13
時は既に夕方。雨雲覆う空は暗く、薄闇の中では雨音は一層大きく聞こえる。
そんな雨音に紛れ、家の裏口の扉を叩く重い音。
食堂の椅子にそわそわしながら座っていたカイが飛び上がり、慌てて扉を開けた。
「アーサーさんっ!」
扉を叩いた相手はアーサー。カイは期待の眼差しを込めて彼女を見返したが、服の底、髪の奥までびしょ濡れになった身体の奥の、ぎらついた血走るような目にたじろぎ続く言葉を失った。
だが直後、視界に入った少女の右腕を見て驚きに目を見開く。
蜥蜴に貫かれた掌は緩く巻かれた包帯の上から血が滲み、肘まで続く不気味な腫れも一切引いていない。
「ア、アーサーさん、その腕」
「私のことは後でいい。乙女の祝福を採ってきた、準備は」
「う、うん、擂り鉢も桶も全部出して並べてあるよ。アンティラも置いてある」
「ではすぐに」
「えっ、でもその腕」
「いいと言っているでしょう!」
突然の怒声。
俯いたまま声を荒げるアーサー。驚いて身体を竦めるカイには視線を向けず、重たい足取りで中へ滑り込んだ。
屋内に入り扉を閉めると、雨音に隠れて聞こえなかったアーサーの消耗を示す荒い呼吸音がいやに大きく響く。
「……二度同じことを言わせないでください。私の腕は後回し。一刻も早くアメリーを起こして、そして彼女に姉さんを起こして貰います。いいですね」
「わ、分かったよ、ごめんなさい……」
怯えるカイに目もくれず。
喋る手間すら惜しいとばかりに、アーサーは作業場へと向かっていった。
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まずは、採取した乙女の祝福を洗い流す。ただの水でもいいが、呪文で出した水が最適だ。
綺麗に洗った桶の前で、小さく呪文を唱えて水を産み出し、溜めていくカイ。
アーサーも、左手でびしょ濡れの鞄から乙女の祝福の束を取り出す。
横にある井戸水を溜めた桶に乙女の祝福を入れ、土を流し軽く水を切ってから呪文の水の桶へ。
洗うことくらいは片手でも出来るとはいえ、やはり片手だけでは作業は遅い。
結局アーサーが洗ったのは二本だけで、残りの五本は水を出し終え後から作業に加わったカイが洗うことになった。
「後は細かく擂って、水を飛ばして粉末にしたらいいんだよね。乙女の祝福ってどこまで使える?」
「基本は地上部、葉と花。茎と根は不要、それから今回は保存したり薬として精製する訳ではないので、完全な粉状にしたり水分を飛ばす必要はありません。むしろそのまま飲ませる都合上、擂り終えたら少し水を足した方がいいかもしれません」
「分かった。……アーサーさん、後は任せて。朝出て行ってから帰ってくるまで歩き詰めだったんでしょ? 休んでていいよ」
反論しようと口を開きかけるアーサー。
しかし右手もろくな呪文も使えない自分にはこの先手伝える作業が何も無い、ということが分かっていた為、俯いて躊躇いがちに了承の言葉を呟いた。
「……分かりました。申し訳ありませんが、後はお願いします」
「大丈夫だよ。僕だって三色薬草の薬くらいなら一人で作れるようになったんだから」
カイに気の利いた返事を行う余裕も無く、アーサーは作業部屋の隅に荒々しく腰を降ろした。
左手で膝を抱え、右手を床に垂らすアーサー。
彼女を心配そうに一瞥してから、カイは作業に取りかかった。
洗った乙女の祝福から葉と花を取り、適宜刻んで擂り鉢へ。
目を閉じて小声で呪文を呟き、冷気の呪文で擂り鉢ごと乙女の祝福を真っ白に凍らせる。
刻まれたことで部屋を埋め尽くしそうだった乙女の香りが、凍てつき一気に薄まった。
薄く脆い硝子細工のようになった乙女の祝福を、擂りこぎで細かく擂る。
まだ少し繊維の塊が残っているが、ある程度細かくなったところでカイは擂りこぎを置いた。
粉末にして保存する場合、この後再び凍らせて、更に風の呪文も使い完全に粉砕してから水分を抜くところだ。
だが、飲ませる分にはこれで問題無いだろう。
青緑色の氷菓子のようになった乙女の祝福を呪文でほんの少し加熱して溶かし、少量の呪文の水とアンティラを加えて擂りこぎでよく混ぜる。
一連の作業を子供の身ながら慣れた手つきでこなし、一息ついて額の汗を拭ったカイ。
ようやくコップ一杯分の、わずかに光る青緑色の濃い液体が完成した。
「出来ましたか」
「出来たよ! これで七本分。アンティラの粉末も言われた通り小匙三杯入れてある」
「では行きましょう。くれぐれもこぼさないように」
「……そ、そうだね、責任重大だね」
言われて少し不安になったのか、液体の満ちた瓶を握る手を強めるカイ。
転ばないよう気をつけながら二階、アメリーの部屋へ入ると、タオルケットをかけられてアメリーとピエールが並んで床に寝かされていた。
アメリーの前に腰を降ろして、彼女の首の後ろに手を回し持ち上げるアーサー。
カイが姉の口を開き、口内に漏斗を優しく挿し入れた。
「浅い。もっと奥まで」
「え、でももう結構入ってるけど」
「アメリーに気を遣い過ぎです。喉ではなく、胃に直接落とすくらいの気持ちでしっかり押し込んでください……そう、それくらい。では少しずつ注いで」
頷いたカイが、左手で漏斗を押さえながら右手で瓶の中身をゆっくりと、アメリーの口へ注ぎ入れていく。
光を放つとろとろの生搾り青汁のような液体が、漏斗を伝ってアメリーの胃へ。
全て注ぎ終え、カイは最後まで遅々とした動きで漏斗をアメリーの口から外した。アーサーも、抱えていたアメリーを再び寝かせる。
黙して待つこと数分。
「……ぁ」
アメリーの口から小さな呟きが漏れた。
「お姉ちゃん!」
「ぁ……あ……」
カイの呼びかけに応えたのかは定かではないが、アメリーの口からぽつ、ぽつと呟きが発された。
かと思えば。
「……ぁぁぁぁぁあああああーっ!」
突如、甲高い絶叫を上げながらアメリーが飛び起きた。
いきなりの大声に驚くカイと、その横で平然としているアーサー。
「痛い! 胸熱い痛い! ばくばくする! 何これ吐きそ……うぉぇ」
「吐くな!」
ふわふわの赤毛を振り乱しながらの身悶え。
嘔吐の姿勢に移ろうとしたのを、アーサーが鋭く制止した。
「あむぅおお……おふぅ……おふぅ……」
アーサーに口を押さえられ、自由な鼻から非常に不格好でハイテンポな呼吸音を漏らすアメリー。
何をした? と視線で訴えかけると、アーサーが薄目で睨みながら説明を始めた。
「……まどろみの魔物が村まで出てきて、二手に分かれたのは覚えてますね? その後何があったのか知りませんが、あなたも姉さんも魔物に昏睡させられた。アンティラで起こそうにも薬も無ければ強い癒しの呪文が使える人もいない。なのでカイに場所を聞いて、私がまどろみに乙女の祝福を取りに行った。今、あなたの胃袋には七本分の摺り下ろし乙女の祝福と小匙三杯のアンティラ粉末が入っています。その胸の痛みと吐き気と動悸と灼熱感は全てアンティラのもの。乙女の祝福を一緒に飲んでいるので死ぬことはありません、精々頑張って耐えてください。そして一刻も早く姉さんを起こしてください」
「……」
鼻からひゅうひゅう早い呼吸音を漏らしながらアメリーが頷くと、アーサーは手を離した。
その途端床に手を突き、大口を開けて全速力で呼吸し始めるアメリー。
「アーサー、あんた……はひーっ……随分、怒ってる……ふはーっ……わね」
「……正直なところ、恥も外聞も捨てて感情のままに怒鳴り散らしたい気持ちで一杯です。あなたがついていながら姉さんまで寝かされるなんて一体何をしていたんだ、と。勿論、あなたたちに何があったのか知らない上、大した仕事をしていない私に偉そうなことを言う資格はありません。それでも、理性で感情を全て抑え込める訳ではない」
「アーサーさんの今の状態を見て、ちょっとだけ察してあげてね。雨降ってきてずぶ濡れの中あの乙女の祝福の群生地から往復して帰って来たし、右腕も酷いことになってる」
「……分かってる……わ……」
最後に数度深く大きい呼吸をしてから、アメリーは息の調子を整えた。
「……助かったわ、アーサー。それと、ごめんなさい。まどろみの大角に襲われたところまでは覚えてるんだけど、それ以降覚えてないってことは多分そこで眠らされたんだと思う。私だけは寝かされる訳にはいかない、って分かってた筈なんだけどね」
アメリーがその太い眉毛の眉尻を下げ、アーサーのはち切れそうなほど膨れ上がっている右腕に目を向けた。
「その腫れは? まどろみにはそんな強い毒の持ち主はいなかった筈だけど」
「まどろみの外から来た魔物でしょう。汎用解毒薬と癒し草の治癒薬を使ったので、症状は今の状態で安定しています。なので構わず先に姉さんを起こしてください」
「痛む?」
「多少は痛みますが、問題ありません。姉さんを起こしてください」
「そう。だったら申し訳ないけど、後回しでいいかしら。他の人を起こすのにどれだけ魔力を使うか分からないから」
「構いません、だから早く姉さんを」
「分かった、分かったから。どんだけピエール起こして欲しいのよ」
アメリーは苦笑いつつも、アーサーが突き出したアンティラの瓶を受け取った。
部屋を漁って道具を探し、空き瓶に粉末を小匙三杯。更に机の脇の棚にあった小瓶から何かの粉を少し取り、瓶に足した。
小声で数語詠唱すると瓶に水が満たされ中身がくるくる回転し、呪文の力で加水と攪拌が一瞬で済まされる。
淡い白光を放った瓶。少し振って中身の具合を確認すると、転がっていた漏斗をピエールの口に挿し入れ瓶の中身をとぽとぽ注いだ。
注ぎ終えると同時に目を閉じ長い時間かけて呪文を唱え、魔力の白光でピエールの胴をすっぽりと覆う。
光に覆われたまま数分経ったところで、光の中少女の胸が跳ねる。
ばくん、ばくんと痙攣するピエールの胴体。
それも時間の経過と共に収まりを見せ、停止すると同時にアメリーの手から光が消えた。
「……んああ」
気の抜けた欠伸。
ピエールが目を覚ました。
「何かよく寝た気分……あれ、ここどこ? 皆なんで私見てるの?」
「お姉ちゃん、大丈夫ですか? 胸が痛かったり苦しかったりしませんか?」
「いや、無いけど。というかアーサー、お姉ちゃんて。二人とも見てるよ、いいの?」
「……はああぁぁ」
どこまでも気の抜けた返事のピエール。無事である証と言えるその態度に、アーサーの全身から力が抜けていく。
肩が落ち、手が床に垂れ、ぐらりとよろめき身体を起こした姉の膝に倒れ込んだ。
「……えーっと……あ、そうか。私アルミラージに寝かされたんだった。確かあのほら、こないだお店に来て、アメリーちゃんを怒らせてアーサーにぼこぼこにされた男の人。あの人がさ、逃げる時にエラちゃんを盾にしてたんだよ。その時のエラちゃんの顔色が本当にやばそうだったから、慌てて駆け寄ってエラちゃんを庇って、それで……それでどうなった? ていうかアーサーその手大丈夫?」
「大丈夫じゃない。馬鹿。お姉ちゃんの馬鹿」
「ピエールとお姉ちゃんが眠らされたから、起こす為にアーサーさんがまどろみまで乙女の祝福取りに行ったんだよ。それでまあ色々あったみたいで」
「あー、乙女の祝福。だから妙に女の子臭いんだ。よしよしアーサーよく頑張ったね。お疲れ様」
「うるさい馬鹿、考え無し、あほ、脳味噌筋肉」
倒れ込んだ姿勢のままぶつぶつと恨み言を垂れ流すアーサー。
その頭を、ピエールは笑顔で撫でる。
「ピエール、今言った話だけど。何、リーノが来てたの?」
「え? うん、来てたよ。派手な服装した女の人と、メイドさんと一緒にいた。エラちゃんは眠りの呪文の盾にされてた」
「そう。……それはもう許されないわね」
「もう気にする必要無いと思うよ、その人。アーサーさんが殺したから」
ピエールの発言に静かに殺意を募らせたアメリーだが、カイの一言によってすぐに霧散した。
ピエールと揃って、目を丸くしてアーサーへ視線を向ける。
「え、殺したの?」
「うん。お姉ちゃんとピエールが寝かされてるのを知って物凄いショック受けて、呆然としてたところにあの男の人が話しかけてきて、呆然としたままふらふら男の人の前まで歩いていっていきなり剣抜いて右手ごとお腹ばっさり。凄く怖かった」
「……あいつ馬鹿ねえ。逃げなかったの?」
「何かアーサーさんが泣きそうな顔してたのを、魔物が怖かったからだって勘違いしてたみたい」
「仮に逃げようが同じです。絶対に追いかけて殺した」
ぼそっと呟いたアーサーに、若干引き気味の視線を向けるピエールとカイ。
「アーサーはすぐ物騒なこと言うから困る」
「その状況なら私だってきっと殺してたから同じよ。……さて」
大きく深呼吸して息の乱れが無いか確かめてから、アメリーが立ち上がった。
「じゃあ私は他の人を起こしに行ってくるわ。カイ、まどろみの魔物はもういないのよね? あと昏睡者の人数は?」
「魔物は皆まどろみに帰ったよ。それから眠ってる人は重度の人が……お姉ちゃんとピエールを除くと十一人。うち村の人は六人」
「十一……ちょっと多いわね。勿体ないけど魔法の聖水も使わないと駄目かしら。じゃあカイ、一緒に来てくれる?」
「僕は大丈夫」
「そ。じゃあ準備して行きましょ」
「じゃあ私も」
立ち上がったカイに続いてピエールも立とうとしたが、膝にいるアーサーによって制止された。
「ちょっと、アーサー」
「いっしょにいて」
「でも」
「いっしょにいて」
「……」
優しく無理矢理引き剥がそうと妹の胴に手を回しかけたが、カイとアメリーもアーサーの言葉に同調した。
「アーサーさんは怪我人なんだから一緒にいてあげなよ。その腕じゃ一人で着替えも出来ないし、放って置いたら風邪引いちゃうよ」
「そもそも治すだけなら私とカイで十分なんだから、付いて来なくても大丈夫」
二人に言い含められ、ピエールは再び床に腰を降ろす。
「それもそっか」
「そうそう。だから二人きりでそこの妹に存分に甘えられるといいわ。……あと」
部屋の隅の棚を漁り、質の良い透明な硝子の小瓶を一つ手に取ったアメリー。
中身はごく薄い黄色の、透明なさらさらした液体が入っている。
「ピエール、これ。膿虫の膿から精製した痛み止め……ちょっと、受け取りなさいよ」
膿虫と聞いて手に取るのを嫌がったピエールの手を開き、無理矢理握りこませるアメリー。
ピエールは触るのも嫌、とでも言いたげにすぐ服のポケットに落とした。
「アーサー、さっき腕の痛みを多少、って言ったけど本当は相当痛いんじゃないかしら。今ピエールに持たせたのは飲用だから、もし痛くて仕方ないなら四分の一飲むといいわ。純正膿虫薬だからよく効く筈よ」
「……わかりました」
「うえー、あの膿飲むのー……うえー」
自分が飲む訳でもないのに心底嫌そうな顔で舌を出すピエールの頭を、アメリーは無言ではたいた。
「いちいちそんな言い方するんじゃないの。さて、じゃあ行くわね」
「全員治して帰って来るのにどれくらいかかりそう?」
ピエールの問いかけに、アメリーは赤い眉を撫でてわずかに思案する。
「起こすのは十一人……村の人と話をすることも含めると一、二時間ってところかしら。今はもう夕方みたいだし、もしお腹減ったら何か食べてていいわ。氷室にはまだ一角兎が少し残ってた筈よ。……留守番よろしくね」
そうして、アメリーとカイは部屋を後にした。
後には姉妹が残される。
視線を落とし、自身の膝に顔を埋めるアーサーの後頭部を撫でるピエール。
一撫でしてから、妹の濡れた髪の雫が服を透って自身の膝まで到達し始めたことに気付いた。
「アーサー、びしょ濡れだから着替えて、それから何か食べよ」
「もう少しこのまま」
「えー、でも」
「もう少し」
「……」
少し困った顔をしたが、諦めて再び笑顔を浮かべたピエール。
そのまま暫く、妹は姉に甘え続けていた。




