12
樹林へ入ってから三時間弱。
一つの区切りに辿り着いたアーサーが、ベルトポーチに詰めた軽食を口にしながら一息付いていた。
いつもの樹林の入り口から大角に制止される境界まで直進し、制止されたら境界に沿うように右へ進む。
少し進むと変な石碑があるので、石碑を目印に真っ直ぐ南南西へ。
その先にごく小さな、落ち葉や草に隠れて見えなくなる程度の湧き水があり、そこが乙女の祝福の群生地。
境界まで来れば群生地まではすぐ、とはカイの談。
それを信じるなら、もうすぐだ。
パンを気合いを込めて噛み千切り、アーサーは再び大角を引き連れ樹林を進み始めた。
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それは程なく、十五分も歩いたところで彼女の前に現れた。
木々の合間に静かに立つ、一つの石碑。
森の中にぽつんと立つそれは薄い灰色で、大きさは人間大。おかしなことに傷も欠けも一切無く、磨き上げた直後のような艶を保っている。
かと思えば、苔や蔦が表面を這っているので本当に磨いたばかりの新品とも思えない。
恐らくこれは、ただの石ではない。
長期間野晒しにされていても傷一つ付かない強度の未知の素材か、そうでなければ何かの魔力的保護が成されている。
そう分析したアーサーが何の気なしに石碑の前へ回り込み、
表側に書かれている文字を見て即座に腰を抜かした。
「ひっ、ひ、やあっ……」
先ほど同様へたり込み、上擦った声を発しながら文字を見上げるアーサー。
涙目で、両手を縮こめ、年若い少女のようにびくつきながら周囲に視線を巡らせた。
左右、大角の足と蹄。
後ろ、大角の足と蹄。
前方、石碑と森と、そのずっと奥で並んで歩く大角が五匹。
森と石碑と大角しかない。
しかしアーサーは見えない何かに怯えるように、全身を強ばらせて暫く周囲を見回した。
数分そうしてから、落ち着きを取り戻し深呼吸を行う。
「……」
震えを残す動きで立ち上がり、再び石碑に向き合う。
石碑に記されているのは何かの文章。
その文字は現在一般的に使われているものではなく、かといってニアエルフや"南頭の森の子"と呼ばれる甲殻種族のような知恵深い他種族の文字でもない。
これは失われた古代言語の一つ。
今は各所にいくつか遺跡を残すのみとなった、人型なのかも分からない詳細不明の何かが用いた言葉。
かつて姉妹が足を踏み入れ、人智を越える恐怖と力の片鱗を味わい、都市が一つ滅び、彼女の心に強烈な恐怖を刻みつけた遺跡。
そこで使われていたものと同じ種類の文字で、それは記されていた。
また、あれが出てくるのか。
あれと同じものがここにいるのか。
かつての出来事を思い出すだけで再び抜けそうになる腰を奮い立たせ、アーサーがかつての記憶と憶測、補完で断片的ながらその文字を読み解いていく。
初めは震えながら、いつでも反転して逃げ出せるような姿勢だったアーサー。
しかし解読を進める内、身体の強張りが少しずつ抜けていった。
可能な限りの解読を終えると、盾を握ったまま両手で顔を覆い長く大きく息を吐く。
名詞を中心に彼女にも解読出来ない部分は多々あるが、それでも大まかなことは分かった。
石碑の内容は、有り体に言えばただの案内板だ。
異次元から化け物を呼び出す為の禁断の召喚術でもなければ、死ぬ間際の筆者によって記された化け物についての手記でもない。
意外な事実がいくつか判明したが、危険に繋がるようなことは何も書かれていない。
再び長い安堵のため息。
数十秒かけて息を吐き終えたアーサー。
全てが終わった後の土産話にしようと石碑の内容を頭に刻み、アーサーは再び歩き始めた。
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本当に小さな湧き水だった。
水溜まりは殆ど見当たらない。土や落ち葉が、ぐっしょり濡れているだけ。
水の流れも無く、湧き水というよりはただの雨後のぬかるみ。
気付かず迂闊に踏み抜いて、靴を泥で汚し不快になる程度の場所だ。
辿り着いたアーサーの視線の先には、わずかに淡い青を帯びた青緑色の草。
葉は大きく一本につき三枚ほど。中心には葉から更に緑味を抜いたような、薄青い朧気な雰囲気の花が一つ。天気が崩れて薄暗くなった樹林の底にぼんやりと、言われて気付く程度に光を放っている。
乙女の祝福。年若い人間の女性のような芳香が名前の由来となっている、治癒の効力を持つ高価な薬草の一つ。
効力は相応に高く、採取難度も効力の割には高くない。魔力の土を抱いた森に湿地帯があれば、数本は見つかるだろう。
とはいえ。
治癒の薬草というものは、大抵人間以外にも利用者がいる。効力が強く、数が少なければ尚更だ。
群生する乙女の祝福の量は二十本ほど。その内今回必要な量は最低四、五本。七本もあれば万全と言える。
しかし。二十本ある乙女の祝福の半分は、現在一匹の魔物に占有されていた。
見た目は大蜥蜴。野太く短い尾を除く胴体は寝転がる成人男性ほどの大きさで、棘と鱗に覆われた身体は錆色。
最大の特徴は通常より多い足で、右足が三本、左足は五本もある。右足は外敵に襲われて失ったらしく、足があった筈の場所、二カ所は塞がりかけ。それ以外にも全身に噛み傷や切り傷が点在し、身体中から赤い雫を流していた。
アーサーにも見覚えの無い多足の大蜥蜴は、乙女の祝福の真上に陣取り口元を乙女の祝福で汚しつつじっと静かに、身動き一つせず静止している。
「……」
向かって左を向く蜥蜴から五、六歩離れた位置で、同じく静止し蜥蜴の目を見つめるアーサー。
警戒されている。手負いなのだから尚更だ。
無遠慮に乙女の祝福に手を伸ばせば、間違いなく攻撃を加えてくるだろう。
アーサーの見立てでは、この魔物もそれなりに強力な存在だ。
アルミラージよりは弱い。だが一角兎よりは間違いなく強く、仮に小細工無しで真正面から切り結んだとして手傷の可能性は拭えない。その上見知らぬ魔物とあれば、何をしてくるか分からない。
それでも手負い。普段のアーサーなら持てる道具を最大限活用して排除、撃退を狙っただろう。
だが忘れてはならない。今彼女の後ろには、依然として三匹の大角が控えている。
もしも振り下ろした剣を弾かれて大角を傷つけたら。迫る蜥蜴を避けて大角が巻き添えを受けたら。
何より、大角のすぐ目の前で争いなど起こしたら。
いつ何時彼らが心変わりを起こし蜥蜴とアーサーを「念の為」寝かしつけに来るか分からない。
彼らを刺激するような行為は、厳として慎まなければならない。
アーサーは盾を強く握り、意を決して一歩踏み込んだ。
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ゆっくりと、時間をかけて一歩進むアーサー。
この蜥蜴はどんな攻撃を仕掛けてくるだろうか。
まず考えられるのは噛みつき、足の爪、尾。その類の攻撃ならば、左手の盾で十分凌げる。
ではそれ以外。特に、身体を直接ぶつけずに行う攻撃。
例えば口から何かを飛ばす。舌を伸ばす、毒液を吐く、或いはかの悪名高き"火炎舌"のように質量ある火炎弾を吐く。
しかし、アーサーはあって舌、それ以外を口から吐く可能性は低いと分析した。
痕跡が無いからだ。毒液や炎、氷塊などを吐いていれば必ず口元に痕跡が残る。顎や喉の形も、それに相応しい形になる。
だがこの蜥蜴にはそれが無い。多少の棘がある以外、頭はあくまで普通の蜥蜴だ。
ゆるゆる、ゆるゆる。
大角を、蜥蜴を刺激しないよう静かに一歩進む。
蜥蜴が身構えた。
仮に剣を伸ばしたとして、ぎりぎり届かない距離。
そこまで近付いた瞬間、蜥蜴は乙女の祝福の上に寝そべっていた胴を持ち上げ頭をアーサーへと向けた。
クシシシシッ、シシシシシシシッ!
口をわずかに開き、歯の隙間から吹き出す息のような擦れた鳴き声で威嚇音を発する蜥蜴。
アーサーの動きが停止する。
が、様子見ののち左手の盾を前面に構え、再びゆっくりと進み始めた。
クシシシッ! クシシシシュシュ!
けたたましく鳴き声を響かせつつも、四本の足で半歩後退する蜥蜴。
アーサーが、乙女の祝福の近くまで辿り着いた。彼女にとっては身を清めた直後の姉を連想させる、女性の匂いが鼻腔を刺激し始める。
視線は逸らさず蜥蜴の目を見つめたまま、息を止めて右手をゆっくりと伸ばす。
蜥蜴の鳴き声が止んだ。
ゆるゆると進む少女の白い手が、乙女の祝福を四本、掴んだ。
蜥蜴は動かない。
今のアーサーに、根を残し有用部位だけを切り取る余裕はない。静かに引き抜く。
震える手を、ゆっくりと腰の鞄へ。根に付いた土が手の震えではらはらと地面に落ちる。
摘んだ乙女の祝福を鞄に入れ、大きく一息。
吐いた瞬間噛みつかれた。
息を吐いた瞬間の不意打ち。
飛び込んできた蜥蜴の大顎が、盾の縁をぎりぎりと削り取る。盾を引っ張って姿勢を崩さんと、或いは噛み位置を変えようとする蜥蜴の試みを、腕力と盾捌きでいなしていく。
上手く盾で止めた。後はこれを維持したままもう一掴みだ。
そう考え、盾を噛ませたまま右手を伸ばすアーサー。
だが彼女を、何の前触れも無く千切れ飛んだ蜥蜴の左足一本が襲った。
自切。
蜥蜴の足が多い理由、足りない理由。
気づいた時にはもう襲い。
飛び掛かってきた左足を咄嗟に右手で受け止めたはいいが、指同士を絡めるような掴み方になってしまった所為で一本の鋭い爪が革手袋ごと掌を貫通していた。
切り離された左足は、依然として彼女の手で激しく暴れている。蜥蜴の尻尾切りと呼ぶには、あまりに攻撃的だ。
掌を爪に抉られながらも、アーサーは声一つ上げず何とか蜥蜴の足を遠く、夢見の草の無い場所へと放り投げた。
瞬間、掌に違和感。
毒だ。
気付いたアーサーの意識に遅れて、爪で貫かれた掌が穴を中心に常軌を逸した速度で腫れていく。同時に掌の感覚も、ビリビリと痺れるような熱に覆われ飲み込まれるのが分かった。
だがアーサーは揺るがない。目を見開き強く歯噛みして堪え、左手の盾を維持しながら腫れた右手を伸ばし、
乙女の祝福を三本掴んで鞄に納めた。
即座に下がる。
蜥蜴は尚も食い下がったが、乙女の祝福から離れるにつれ噛む力を緩め、最後には顎を離して元の位置へと戻っていった。
蜥蜴の姿が見えなくなる位置まで移動した瞬間、アーサーはすぐにその場に蹲り盾を地面に落とした。
顔にびっしり浮かんだ脂汗が、蹲った勢いで十数滴地面に散る。
懐に左手をねじ込みナイフと数本の薬瓶を取り出し、がくがく震える左手でパンパンに張りつめ圧迫する革手袋を切って外し、瓶の蓋を開いて中身を傷口へ注いだ。
垂れる薄緑の液体、汎用解毒薬が、傷口の奥へするすると飲み込まれ消えてゆく。
「効け……効け……効け……効け……!」
汎用解毒薬。様々な毒に効力を発揮する文字通り汎用性の高い薬。大抵の地域で作ることが出来る、治癒の薬と並んで一般的な魔法の薬だ。
だが勿論、汎用と言っても全ての毒に効果がある訳ではない。
弱気な声音で縋るように連呼するアーサー。
瓶の中身が、全て掌へと吸い込まれた。
「は……あ……っ」
依然脂汗を流しながら、アーサーが粘ついた重いため息を吐いた。
効き目が無い訳ではない。
痺れる熱も、腫れの広がりも、多少の収まりを見せた。
だが、完全ではなかった。多少収まっただけで、消えた訳でも、広がりが停止した訳でもない。今も掌の厚みはおよそ倍、手首も五割ほど腫れで太くなり、ゆっくり、ゆっくりと広がっている。
だめ押しで汎用解毒薬を更に一本追加で注ぐもあまり効果は無く、アーサーは空き瓶をポケットに戻し次に治癒の薬の蓋を開けた。
わずかな逡巡を見せたが、意を決して瓶の中身を傷口へ注ぐ。
まどろみ樹林の一画に、女性の声とは思えない悲痛なうめき声が木霊した。
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乙女の祝福を採取してから三十分。曇り空が遂に泣き始めた。
樹林の木々を叩く雨音に、地を打つ巨大な足音が混ざる。
沢山の雨音と三匹の足音に紛れて、一人の足音は最早全く聞こえない。
葉から落ちる雫を受けながら、アーサーは樹林の帰り道を進む。
だらりと垂れ下がった右腕は袖の内側、肘まで腫れ上がっている。指も倍以上腫れ何かを持つなどとても出来そうにない有様だが、幸い命や意識に別状は無く毒の効力もそこで停止したようだ。
荒い呼吸を繰り返しながらアーサーは歩く。
髪はしとどに濡れ、頬や首筋にべっとりと貼り付いている。焦燥感に追われ雨具や外套を用意せず飛び出した為、雨をもろに浴びることになっていた。
後ろでは三匹の大角も雨に濡れきめ細やかな体毛を濡らしているが、雨を気にする様子は一切見られない。
濡れた身体が冷える。
だが右腕の熱と痛みはいくら濡れても一向に冷めない。
頬を伝う雫は、雨かそれとも不安の涙か。
少女は一人濡れながら、残りの帰路を往く。




