどの男。粗雑に伸びた灰色の髪と、釣り上がった大きな目が特徴的だ。第一印象は、飢えた獣。
もう一人は、鮮やかな橙色の髪を柔らかく内側にカールさせている女性。歳は二十歳よりやや上といった程度だろうか。表情は高圧的で、いかにも高飛車そうだ。第一印象はお嬢様崩れ。
最後の一人。こちらは明らかに村娘といった風貌だ。黒に近いくすんだ茶髪に、そばかすの浮いた自信の無さそうな顔。誰が見ても、彼女を冒険者とは思わないだろう。
三人の内、獣とお嬢崩れがテーブルの開いている席に躊躇無く座り込んだ。
このテーブルは五人席の為、村娘の席は無い。おろおろしていた所でアルフレドが席を譲り、彼は隣のテーブルから椅子を一つ拝借して座り直した。
「はあ疲れた、もうお腹ペコペコ」
「肉が喰いてえな」
姉妹二人が注文していた食事を届けに来た店員に、獣とお嬢崩れは各々自身の食事を注文していく。
それを済ませてから、アルフレドへと視線を向けた。
「遅かったね二人とも。それでこちらのお嬢さんは?」
話を振られた村娘は一瞬緊張する素振りを見せたが、アルフレドがさわやかな微笑みを見せるとすぐに落ち着きを取り戻した。
はにかんでもじもじしている村娘の代わりに、お嬢崩れが口を開く。
「この町の一般人。ここの人間にしては珍しく城に行きたいんだって。呪文はそこそこ出来るみたい」
「ハ、ハンナと言います。レールエンズには昔から行きたいと思っていました。誰かがあの国の人たちを葬ってあげないと、って。普段から町の治療院や工場で働いているので、呪文はそれなりに出来るつもりです。よろしくお願いします」
初めは吃ったもののはきはきと自己紹介を終え、ハンナはアルフレドへと頭を下げた。
「俺はアルフレドっていうんだ。よろしくね、ハンナ」
アルフレドが笑顔で握手を求めると、ハンナは顔を赤くして躊躇いがちに応じた。
面白くなさそうな顔のお嬢崩れが、すぐにハンナとアルフレドの間に強引に割り込む。
「それで、アルの方は? そいつらが昨日言ってた姉妹の冒険者?」
その言葉とともに、ようやく四人の視線が姉妹へと集中した。
ピエールは新しくやってきた三人に笑顔で挨拶をしているが、アーサーはただ押し黙って眺めているだけだ。
二人とも、目の前の食事には未だ手をつけるつもりはないらしい。
獣は無遠慮に二人のことを上から下まで見回し、それからアルフレドへと視線をずらす。
「そうだよ、紹介するね。こっちの笑顔の明るい茶髪の方がピエールさんで、クールそうな金髪の方がアーサーさん。本当に二人とも凄い力の持ち主だったよ」
ピエール。アーサー。
そう名前を紹介された瞬間、獣とお嬢崩れは小さく鼻で笑った。
「ふ、何その名前。女でしょ?」
その対応にはピエールも不快感を隠せず、むっとした表情で顔をしかめた。
一方のアーサーは、一瞬敏感に反応したものの表情一つ変えないままだ。
「二人とも紹介するよ。僕の仲間で、男性の方がテッド。女性の方がローザ。テッドは槍の扱いが上手で、ローザは魔法使いだよ」
明るい表情と声色で紹介を行ったアルフレドとは裏腹に、当の本人たちの表情は冷たい。
姉妹二人を睨める視線にローザも加わり、獣とお嬢崩れがじっとりと二人を見比べた。
「格好だけそれっぽいただの小娘って感じね。役に立ちそうには見えないけど」
「同感だな。しかしゴリラみたいな女かと思ったら結構見れる顔じゃねえか」
ローザが見下した態度を隠そうともせず言い放ち、テッドがにやつきながらそれに同意した。
ピエールは若干の不機嫌さを残しつつも曖昧に苦笑いをするに留め、アーサーは先ほどまでの態度とは一転してどうでもよさそうな顔をして受け流した。
返事一つ返すことなく、一人無言で食事を始める。
「それで? あんたたちも城に同行したい訳? 言っとくけど役立たずなんて連れてくつもり無いわよ」
「い」
「そこの勘違い男が一人で勝手に盛り上がってるだけで貴方たちのような人間と行動を共にする気など更っ々ありません」
ピエールやアルフレドが半分口を開きかけた所で、アーサーが間髪入れず即答した。
二人は、割り込まれたことで喋るタイミングを逃してしまう。
「そもそもこの男朝から私たちのことを付け回していて非常に不愉快なんですが。早く回収してどこか別の席へ消えてくれませんか? 何我が物顔で食事注文してるんですか。お呼びじゃないんですよ」
ピエールが慌てて窘めようとするものの、時既に遅し。
険悪な雰囲気が、アーサー、ローザ、テッドの間に漂う。
「何だ? 随分偉そうだなこの女」
テッドがわざと音を立てて立ち上がり、アーサーの横まで来ると屈み込んで彼女の顔を至近距離でのぞき込んだ。
獣のような雰囲気の男が目を剥き牙を剥き威嚇の表情をとり、それを横目で覗いたハンナが小さく悲鳴を上げる。
しかしアーサーは、全く意に介さず食事を続けている。
暫くその姿勢が続いてから、彼女は鬱陶しげに食事を中断すると薄目でテッドに視線を向けた。
心底馬鹿にするような表情で、口の端を釣り上げ小さく笑う。
「汚い歯。それに息も臭い」
その瞬間。テッドが右手を振り上げた。
拳の目標は、アーサーの頬だ。
だが顔面めがけて繰り出された拳は、直前で彼女が突き出した右手のスプーンにまるで突き刺すような形で受け止められる。
握った右手の中指にスプーンの先端が食い込み、うめき声と共に小さく怯むテッド。
その隙に、アーサーは即座にスプーンを握った右手をテーブルの下から振り上げた。
鮮やかさすら感じるほどの正確さで顎に拳が直撃し、男はうめき声一つ上げることなく膝から崩れ落ちる。
獣を沈黙させたアーサーは、止まることなく向かいの席へと視線を投げた。そこには、目を閉じて呪文の詠唱を行うローザの姿。
「ル……つっ」
その詠唱を、顔めがけてスプーンを投擲してアーサーは妨害した。
目蓋にスプーンが直撃し、集中力を散らされたローザが目を開く。
視界に写ったのは、すぐ目の前で拳を振り上げる憤怒の形相のアーサー。
スプーンを投げた時点では大きく数歩分空いていた距離が、今はもう手を伸ばせば簡単に届く範囲だ。
へたり込んだローザの顔面に迫る、アーサーの堅く握った拳。
それが、彼女の鼻先へと命中する寸前。
ピエールによってアーサーは羽交い締めにされて押さえ込まれた。
「ステイ! アーサーステイ!」
堅く固定されながらも怒りを全開にして、もがき叫ぶアーサー。
普段の落ち着いた態度とはまるで違う、恨みの籠もった怒りだ。
「放してください! こいつらが私たちの名前を聞いた時に鼻で笑ってたのは姉さんだって不愉快に思っていた筈です! こういうのを私は許せないんですよ! 鼻っ面叩き潰してやる!」
「確かにいらっとしたけど! したけどそれはやり過ぎだって!」
目を見開き、怒りに染まった顔で睨みつけているアーサー。
その顔にローザは恐れおののいて後ずさりし、間にアルフレドが無言で割り込んだ。彼の右手は、左腰にある剣の柄にかかっている。
「……確かに、二人が君達の名前を侮辱するような態度だったのは問題だった。だけどそこまで怒るほどのことかな」
アルフレドの声は静かながら力強く、アーサーを非難する口調だ。
アーサーは未だ興奮冷めやらぬ様子で息を荒げていたが、それでも落ち着きを取り戻してアルフレドを睨み返す。
「名前は私たちの誇りです。それを馬鹿にされて怒らない方がおかしい。もしもっとはっきり馬鹿にされていれば、即座に飛びかかってますよ。そうならなかっただけマシだと思ってください。……それに」
そこで一区切りつけると、アーサーは後ろのピエールへと視線を向けた。
ピエールが頷いて拘束を解き、アーサーは倒れた椅子を起こして座り直す。
「相手の力量も分からずに偉そうにするだけの奴らの、どこに遠慮する必要があるのか。仮にも冒険者を名乗るなら人の強さくらいしっかり見極めてください。私ですら一目見ただけで分かりましたよ。……あなたたち三人の中でまともなのはあなただけで、そこの二人はちんぴら上がりの虎の威を借る狐以下ってことに」
完全に図星だったのか、アーサーの指摘にアルフレドは何も言葉を返さない。ただ歯噛みして、視線を逸らした。
「自覚があるなら何とかすればいいものを。さ、早く消えてください」
「……君たちに声をかけたのは、失敗だったよ」
「私からすれば、あなたに目を付けられたこと自体が失敗でした」
捨て台詞を残し、アルフレドは気絶したテッドを抱えて店を後にした。
不安げな表情で、それに続くハンナ。何とか立ち上がったローザは恨みがましい眼でアーサーを睨んでから、三人の後を追った。
騒動にけりはついたものの、店内の何人かの客からは未だに注目の眼差しを受けている。
ピエールは周囲を見渡して若干居心地悪そうにしてたが、アーサーは気にせずローザにぶつけたスプーンを拾い上げ、店員に交換を依頼した。
それきり普段通りの澄まし顔で、クラッカーを手でつまんで食事を再開する。
呆れ混じりの表情で、妹を睨むピエール。
「手が早過ぎ」
「先に手を出したのは向こうですよ。それに店の中で呪文まで詠唱してましたし。非常識です」
非常識はどっちだ。ピエールは心の中で小さくぼやいた。
「わざと怒らせるよう仕向けた癖に」
「姉さんだって止めなかったじゃないですか。不愉快だったのは姉さんも同じでしょう?」
「したよ、口では止められなかったけど表情と手振りで止めろって叫んでたよ」
「してたんですか。あいつらを睨むのに夢中で見えてませんでした」
「……ああ言えばこう言う」
心の底から大きなため息を一つついて、説教を断念するピエール。倒れた椅子を元に戻してから、自らも食事に手を付け始めた。
: :
町に来てから五日目の朝。
二人は、降りしきる雨の音で目を覚ました。
「……はああ」
朝一番から、アーサーの大きなため息が部屋内に響く。
彼女が開いた窓の外は、バケツをひっくり返したかのような大雨だ。
雨が吹き込んで来るのを避ける為、アーサーはほんのわずかだけ開いた状態でつっかえ棒で窓を固定した。
「雨だねえー」
普段から間延びした口調のピエールの語尾は、寝起きなことも相俟って更に長い。
「そうですね……」
アーサーはベッドの上にすとんと腰を降ろし、そのまま仰向けに寝転んだ。
「姉さんは今日は待機ですね。道具の整備と点検でもしててください」
「まあこんな雨じゃねー。アーサーは?」
ピエールが問いかけると、アーサーは子供が駄々をこねるような仕草でベッドの上に丸まる。
「治療院です。あそこならこんな日でも仕事があるでしょうから」
「そっか」
「姉さんも一緒に来ます?」
「いい」
迷うことなく即答するピエール。奇妙な間を開けて、アーサーは再び姉を誘った。
「一緒に行きましょうよ」
「いい」
「見てるだけでいいですから」
「だから、いい。アーサーの地味ーな呪文を地味ーに使う所を見てるだけとかつまんない」
「……そうですか」
不満と未練をありありと浮かべて呟き、アーサーは勢いをつけて起きあがった。
「では姉さんもいつも通りで。分かってますね?」
「分かってる。あっ、ちょっと、分かってるからいいってばー」
「一人の時は絶対に危ない所に行かない、危ないことをしない、安請け合いで人の頼みを聞かない、約束をしない、変な物や高価な物を買わない。いいですね?」
「分かってるって言ったのに」
「確認ですよ。では水を汲んで来ます」
いつも通りの返事を聞いてから、アーサーは部屋を出て行った。
: :
テーブルの前で、じっと黙ったままのピエール。彼女の分の朝食は既に片づき、アーサーの食事の音だけがロビーに響いている。
ピエールは横目で、自身の隣にいる少女を盗み見た。
長い前髪、いつもの作業服、使い古したエプロン。その顔は俯いていて、前髪の長さと合わさり表情は伺えない。
「ねえニナ、何かあったの?」
ピエールが口を開いた瞬間、ニナは飛び上がるように立ち上がって声の主へ振り向いた。
その過剰反応は、まるで彼女たちが出会った初日の時のようだ。
「あっ……ピエールさん。大丈夫ですよ私は何ともないですちょっと考えごとをしてたので」
言うやいなや、ニナはピエールの食器を手にとって小走りで奥へ駆けて行った。
ピエールは、それを目線だけで見送る。
「どう見てもいつもと違うよね」
「どうでもいいです」
一方のアーサーは、今日も平常運転のようだ。
: :
朝食を終え、アーサーを見送った後。
ピエールは部屋のベッドの上に足を抱えて座り、ニナが箒と塵取りで部屋の掃除をしているのを眺めている。
箒を擦る音と、靴底が床を踏む音だけが一定のリズムで宿の一室に響く。ニナの箒の振るい方は能率的で手慣れており、あっという間に一カ所へ塵が集まっていく。
だが、その手つきとは裏腹にニナは上の空だ。淀んだ瞳のまま、作業だけが手際よく進んでいた。
「ニナー」
自身を呼ぶ声に一瞬だけ身体を強ばらせたものの、すぐに平静を取り戻したニナ。
「どうしました?」
「やっぱり今日のニナなんか変じゃない? 何かあったの?」
「べ、別に何もありませんよ?」
「いや、見てたら明らかにおかしいからね」
苦虫を噛み潰した顔をして、ニナは顔を逸らした。
少しの間を置いて、震える小さな声で喋り始める。
「……友達が今朝、町を出て、レールエンズへと向かったんです。何でも、一緒に行ってくれる人を見つけた、とかで。わつぁ、私は、危ないよって言ったんですけど、大丈夫だから心配しないで……って殆ど聞く耳、持ってくれなくて」
真剣な顔で下を向いたままのニナには、ピエールの表情は見えない。
「彼女は、ずっとレールエンズと、エルナお婆ちゃんのことを気にかけていて、何とかしてあげたいって、いつも言ってました。あの国の人たちは今も亡くなった時のまま野晒しになってる、かもしれない。獣に、身体をばらばらにされてるかもしれない。だから、皆のお墓を立てて、亡骸を葬ってあげたい。いつかそうしたい、って言ってたんです」
「……そ、そうなんだ」
「ピエールさんも、彼女のことは知ってると思います」
「えっ、な、なんで? どこで?」
「最初の日の昼間、エルナお婆ちゃんのお店で、時計が鳴くのを一緒に見ていました。彼女もあの時計が好きで、毎日、欠かさず見ているんです」
「あ、そ、そっか、そっちか」
「彼女のことを想うと、私……心配で、心配で……」
下を向いたまま、ニナは箒を持つ手を強く握り締めた。小さな両手が、小刻みに震える。
「大丈夫だよニナ、他の人とも一緒に行ったんでしょ? それに呪文だって使えるみたいだし、ハンナちゃんもその内ひょっこり帰ってくるよ」
ピエールがそう言って微笑むと、ニナもわずかながら強ばった身体の力を抜いた。
そうして笑い返したが、すぐに訝しげな表情へ変わる。
「私、ハンナちゃんの名前と、呪文が使えるってこと、ピエールさんに話しましたっけ?」
「えっ、あ、いや、えーと、そう、雑貨店でそういう話してた人がいたなあって思い出したから!」
しどろもどろないかにも怪しい言い訳だったが、特に疑うことなくニナはそれを信じたようだった。気を取り直して、手にした箒を小さく掲げる。
「変なこと聞かせてしまってごめんなさい、ピエールさん。でも、こうやって話したら少しすっきりしました。ありがとうございます」
そう言うと、ニナは微笑んで掃除を再開した。
ピエールはそれを、気まずい表情で見守る。
: :
夕方。アーサーが鳩麦堂で買って帰ってきた夕食も済ませ、二人はベッドの上で思い思いにくつろいでいる。
降り続く雨は昼から風を伴い、閉じられた窓に雫が叩きつけられていた。
「……あのさ」
こねられる小麦粉の生地のようにベッドの上でのたくっていたピエールが、動きを止めて呟いた。
「どうしました?」
仰向けになっていたアーサーが、頭だけ起こして応える。
「今日のニナのことなんだけど……」
ピエールは、午前中にニナと話していた内容をアーサーに話した。
「という訳で、一昨日の晩あの、なんか、あれと一緒にいた子ってニナの友達だったんだって」
ピエールはその発言で、妹が何らかの反応を示すことを期待していた。
しかし、彼女の表情はいつものように一片のぶれもない。
「知ってましたよ」
「えっ、うそ、なんで?」
「雑貨店で顔を合わせたことがあるって姉さんもさっき言ってたじゃないですか。それにあの女姉さんが空気読まずレールエンズの話やら何やら聞いてた時、いかにも不愉快そうに姉さんのこと睨んでいましたからね。記憶に残っていたので一目で気づきました」
「あ、そ、そう」
小さな声で呟いたのも束の間、ピエールは勢いよくベッドがら起きあがった。
「いやいや、それなら何であの時何も言わなかったのさ。今日のニナは心配ですっかり落ち込んじゃってて、とても見てられなかったよ」
「言うって、何を言うんですか」
アーサーの返事はあっさりとしたものだったが、それだけでピエールは勢いを削がれて口ごもってしまった。
ぼそぼそと、絞り出すようにしてピエールは反論する。
「何って……ほら、危ないから止めとけとか、ちゃんと周りの人と相談しろとか、それから」
「私たちがそんなこと言って何の意味があるんです? 姉さんの話を聞く限りでは昨日ニナとも話して、それでも意思を曲げなかったんでしょう? 誰が言ったって無駄ですよ。大体私たちに何の関係もないただの他人じゃないですか。そんな人間気にかけたって何の得にもなりません」
「得とかどうとかじゃないじゃん、えーっと……なんだっけ、袖震えるもなんとか……」
「袖振り合うも多生の縁、ですか? それ微妙に意味違いますよ?」
「あーっ、もういいじゃん細かいことは! とにかく、知り合いの知り合いならもうちょっと何かしてあげてもよかったんじゃないのっていうこと!」
「何かと言われても困りますよ。得云々を抜きにしたって私たちは所詮部外者で、この町の人間のレールエンズに対する感情も、あのハンナとかいう女がどれだけ真剣だったのかも計りようが無いんですから」
「むうう……それはそうだけどさ……」
理屈でやり込められて反論こそ出せないものの、未だに納得した顔を見せないピエール。
その顔を見て、アーサーの顔が少しだけ緩む。
「姉さんの感情は察せなくもないですが、そこまで気負う必要も無いと思いますよ。それに、姉さんが言った通り数日すれば普通に帰ってくるかもしれないじゃないですか。誰も帰って来ていないとは言ってましたが、その危険が今も続いているとは限りませんし」
アーサーに優しい声で諭され、ピエールの感情もわずかながら収まりを見せた。無言で、小さく息を吐く。
「さ、今日はもう寝ましょう。何だかんだで結構呪文を使ったから私は疲れちゃいました」
「私は別に疲れてない。今日は暇だったし」
そう言って、ピエールは拗ねたように唇を尖らせる。
「じゃあ明日は晴れるよう祈っててください。私としてもこのまま雨続きだと収入激減でピンチです」
「そうだね」
「ええそうですとも。ではおやすみなさい姉さん」
「おやすみアーサー」