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姉妹冒険者物語  作者: 並野
王国の竜
6/181

労働者-01

 かたん。

 自分のすぐ近くで何か木のぶつかるような音を聞いて、ピエールは閉じていた目を見開いた。

 自身のすぐ右、それから左を見て、音の原因はアーサーが窓を開けた時の音だと気付く。

 状況を理解し、ぱっちり開いていた目が胡乱な半開きへと変わった。

 アーサーはいきなり目だけを見開いた自らの姉に少しだけ驚いたものの、笑顔で笑いかける。


「すみません、起こしてしまいましたね。もう少し寝てても大丈夫ですよ」

「んあー……」


アーサーの格好は昨晩寝る前と変わりなく、くすんだ金髪も今は寝癖で乱れている。彼女も起きたばかりのようだ。

 ピエールが起き上がり寝ぼけ眼で周囲を見渡している間に、アーサーは部屋の窓を開けていく。

 今は二人のベッドの間、三枚ある窓の内の中央。それからピエールのベッドの左側、彼女から見て右方向にある一枚。

 三枚全ての窓を開け放つと、外からわずかな明かりが入ってきた。時刻はまだ早朝のようで、夜が明け切っていない。外は薄暗く、そして静かだ。


「トイレ」


ぶっきらぼうに呟くと、ピエールはベッドの足元に脱ぎ捨ててあった踝丈のブーツをつま先で突っかけて立ち上がった。


「アーサー、この宿のトイレどこにあるか知ってるー?」


まだ意識が覚醒し切っていない、ぼんやりした状態のピエール。間延びした覇気の無い口調でアーサーに問うと、彼女は無言で部屋の隅を指差した。

 そこにあるのは、蓋付きの壺。

 ピエールは半開きの虚ろな視線でそれを五秒間凝視し、それから目を見開いてアーサーを見返した。


「えっ」


当惑で目を見開いているピエールへと、アーサーは小さく、しかし真剣な表情で頷く。


「……え、まじで?」

「まじです」


図らずも、ピエールは完全に目を覚ます結果となった。


   :   :


「油断してたよ……鳩麦堂は一応それっぽい物が外にあったし」

「あそこは酒場ですからね。こことは違いますよ」


自らのベッドに腰掛けているアーサーと、その前で床に直接座り込むピエール。

 アーサーは目の前にいる姉の髪を、木製の櫛で梳いている。その手つきは丁寧で手慣れており、慈しむように一梳き一梳き手間と時間をかけて進められていく。

 ピエールも、気持ちよさそうな顔でされるがままだ。


「目が覚めたらお腹減ってきた。朝食はまだなのかな」

「髪を整えたらもう一度水を汲みに行ってきますから、その時に聞いてみますね」

「お願いねー……」


中空をぼんやりと眺めたまま目を細め、ピエールは髪を梳かれる感覚に没頭する。

 アーサーは、そんな自らの姉の後頭部を満足そうに眺めながら、ゆっくりと櫛を滑らせていった。


   :   :


 ピエールが目覚めてからおよそ一時間後。二人は、すっかり身支度を整えた状態で宿の一階へと降りて来た。

 一階のテーブル席には客と思わしき痩せた男が一人。二人に一瞥もかけることなく朝食を続けている。


「朝食の準備は出来てるぞ」


カウンターの向こう、いつもの定位置で頬杖を突いているアーノルが、気だるげに声をかけた。

 ピエールは笑顔で手を挙げて挨拶し、アーサーは目線で会釈をするに留まる。

 二人が席に着いたのを確認してから、アーノルは自身の後ろ、奥の部屋へと呼びかけた。

 すると、少しの間を置いてからニナがやって来た。昨日と全く同じ、茶色いロングドレスと白いエプロンの使用人姿だ。


「お、おはようございます、ピエールさん、ア、アーサーさん」


相変わらず口調はたどたどしいものの、ニナは一言一言ゆっくりと挨拶を行った。

 それに対し、先ほどアーノルに行ったものとほぼ同じような対応をとる二人。


 挨拶を終えると、ニナはすぐに奥の部屋へと引っ込んでいく。

 三分ほど経ってから、薄いトレイに食事の器を乗せて戻ってきた。テーブルの上に、二人分の朝食が並ぶ。

 器とコップ、それとスプーンがそれぞれ一つ。どれも暗い色の木彫りで、器は平たく横に広い。

 器の中身は、薄灰色の粥だ。小さな角切りにされた白い根菜のような野菜と、緑の菜っ葉が混ぜられている。


「べ、紅麦粥、です。蕪と、蕪の葉が、は、入ってます。……た、食べ終わったら、また呼んでください」


そう言い残し足早に去っていこうとするニナを、アーノルが低い声で呼び止めた。恐る恐る振り向いたニナは父親との暫しの問答の末、おずおずと二人と同じテーブルの席に着く。

 トレイを、胸に抱えたまま。


 アーサーは食事を運んできた後のニナにはまるで興味が無いようで、彼女が隣の席に座る際も一切視線を寄越そうとしない。完全に眼中に無い状態で、粥を口に運んでいる。

 ピエールも一度ニナへと笑いかけた後、無言で食事を始めた。

 ニナのトレイを抱える手の力が、きつくなる。表情に浮かぶのは、困惑と逡巡。


 直前に引き止められたニナがアーノルに言われた内容は、人見知り改善の一環として二人との会話、具体的には『食事の味を聞いてみろ』だ。

 しかしピエールは食事中には喋らない。よってアーサーに尋ねるしかない。

 昨日一日で多少改善されたとはいえ、ニナのアーサーに対する苦手意識は未だ健在だ。

 更に、この朝食はニナが一から作ったもの。尋ねて辛辣な感想を返されるのが、たまらなく怖い。

 ピエールが食べ終わるのを待ってから、そっちに尋ねようか。

 ニナがそう思いついたのも束の間、アーサーが先に口を開いた。


「何か言いたそうな顔ですね」


ニナには一切の視線を向けないまま、まるで独り言のようにぼそりと呟いた。

 声こそあげなかったものの、ニナの身体がこわばる。


「え、その、あ、あの」


トレイを一層力強く抱きしめ、視線を左右へとさ迷わせるニナ。

 少しの間そうしてもじもじしていたものの、やがて動きを止めて大きく深呼吸をし始めた。

 一方のアーサーは、問いかけておきながらニナに目もくれず食事を続けている。ピエールが、興味深そうに二人のやり取りを見ていた。


「あ、あの、お、お食事の味は、いか、い、いかがで」

「普通」


意を決して搾り出したニナの言葉を、アーサーは間髪入れず、半ば発言に被せるように一言で切り捨てた。

 その対応に、ピエールもアーノルも呆れと非難の混ざった表情を浮かべる。


「そ、そうです、か」


しかし当のニナは、意外にもほっとしたような、安堵の表情だ。

 逆にアーサーの方が、ニナの反応に釈然としていない。


「……随分平然としていますね。もう少し堪えるかと思いましたが」


アーサーの返事は、どう聞いても嫌味にしか聞こえない。それでもニナは、弱々しくも小さく微笑み返した。


「も、もっと、きつい言葉で責められるかと、お、思ってました、から。昨日の、ことから、か、考えれば、普通は、むしろ、褒め言葉に、聞こえます」


本人には全くそんな意図は無かっただけに、これにはアーサーの方が困ってしまった。

 そうですかと小声で言い返したきり、ニナから顔を逸らして黙々と食事を再開した。ニナは、控えめながら微笑んでアーサーを見つめている。

 姉と父が、愉快そうなにやにや笑いでその様子を眺めていた。


   :   :


 食事を終えた三人は、昨日と同様宿屋の前に立っている。

 早朝の空気は乾燥していて、どこか心地の良い冷たさだ。

 ピエールがぼんやりと見上げた空の景色は、雲と青空が半々。雲の間から、太陽が半身を曝していた。


「そ、それで、今日はどこに、案内しましょう。昨日でだ、大体のお店は、案内しました、けど」

「今日からは日銭を稼がなくてはならないので、短期労働の斡旋所のような施設があればそこへ案内してください」

「冒険者組合があるならそっちがいいな」


ニナは二人の顔をまじまじと見比べてから、申し訳なさそうに切り出した。


「ぼ、冒険者、くみ、あい? というのは聞いたことありません、が、働く先、を、案内してる場所は、あります。中央広場の近くに、ある、役場で、してます」

「ではそこへ」


ニナが小さく頷いて歩き出し、二人は後へ続く。

 早朝だからか、人通りはまばらだ。しかし仕事の速い商売人たちは、既に露店の準備を始めている。

 ピエールがそれを楽しげな顔で見つめ、アーサーは余所見をしながらふらふら歩いている姉を心配半分笑微笑み半分で見守っている。


「しかしここ組合無いんだねー」

「こんないかにも平和そうな町にあっても無駄ですしね」


軽い口調で会話を交わしている二人に、先頭のニナがやはり躊躇いがちに、小さな声で割り込んだ。


「あ、あのう」

「うん? どしたの?」

「……冒険者組合って、何ですか? 私、初耳です」


ニナの疑問に対し、ピエールは笑顔でアーサーへと回答を振った。

 いつもの展開に、アーサーもいつものようにため息を一つ。


「……他のもっと物騒な町では魔物の討伐だの盗賊の殲滅だのといった物騒な依頼を管理して、ならずもの同然の冒険者に仲介する組織があるんですよ。それが組合。この辺は平和だから縁が無いようですが、町によっては連日先ほど言ったような物騒な依頼が舞い込んで来て、それをこなすことで冒険者の多くは生計を立てています」


うんざり顔で説明を終えるアーサー。

 ニナは前を向いたままなので表情は二人には分からないが、感心したような声音で息を吐いた。


「そ、そういう所が、あるんですねえ。少し、面白い、です。……つ、着きました」


中央広場から少しだけ東へ進んだ、住民の居住区に食い込んだ場所にその建物はあった。

 二階建てで横に広く、道から向かって中央に大きな玄関がある所などは鳩麦堂に似た外観だ。玄関の扉は開け放たれ、外からでも中の賑わいがよく見える。

 到着するとニナはそろそろと二人の後ろへと移動し、道を歩いていた時とは前後が逆の並びで三人は中へと入った。


 中は大よそ待合所のような形になっており、沢山の小さな椅子と机、それに中央に大きなカウンターが備え付けられている。

 カウンターの向こうには職員が五人、その内三人が応対中で、二人は手持ち無沙汰だ。


「割と早く来たと思ったんだけど、結構人いるねー」

「ええ、明日からはもう少し早くてもいいかもしれません」

「そだね」


ピエールの言葉は投げやりで、その気があるとはあまり思えない。

 入ってすぐ、特に相手を選ぶことなく空いている職員の内の一人の前まで二人は歩み寄った。

 ニナも後ろに付いて来ているが、武具屋の時同様落ち着かない表情でそわそわしている。


 応対した職員は二十歳前後の女性。

 この辺りの人にしては珍しく、髪の色が黒い。耳を隠す程度の乱れた寝癖混じりの髪と、半眼の眠そうな表情がどうにも陰気な印象だ。声色も、女性にしてはやや低い。


「若い女の、しかも他所から来た人がこんな朝早くに来るなんて珍しいね。おはよう、何の用かな」

「ここで仕事を斡旋して貰えると聞きましたが」

「仕事の人かい。何か希望はあるかな」

「参考までに、一通り教えて貰えませんか」

「一通り? ……まあいいか。今は混んでないし」


やはり眠いのか、職員のテンションはどうにも低い。

 のんびりとした口調で、つらつらと現在募集している仕事内容を挙げていく。


 例えば。

 畜舎の掃除。日給二十五ゴールド。

 林檎の収穫、手入れ手伝い。日給十五、町民限定。

 ティカネ畑の害虫駆除。日給三十、町民限定。

 山脈からの鉱石運搬。日給七十、町民限定。昼食有、金属ワームによる襲撃の危険あり。

 製鉄所での金属精製。日給百五十、要炎系呪文技術。昼食有、能力次第で報酬増加。

 ティカネ砂糖の精製。日給二百、要炎氷風いずれかの呪文技術。町民限定、昼食有。


 その他、総計して三十種近い募集内容全てを、職員は気怠げな雰囲気とは裏腹に報酬や条件の一つ一つまで一切詰まることなく説明し終えた。

 仕事の内容は大まかに畑や家畜の手入れ、町の整備、呪文が必要な技術労働と三種類に分かれている。

 作物の収穫や鉱石の運搬など町の生産物に関わる仕事は、呪文技術が必要な一部を除きほぼ全てが町民限定の募集となっていた。全体から見た割合は、町民限定が四割前後。


「何か町の人だけの仕事が多いね」

「素性の分からない人間に町の生産物を触らせる訳にはいかないからでしょう。……しかし、畜舎の掃除や収穫の手伝いが募集されているのは少し意外ですね。この町の農家はこの程度の手伝いに人を雇える程裕福なのですか?」


職員は、横を向いて大きく欠伸を一つ。それから涙の滲んだ目でこちらに向き直った。


「その手の話は他所から来た人がよく聞いてくるね。ここで募集している仕事は全部個人ではなく町が出してる仕事だよ。町の仕組み自体がそうなのさ」

「……少し、詳しく聞いてもいいですか」


職員の返答に敏感に反応したアーサーが、真剣な顔で説明を求めた。

 ピエールはそれを見て多少うんざりした顔で、後ろにいるニナへと振り返る。


「また出たよ、アーサーの悪い癖。こういう町のせーじけーたいとか、うんえーシステムとか、そういう話になると長くなるんだよね……」

「そ、そうなんです、か……あ、あの、ちょっと」


唇を尖らせ、若干わざとらしい不満げな顔でピエールはニナの長い前髪を弄り始めた。

 指で巻き取り、上へ持ち上げるとニナの暗い色の瞳が露わになる。


「所でさ、ニナって何でこんなに前髪長くしてるの? 邪魔になんない?」


ピエールが顔を近づけ、その丸くつぶらな瞳を至近距離から見つめた。

 ニナの顔があっという間に真っ赤に染まり、ピエールの手を振り払って俯く。


「ひ、ひ、ひ、人と、目を合わせるのが、苦手、で、だから……」

「ああ、だからなんだ。でもニナの目ってくりくりで可愛いのに。勿体無いよ」

「う、うう……」

「ほらほら、そのまん丸お目目をもっと見せなさい」


悪戯っぽい軽さのある含み笑いで、ピエールはニナの前髪へと手を伸ばした。

 ニナが手を払おうとするも、ピエールの手はニナの制止を器用に回避しすり抜ける。

 ピエールの手がニナの前髪に辿り着き、指先でほんの軽く突付き始めた。

 すぐにニナは頭を振って払い除けるが、指は再びニナの前髪目指し防衛線の突破を試みる。

 暫くそうやって二人で遊んでいると、一通り話を終えたアーサーが満足して息を吐いた。


「……あなたも中々物知りですね。ここの人は皆そうなんですか?」

「『男は強く、女は賢くあれ』が竜神様の教えだからね」


職員が誇らしげににやりと笑った所で、すかさずピエールがアーサーの横へと並ぶ。

 後ろではニナが、くしゃくしゃに掻き乱され左右に分けられた前髪を元に戻そうと必死になっていた。


「つまんない話終わった?」

「つまらなくなんてないですよ。ですが一通りの話は聞き終えました」


アーサーがそう言うと、今度はピエールが職員の前、カウンターの上に手をついて乗り出した。


「じゃあ私も聞きたいことあるんだけど、いいかな」

「どうぞ。でもそろそろ混んで来るから手短にね」

「うん。あのさ、北の森とかレールエンズに探索に行くのって、どうなの? 禁止されてたりする?」


ざわっ。


 レールエンズに探索。

 その言葉を出した瞬間、カウンターの前の職員五人を含め部屋中の、声が聞こえる範囲の殆どの人の視線が集中した。

 全員驚きに目を見開いている。二人の前にいる職員の、眠そうだった目すら全開だ。


 視線が集中したのは一瞬だけで、すぐに他の職員は自らの担当の対応を再開した。

 目の前の職員も、すぐに先ほどまでと同じ半眼に戻っている。しかしその表情は優れない。


 ピエールは言ってはいけないことに触れてしまったのを感じ取って、内心冷や汗をかいた。

 逆にアーサーはどこ吹く風だ。


「森での採取は基本的に禁止されてない。今はモスピの実が採れる時期だし、規定のサイズ、林檎で言えば三個分位の大きさの袋一つ分採れればここで二十ゴールド前後で買い取る。他にもいくつかの薬草や、素早くて狩るのは難しいけど兎や鹿も生息してる。ただ森の浅い場所でも狼や熊が出て危ないから、君達に推奨することは出来ない。……あと、レールエンズなんてもっての他。冗談でも口にしない方がいい。……崩壊してから今までの間、あそこに行った人は誰一人として帰って来てない」


先ほどまではゆっくりでやる気の欠けた、しかし優しげな口調だったのが、今の職員の女性の口調は冷ややかで、静かな非難の意思が感じられる。

 後ろのニナもあまり穏やかな顔ではない。


「う、うん。変なこと聞いちゃってごめんね」

「分かってくれたのならいい」

「姉さんの話も済んだことですし仕事の話に戻りましょうか」


ピエールと職員、二人の間にある空気を一切気にかけることなく、平然とアーサーは割り込んだ。

 ピエールは申し訳無さそうな顔で後ろへと下がる。


「ああ。どれにするか教えてくれ。その内容に対応した木札を渡すから、それを持って仕事の始まる場所に行けばいい。あとはそこの監督官がなんとかしてくれる」

「外壁修理二人分で」


アーサーが迷いなく答えると、職員は意外そうな顔で下がっていた瞼を少しだけ持ち上げた。


「うん? 君たちは魔法使いじゃないのか?」


尋ねてから、職員は二人の格好をまじまじと眺めた。

 外套の隙間からしか見えないものの、二人の格好は一般的な魔法使いとは遠くかけ離れている。


「私は少し使えますが、姉さんは使えません」

「……呪文も使えない女の身で冒険者をしてるのか。随分と勇気があるんだな」


魔法使いではないことを知った職員の声色に、無意識の内に嘲りの雰囲気が混じった。

 それを感じ取り、アーサーの雰囲気が目に見えて変化する。次いでピエールも妹の変化に気付き、後ろから彼女の外套越しに服を握り締めた。

 いつでも制止に入れるように。


「外壁修理は重労働だ、女の細腕で勤まる仕事じゃない。呪文が使えないなら大人しく掃除婦にでもなった方がいいぞ」

「あ」


あなたは自分の仕事だけしてればいいんです余計な事言ってないで早く手続きだけして下さい。

 あらん限りの敵意を込めてそう言おうとしたアーサーを、ピエールは思い切り後ろへと引っ張った。

 不意に後ろへ引かれ姿勢を崩した所で、お姫様だっこの要領で抱え上げる。


 突然のことに驚く職員の前で、ピエールは抱えているアーサーを軽々と持ち上げた。

 手を前へ伸ばして視線の高さまで持ち上げ、ひょいと上へ放り投げては一切反動でふらつくこと無く受け止める。

 それを数度繰り返してから、抱えた体勢のままピエールは職員へと笑いかけた。


「私たちは見た目こそこんなだけど力はそれなりにあるんだ。体力もそれなりにあるし、大丈夫だよ。心配しないで」


ピエールの言葉とその笑顔を、職員は声こそ上げないものの驚いた様子で見つめていた。

 少ししてから、無表情でゆっくりと頷く。


「まあいいか。仮に仕事にならなかったとしても怒られるのは君たちで私は精々小言を言われる程度だしな。外壁修理二人分……と」


カウンターの奥から、五センチ四方ほどの木の板を二枚持ってくる職員。板の表面には、特徴的な模様と小さな文字が彫られている。


「今日の外壁修理は南西方面。中央広場から南へ真っ直ぐ進み、南門から町を出て壁に沿って少し西へ進めば監督官がいる筈だ。そうしたらその監督官に札を見せればいい。門の出入りも札を見せれば分かってくれる。……じゃ、頑張って。もし明日も来るなら今日の結果教えてね」


カウンターの上に乗せられた木板を、ピエールはアーサーを抱えたまま器用に掴んだ。

 そして職員に挨拶をして、周囲の視線を一身に受け止めながら役場を後にする。

 小声で「恥ずかしいからもう降ろして」と連呼するアーサーを完全に無視しながら。


   :   :


 役場を後にして少しだけ歩き、中央広場へと戻った三人。アーサーは少し顔を赤く染めたまま、表情だけは精一杯無表情を保って地面へと降りた。


「あの女、よくもまあ呪文が使えないだけで見下してくれたものですね」


今度会ったらどうしやろうかと未だに憤慨し続けるアーサーを尻目に、ピエールはニナへと小さな声で語りかけた。


「ねえニナ、この町でレールエンズ関係のことを話すのってさ、やっぱりまずい?」

「……え、ええ。禁句、という程では、無いですけど、皆、あまり、ふ、触れたがり、ません。人によっては、聖域、とか、呼ぶ人も、います」

「そっか。探索に出かけた人が誰も帰ってきてないっていうのは?」

「ほ、滅んで数年後に、町から、ちゅ、ちょ、調査団が出ました、けど、戻らず、です。そ、それから、旅の人が、たまに、行ってるらしいです、けど、やっぱり、戻ったって話は、聞きません」


ピエールの小声より更に小さい消え入りそうな声でニナが答えると、ピエールは納得したような顔で一人頷く。


「あ、あの、お二人は、い、行くつもり、だったんです、か?」


ニナに尋ね返され、ピエールは小さく苦笑う。


「本当はちょっとだけ行ってみたかったけど、昨日アーサーに駄目って言われちゃったから」

「わざわざ危険な橋を渡る必要はどこにもありませんからね。それに、先ほどの話を聞けば尚更行く気にも行かせる気にもなりません。順当に肉体労働に励んで、甘い物を楽しんで、それでこの町での滞在は終わりです」


気を取り直したアーサーが平然とした顔で会話に割り込み、ピエールの艶やかな額を軽く指で弾いた。


「いてっ、何すんのさ」

「さっき辱めを受けたお返しです。さあ労働に励みましょうか。……ニナ、これで貴方の役目は終わりです。後は宿に帰るなり何なり好きにしてください」

「辱めって何言ってんの……あ、ちょ、ちょっと、服引っ張んないでってば、あああ……ニ、ニナ! 昨日と今日は色々ありがとう! それじゃ働いてくるから! また何か話そうね!」


アーサーに引きずられながら広場の南へと去っていくピエール。

 ニナはそれに対しぎこちなくお辞儀を一つ。それから手を振って二人を見送った。


   :   :


 黄昏時。

 陽も半ば暮れ、町が眠りへの準備を始める時間。労働と夕食を終えた二人は宿の一室へと戻ってきていた。


 床の上で膝立ちになっているピエールの前には大桶。

 水の張られたその中で、ピエールは肌着を素手で揉みしだいて洗濯していた。傍らには、やや濁りのある白い石鹸。

 水が揺れ、肌着の汚れは次第に桶の中の水へと移っていく。

 部屋内、高い位置の壁から壁へと二本のロープが結び付けられており、アーサーのベッド側のロープにはぎっしりと、ピエール側のロープにも既にいくつかの衣類が宙吊りになって干されていた。

 アーサーは既に就寝の準備を整え、ベッドの上でくつろぎ楽しそうにピエールの様子を眺めている。


「ほらほら姉さん、早く洗濯しないと陽が暮れ切ってしまいますよ」

「わ、分かってるよっ」

「そんなに強くしたら破けちゃうじゃないですか、もっと優しく急いで」

「あーもう、そんなに文句ばっかり言うならアーサーも手伝ってよ」

「それは駄目です、自分のことはなるべく自分でって決めてるでしょう?」

「意地悪!」


むくれながらも桶の前で奮闘を続けるピエールと、それを満面の笑顔で眺めるアーサー。

 その笑顔に普段の敵意や嫌味な部分は全く無く、もっと歳若い純真な少女のような笑みだ。

 ピエールも、表情とは裏腹に本気で腹を立てている様子は感じられない。


 間に一度桶の水の汲み替えを挟み、ピエールは洗濯を終えた。

 二本のロープに、肌着や下着、タオルケットなどが二人分綺麗に並ぶ。


「やっと終わったー」


そう言って羽織っていた上着を脱ぎ捨てるピエール。

 次いで後頭部の編み込みを雑に解こうとした所で、アーサーに制止される。

 アーサーは座り込んだピエールの後ろに回りこみ、編み込みを丁寧に時間をかけて解いていった。


「終わりましたよ」


解き終わるとピエールはベッドに飛び込み、大の字で仰向けに寝転んだ。穏やかな笑顔のアーサーが、姉のベッドの縁に腰掛ける。

 彼女の手には、小さな金属板が一つ。


「姉さん、次は指を治しますから。起きてください」

「えー、面倒臭い。放っておけば治るんだしいいじゃん」

「いい訳ないでしょうに、姉さんは自分を何だと思ってるんですか。ほら起きて」


あからさまに面倒臭そうな声音で一度唸ってから、勢いを付けてピエールは起き上がった。姿勢を正し、縁に座るアーサーへ両手を差し出す。

 その指は全体的に荒れており、所々擦り傷も出来ている。

 今日の肉体労働、素手で外壁用の石のブロックを持ち運びし続けた結果だ。


「ほら、荒れてるじゃないですか。こんなの女の子の手じゃありません」

「そんなことないよ、働き者の綺麗な……」

「はいはい、じゃあやりますから」


言い掛けたピエールの言葉を上から被せて阻止し、アーサーは手にした金属板をかざした。

 その板は手のひらより小さな薄い銅製の板で、表面には精密な魔法陣が彫られている。

 呪文を行使するのに詠唱だけでは手間取る時の為の、言わば補助板だ。


 板をじっと見つめながら、アーサーは小声でもごもごと呪文を唱える。

 銅板に彫られた魔法陣に沿って光が走り、アーサーの手から白い魔力の光が迸った。

 光は、ピエールの指先へと注がれていく。


「あっ、痒っ、痒い」


光に覆われ、じわじわと治癒し始める指先。

 赤みがかった擦り傷、剥けかけの皮、傷だらけの爪。

 それらが背筋をくすぐるような痛痒を発しつつ治り始め、ピエールは痒みに悶えながらも手だけは動かさないよう堪えていた。


「終わりましたよ」


銅板から光が消え、やり遂げた顔のアーサーが手を引っ込めた。

 彼女の言葉と同時にピエールも脱力し、再びベッドに仰向けに倒れる。

 その両手からは傷が無くなり、さながら手仕事などしたことがないようななめらかで艶やかな少女らしい手だ。


「……すべすべ。さっきのがさがさがどこにもない」


仰向けのまま、ピエールはまじまじと自身の両手を眺め、さする。


「相変わらず便利……だけど不気味」

「それは姉さんが使う側じゃないからですよ。自分で使うと思ったほど大したものじゃない、と思えますよ」

「そんなもんかな」

「そんなもんです。それに、不気味だろうともし無かったら私たちなんて今頃手足の一、二本無いどころか、命が無くなっててもおかしくありませんからね。それを思えば感謝しないと」

「それを言われるとぐうの音も出ない」

「でしょう? さ、そろそろ窓を閉めますよ」


腰掛けていたベッドの縁から立ち上がり、銅板を仕舞ってから木窓を一つ一つ閉じていくアーサー。

 全て閉じると極わずかに残っていた陽の光も完全に途絶え、部屋は目の前の物すら見えない暗闇に塗り潰された。

 アーサーは慎重に自身のベッドの前まで歩み寄り、その上に身体を預けた。ベッドが軋む、ぎしりという音が一際大きく闇の中に響く。

 二人のため息が、同時に細く長く吐き出された。


「今日はまあまあ働いたね」

「そうですね」

「私たちすごい浮いてたよねー、周りは筋肉もりもりのおっちゃんばっかりだったし」

「もう慣れっこですけどね。大抵どこに居ても私達は浮いてます」

「ま、浮いてたのも最初だけだしいいよ。……所で今日の稼ぎだけどさ」

「行きませんよ」

「えっ、いやちょっといくら何でもそれはない」


話を変えるピエールの一言を、またもやアーサーはろくに聞こうともせず即座に否定した。

 その対応に、流石にピエールも声を荒げて抗議する。しかしアーサーの声色には全く影響が見られないままだ。


「……そうですね、少し早とちりし過ぎました。今日の稼ぎですが……二人で一日百ゴールド、十九日間毎日働いたとして千九百。これからの食費や出発する時に揃える食料のことを考えるとやはりぎりぎりプラスか収支ゼロという所です。中々上出来ですよ」


アーサーがそれを告げると、ピエールは暗闇の中でうんうんと声に出して頷いた。若干楽しそうだ。


「普通に働いてそれじゃしょうがないよねー。いやーでも惜しいなー。もうちょっと頑張れば余裕持ってプラスに出来そうなんだけどなー。冒険者なら身体張ればもうちょっと稼げそうなんだけどなー」

「やっぱりそっちに話持って行くんじゃないですか!」


今度はアーサーが呆れ気味に叫んだ。

 ピエールは全く悪びれること無く、小さな笑い声を返す。


「だってしょうがないじゃん。ずっと町で働くだけじゃつまんないし、せめて森とかさー」

「森に行ったからといって日給百を上回れるとは思えませんよ。そりゃあ襲ってくる大型の動物を返り討ちに出来ればそれなりに稼げるかもしれませんが、怪我をすればそれだけお金もかかるし治るまでの稼ぎも減ります。命の危険だって十二分にあるでしょうし」

「じゃあ山」

「山……山はちょっと……」


山の名前を出すと、アーサーは嫌がる素振りと共に珍しく言葉を濁した。

 そしてピエールも、その反応に不満げなため息を一つ。


「……姉さん。たまにはいいじゃないですか、冒険に出ない時があっても。どうせここを発てばまた嫌でも危険と隣り合わせの日々に戻るんですから」

「それはそうだけどさ……」

「もう寝ましょう。明日は今日より早く行くって話をしていたでしょう?」

「分かったよ、おやすみ」


言葉では納得していても、内心全く納得していないのはアーサーにも明らかであった。

 しかし会話はそれきり途切れ、眠りの時が訪れる。

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