03
「じゃあ行ってくるね、お姉ちゃん」
「ええ、気をつけてね。それから二人とも、カイのことよろしくね」
家の前に立つアメリーに、手を振って挨拶を返す二人。
陽も登り終えたある日の朝方。朝食を終えた姉妹は、カイ少年を連れて薬屋を後にした。
今日は薬の納品。村を出て、隣町へと薬を届けに行くのだ。
ピエールの背負う籠に薬を積み、三人は町へと歩き出した。
: :
薬屋のあるリリシアソーン村から、隣町への道のりはおよそ二、三時間。
林道を抜けてすぐに村、その先に畑。畑を通った次にはなだらかな丘陵地帯が広がり、上下に緩くうねる道を通過した先だ。
姉妹と少年は今、ようやく丘陵地帯を抜け町の門を潜ったところ。
足元は強く踏み固められているものの舗装されておらず、道を行き交う人は多くもなく、少なくもなく。
遠くを見れば露店のようなものもあり寂れているというほどではないが、大賑わいとは言い難い雰囲気だ。
「普段大体の人の顔を知ってる村にいるとさ、たまにこうやって町に出てくると凄く圧迫感感じるよ。人多いなあ……」
「いや、ここそんなに人多い町じゃないと思うけど。カイってもしかして人見知りする方? 駄目だよ人見知りはー、誰とも仲良くしないと。うりうり」
「別に人見知りじゃないよ。ただいつもの生活との差が……ちょっと、ピエール、止めて」
自身の頬をつつくピエールの指を鬱陶しげに払いのけるカイ。
「もう、早く行こ。まずは道具屋だよ」
我先にと駆け出し、二人を急かした。
: :
三人が進む通りにはいくつかの露店が点在し、ピエールとカイは前を通過する度露店で売られている食べ物に目を奪われている。
今も三人の真横では何かの肉の塊が炙られており、立ち上る匂いに釣られたカイが地面の窪みに足を取られ転びかけた。
「わ」
体勢を崩したカイを、素早く下から片手で支えて受け止めるアーサー。
カイが姿勢を整えて立ち上がると、アーサーは一瞥もくれないまま再び歩き始める。
「危ないよカイ、ちゃんと前向いて歩かないと。地面でこぼこ」
「ごめん、いい匂いがしてたからつい」
「まあ分かるけどね、久しぶりのお肉の匂いだったし。……あとでちょっと食べてく?」
ピエールの提案にカイは一瞬目を輝かせたが、すぐに身体をすくめ隣にいるアーサーの様子を不安げに窺った。
ずっと前を向いたままだったアーサーが、視線だけをカイへ向ける。
「元々アメリーから『カイが肉を食べたがっていたから、町に着いたら少し食べさせてやって』と言われています。その為の小遣いも貰っていますから、昼食には好きなものを食べたらいいですよ」
「ほんと? やったー!」
歩きながら大きな声で喜びを露わにし、カイ少年は小躍りするようなステップを踏み始めた。
その横では、期待と不安が混ざった顔のピエールがアーサーの服の裾をつまんでいる。
「アーサーアーサー、私たちは?」
「肉なんか一欠片も無いいつもの安い昼食です。……と言ったらどうします?」
「怒る。それからアーサーに対して三日くらい拗ねる」
「……それは一大事です。寂しくなりますね」
ぼそりと一言呟いたきり返事は無く、アーサーは無言で歩き続けた。
ピエールはその横で『冗談だよね?』を何度も繰り返していたという。
: :
三人が最初にやって来たのは、町の道具屋だ。
アメリーはこの店へと薬を卸し、代わりに薬瓶や薬品材料、この付近で手に入らない薬草などを代わりに仕入れて貰っている。あの村で薬屋を始めたばかりのアメリーにとって貴重な取引先で、現状最大の収入源だ。
店の前には木製の椅子や桶などが店内から溢れ出るように陳列され、開いている扉から見える店内も鍋や食器から外套や帽子、ランタンに鞄など天井付近までぎっしりと商品が詰め込まれている。
店の前には売り物の椅子の上に座る、箒を抱えた少女が一人。
カイの姿を認めて立ち上がり、アーサーが村の薬屋の者だと伝えるとすぐに店主の元へと案内された。
「よく来たな坊主! 一週間ぶりか?」
大量の商品によって狭く薄暗い店内、奥のカウンターに頬杖を突いて不機嫌そうに座っていた店主。
だがその表情は、カイの存在に目線が向いた途端すぐに朗らかで力強い笑みへと変わった。
「おはようおじさん、それから前来たのは一週間じゃなくて半月前。全然違うよ」
「フハハ、老人にとっては一週間も一ヶ月も一年も似たようなもんさ。……背、でかくなったんじゃないか?」
「半月じゃ変わらないって、おじさんこそボケちゃったの?」
互いに軽口を叩き合い、からからと笑い合う店主とカイ。
「それで、今日はいつもの薬の納品か? それにしてはあの性悪の姿が無いようだが」
「性悪ってお姉ちゃんのこと? 告げ口しちゃうよ?」
「この程度挨拶だろう? ……だから告げ口なんかするなよ?」
「もう」
再び一笑いしてから、カイは店内の様子を見回していた姉妹二人を手招きして自身の前へ呼んだ。
「紹介するね。この二人はピエールとアーサーっていう冒険者の女の人で、今家で店員として雇ってるんだ。今日はお姉ちゃんの代わりだよ」
カイに紹介を受け挨拶しようとした姉妹。彼女たちの目の前で、店主の老人の顔があからさまに険しくなっていった。
柔らかく緩んでいた目元は皺が寄り、皺の奥には人を射殺せそうな鋭い瞳が。
朗らかな笑みを湛えていた口元は堅く結ばれ、姿勢も椅子の背もたれに身体を預け腕を組んだ格好に。
当初の不機嫌そうな顔より、更に一段階機嫌の悪そうな顔だ。
突然の変化に口を開きかけたピエールの顔が強ばり、何も言えないまま終わる。
「これはまた、アメリー以上に頼り無さそうな小娘たちだが。あいつは本当にこんなのを雇ったのか?」
「そうだよ。これでも畑の菜園の手入れとかまどろみで薬草採ってきたりとか、よく働いてくれてる」
「……こんな奴らがか」
カイに言われ、多少だが雰囲気を緩めた店主。
それを機に、アーサーがピエールの背から籠を外し床に置いた。
中の物を一つずつカウンターの上へ並べていく。
「今回の納品です。まずは魔法の薬。三色薬草の治癒の薬が二十本、汎用解毒薬が十本。魔法の聖水は今月十本納品する予定でしたが、材料不足で本数が作れなかった為五本だけ」
手のひらサイズの半透明の硝子瓶が合計三十五本、きっちりと規則正しく並べられた。
「次に魔法の巻物。炎が五巻、冷気が十巻、霧が三巻。質は低位で統一されています。制作者は全てアメリー、詳しくはラベルを」
硝子瓶に続いて今度は巻物が十八巻、カウンターの上に積み上げられた。この時点でカウンターの上はいっぱいだ。
「とりあえずはここまで。治癒が五十を二十本、毒消しが七十を十本、魔法の聖水が百を五本。巻物は炎、冷気、霧が順に百五十、二百、二百二十。総計して五千六百十ゴールドです」
品物を並べ終えたアーサーの目の前では店主が薬瓶の中身や臭いなどを調べており、アーサーの横ではカイとピエールが、
「全部合わせていくらかってアメリーちゃんから聞いてたっけ?」
「聞いてないよ」
「じゃあ今のですぐに計算したんだ……カイ計算出来た?」
「いや……」
というようなことを小声で話していた。
その会話に少々辟易しつつも表には出さずアーサーが待っていると、やがて確認を終えた店主が女性の名前を大声で呼んだ。
店の入り口側から最初に出会った少女が箒を抱えたまま現れ、店主に言われ薬や巻物を店の奥へと仕舞い始める。
「品は確かに確認した。……さて」
「こちらには他に向かう所がありますし、そちらも確認する時間が必要でしょう。代金は今すぐ出して貰う必要はありません。村へ帰る前に精製酒や布などを揃えに来ますので、その時まとめて精算してください。普段アメリーが来る時も、そうしているのでしょう?」
「……半信半疑だったが、どうやらお前は本当にアメリーからこの仕事を任されているようだな」
アーサーも店主も互いに毛ほども表情を変えないまま、アーサーは次に魔力の無い通常の薬をカウンターの上へと並べ始めた。
通常の薬品は種類が多く価格もまばらで計算は更に複雑だったが、やはり一瞬たりとも考え込む時間無く合計を計算し終えたアーサーと店主に、ピエールとカイは無言で驚くばかりだった。
: :
「はー、軽くなったー。瓶がいっぱい無くなったから楽ちんだ」
道具屋を出た三人の次の目的地は、アメリーと直接取引をしている個人の家だ。
店が無く民家ばかりで人気の少ない道を、緩い足取りで進んでいる。
「アーサーさんって計算早いんだね。僕驚いたよ」
「あの程度普通です。店主だって私の計算が間違っていないか自分で計算した上で話していたじゃないですか。アメリーだって出来る筈です」
「あれで普通なの……? それだと僕は全然普通じゃないよ」
「あなたはまだ子供、これから覚えればいい。それに遅くとも最低限の計算さえ出来れば一応は問題ありません。……問題があるのは、遅い早い以前に計算がろくに出来なくて一人で買い物に行かせると当然のようにぼられるどこかの誰かです」
「二人とも何の話してるのー? 私の話?」
素知らぬ態度でにこにこ笑いながら、軽快なステップを踏んでいるピエール。
それを、カイはただ苦笑いで見返すばかりだ。
「ついこの間単純な足し引きすら出来ずに百ゴールドも余計に取られそうになったどこかの誰かの話ですよ。……さ、着きました。住民区の三番通りを南に進んだ二つ目の十字路の角の緑に覆われた屋敷。ここですよね、カイ」
「そう、ここだよ。ユユさんの家。この時間なら多分……」
カイが歩調を速めて一人門の扉の前まで行き、門に手をかけようとした時。
その手が止まり、視線が前方ではなく斜め上へと向いた。
同じ方向に目を向けた姉妹が見たのは、茂る庭木の一本に登り上から少年を見下ろす一人の少女の姿。
その少女の背中には、透き通る四枚の大きな羽が生えていた。
: :
「……カイーッ!」
カイ少年の姿を捉えた少女が、町中に響きそうなほど大きな叫び声を上げながら登っていた木の幹から勢い良く飛び降りた。
地面へ落ちるかと思いきや、背中に生えている四枚の羽をばばば……と衝撃波の立ちそうな音を立てながら羽ばたかせ器用にカイの目の前で停止した。
終始表情に変化を見せない、作り物のような無表情の少女。
そのまま少年の身体へ纏わりつくように腕を絡め足を絡め身体を預ける。
羽ばたきが終わると共に、風圧と埃も緩やかに収まっていった。
「カイ、待ってた。久しぶり、嬉しい」
「僕もだよリアーネ」
手足を最大限利用して、カイの身体に密着する少女。
カイ少年は実に慣れた態度で、抱きしめられながら頭を撫でていた。
一段落着いたところで姉妹がカイの元へ近付くと、少女の姿もはっきりとしてくる。
背丈や見た目年齢はカイより幼く、七、八歳ほど。
髪も肌も純白だ。特に耳にかかる程度に切り揃えられた白髪は先ほど羽の風圧を至近距離で受けていたにも関わらず梳きたてのように整っており、真白い絹のビロードのようになめらかで光沢ある美術品のような美しさを保っている。
服装はパンツスタイルで、柄も無いシンプルな薄い木綿の上下。
質の良い生地なのだが、肌や髪の質に完全に負けてしまっていた。
服の背中は開いており、露出した白い背中からは四枚の透き通る羽。
見た目は無色透明、柔らかな水晶細工の木の葉のようで、羽脈のようなものも透けて見えている。
今はゆるゆると羽ばたいてそよ風を起こしていた。
抱きつきカイの胸に顔を擦り付けていた少女が、勢いよく顔を上げる。
大きく開いた丸い目には白目が無く、一面真っ黒の艶やかな眼球が光を弾いて煌めいていた。
「カイ、今日、葉っぱ?」
「そうだよ、葉っぱ持ってきた。あと薬とか」
一面真っ黒な瞳は傍目には視線の動きが全く分からず、表情も変わらない為少々異質で不気味だ。
だがカイはそれを一切気にする素振りを見せず、笑顔でリアーネと呼んだ羽の生えた少女を見返している。
「ほー、羽生えてる」
「羽人の一種でしょうか。こんな町に住んでいるとは珍しい」
呟きに反応したカイが視線を姉妹へと向けると、リアーネも意識を姉妹に向けた。
ここで初めて、少女はカイが姉妹を連れていることに気付いたようだった。
黒曜石の目と無表情で、姉妹を見つめるリアーネ。
その沈黙をカイが破ろうとした直前。
リアーネは風圧をまき散らしながら羽を激しく羽ばたかせ、カイを地面すれすれの低空飛行で引きずりながら門を開けて中へと入り、門を閉めるとそのまま姉妹を置き去りにしてその場を去っていった。
カイの声が、敷地の向こうへと遠ざかっていく。
: :
当惑顔のピエールと、先ほどの少女に負けず劣らず無表情のアーサーが待つこと数分。
カイとリアーネ、それに羽の生えた長身の女性が一人、ようやく姉妹の元へと戻って来た。
「ごめんなさいね、娘が勘違いしてしまったみたいで」
言葉からして、リアーネの母親だろう。外見は人間で言えば三十半ば、やはり真白い肌と羽ばたく邪魔にならない短い白髪、白目の無い真っ黒な目を持ち、背丈はアーサーよりも頭一つ、下手をするとピエールの三割増し近い背丈がある。
体型は驚くほど細く、一歩間違えれば細過ぎて不気味、と言われるぎりぎりの細さだ。
彼女もやや白みを帯びた透明な羽を持ち、ほんのささやか、控えめな笑みを姉妹へと向けている。
服と瞳の色以外、ほぼ純白な親子。
「いえ、構いません。……私はアーサー、横は姉のピエール。今日はアメリーの代理として参りました。あなたがユユさん、ですか?」
アーサーが軽く一礼してから問いかけると、相手は薄い微笑みを変えずにゆっくりと頷いた。
「そう、私がユユ。こちらは娘のリアーネ。見ての通り、あなたたちにとって羽人と呼ばれる種族です」
ユユの手が、隣にいるリアーネの頭を撫でる。
その腕は細くしなやかで、積もったばかりの新雪のようにきめ細かい。
撫でられるリアーネは、少年にしがみ付いたまま姉妹を真正面から凝視している。やはり表情は無い。
「……お前ら、カイ、何? 誰?」
「こらリアーネ、お前ら、なんて失礼でしょう」
片言且つぶっきらぼうなリアーネの物言いに、ユユはほんの少しだけ表情を歪めてリアーネの頭を軽く小突いた。
それから改めて、といった仕草で再び笑顔を作り、姉妹を屋敷の中へと誘った。
まるで林のような庭の中を、五人連れ立って歩く。
「羽人の方がこのような平地の、人の住む町で暮らしているというのはとても珍しいですね。……よろしければ、経緯などを尋ねても?」
「構いません。私も、十年ほど前までは北の山奥で同族と共に暮らしていたわ。でもある日私たちの住んでいる場所の近くに、雷の翼、という人を食べる大きな鳥の魔物が流れ着いて巣を作り始めたの。そのまま住んでいると次々仲間が襲われて食べられる、かといって追い払おうにもとても太刀打ち出来ない。対応に悩んだ結果山に留まる人と離れる人に分かれて、離れる側だった私はここで定住することになったの」
「雷の翼、大きな鳥……って青色で、ちょっと細長くて、熱の光線出して、追い詰めると紫色の電撃をぶわーってまき散らす奴? あれ強かったなー、というか空飛んだまま降りて来ないから面倒臭かった。近付いて来るまでずっと石拾って投げてたよ」
「……知ってるの?」
何の気なく、軽い口調で戦闘経験を語るピエール。
思わぬ返事にユユの顔から表情が抜け、娘と同じような無表情に変わった。
「何年か前に戦った記憶があります。といっても未熟な若い個体でしたが。巣を作り始めたと言うならその場所にいたのはある程度年を取ったつがいでしょうし、同じものとして考えていいかどうかは怪しいところです」
「この二人さ、これで結構ベテランの冒険者みたいなんだ。力とか滅茶苦茶強くて、色んな所に行った話とかしてくれるんだよ。お姉ちゃんとも一緒に冒険したことがあって、働いてるのはその時の縁なんだって」
カイの補足に、ユユは歩みはそのままに姉妹をじっと見つめた。表情は無表情だが、訝しんでいるという雰囲気だ。
そうこうしている内に五人は屋敷の入り口の前まで到着し、気づいたユユが慌てて笑顔を取り繕って扉を開いた。
「ごめんなさい、ぼうっとしていたわ。……それで、アーサーさん、とピエールさん、にはお薬のお話を聞いて貰っていいのかしら? カイ君とリアーネはどうする? いつもみたいに外で遊んでる?」
「遊ぶ。……お前ら、カイ、あげない」
「リアーネ、お前らは止めなさいって言ったでしょう」
ユユの叱責にも聞く耳持たず、リアーネは再び先ほどのようにカイを抱え、低空飛行で羽ばたきながら庭である林の中へと飛んでいってしまった。
残されたユユが、穏やかな困り笑顔で頬に手を当てる。
「……許してあげてね。リアーネはカイ君にぞっこんだから、あなたたちみたいな若くて可愛い女の子が一緒にいると不安なのよ。……一応聞いておくけど、カイ君とは本当に何も無いわよね? ただのお仕事の関係よね?」
問いかけに対し断固とした口調で何もない、と答えたアーサーに、ユユは困り笑顔のまま笑い声を上げた。
「それならよかったわ。……さ、どうぞ」
ユユの先導で、姉妹は屋敷の中へと足を踏み入れた。
: :
軽い世間話の続き。
持って来ていた薬や薬草の受け渡しと代金の計算。
最近の森の薬草の生え具合や、薬品在庫に関する世間話。
最近のユユたち親子の体調の話や、次回必要な薬草のリスト化。
家で待つアメリーの為の、最近の町の出来事に関する世間話。
アーサーの興味からなるユユの、引いては羽人という種族そのものの話。
代金計算辺りで話に一切入れないことに辟易し始め、薬品の在庫、必要な薬草と来た辺りで退屈が限界に達したピエールは、ユユに許可を得てから屋敷を出て庭へと飛び出した。
そう広い敷地ではないが木々が茂っていて視界の通らない庭の中、ピエールはカイとリアーネの二人を探す。
幸いすぐに気配と音を察知し、少し歩くとすぐに見つけることが出来た。
敷地の隅、木に囲まれた小さな椅子の上に座っているカイ。
少年は背もたれに背中を預けて大きく身体を逸らし、顔ごと視線を真上へと向けていた。
その視線の先には、猛烈な羽音と共に宙を滑る白黒の少女の姿。
透明な四枚の羽を目一杯羽ばたかせ、服や髪を波打たせながら飛んでいる。
どうやら複雑な空中制御は得意ではないらしく、空中で方向転換したりはせず木から木へ飛び交う直線状の飛び方が主だ。
「わ、飛んでる。いいなー」
ぼそっとピエールが独り言を呟いた瞬間。
敏感に言葉に反応したリアーネが飛行を中断し、ピエールに視線を固定させたままカイの前へと降り立った。
やはり表情は変わらないまま、少年に強く身を寄せる。
「警戒心がすごい……」
「あれ、ピエール。ユユさんとの話はいいの?」
「そもそも私はいらなかった。全部アーサーがやってる」
「……それもそうか」
少女に身体を寄せられたまま、カイが笑った。
ピエールも笑うほどではないが似たような軽い表情で、二人の元へと近寄っていく。
「お前、何。どっか行け」
だが、リアーネはピエールを断固として拒絶していた。
カイが窘めてもその態度は変わらない。
それに対しピエールはやや姿勢を下げ、警戒する動物を相手にするような動きで少しずつ、本当に少しずつにじり寄るように進み始めた。
「私、ピエール。カイ、取らない。リアーネちゃん、応援」
「……」
無機質な黒の瞳を凝視しながら、笑顔と中腰でじり……じり……と距離を詰めていくピエール。
その仕草は、カイ少年の目には若干気持ち悪い動きとして映った。
「ピエール、仲間。心配、不要」
「……」
「お菓子、お茶、ある」
リアーネの警戒心が薄れたのを感じ取ったピエールは、両手に抱えていたお茶菓子の乗ったトレイを掲げて更に呼びかけた。
中腰笑顔でトレイを掲げて迫り来るピエールは、カイ少年にはやはり気持ち悪いものとして映っている。
が、どうやらリアーネの警戒心はある程度払拭された、というよりはお茶菓子に釣られて拒否するのを止めたようだった。
拒絶の気配が無くなり、ピエールは姿勢を正して少女と少年の向かい、机を挟んだ反対側の椅子に座る。
「……ピエール、今なんで片言だったの?」
「相手、言葉、同じ。仲間、証明」
「片言は人の言葉に不慣れなだけで、仲間がどうとかって話じゃないと思うけど……まあいいや」
「お菓子、葉っぱ、出す、早く」
急かされたピエールが、トレイに乗っていたものを机の上へ並べていく。
茶の注がれたティーカップが三つ。
内二つは紅茶の香りが漂い、もう一つは真緑色の液体にきつい植物の臭い。
二つある平皿には何枚かの麦の焼き菓子。作り置きしたものらしく焼きたてではないが、中央に赤紫の果実が埋まっており、出来そのものは良好だ。
そして最後に、少し乾いた紫色の葉っぱが十枚ほど乗った皿。
葉は手のひらサイズでやや大きく、表面には産毛のような毛が生えている。
「……ユユさんに言われて持って来たけど、この葉っぱ何だろ。あとこの凄い臭いのお茶のような何か」
「ああ、これまどろみに生えてる呪殺樹の葉っぱだよ。葉から幹まで全部紫の不気味な樹で、葉とか花とか実を食べると全身から血を噴いて死ぬ猛毒の木。前触れ無くいきなり血が噴き出るのがまるで呪い殺されてるみたいに見えるところからそういう名前が付いたんだって」
「……へー……そーなんだ……」
なんて物騒な由来だ。
そう思って頬を掻いたピエールがふいに視線を向ければリアーネがその呪殺樹の葉を当然のように食べており、そのあまりの平然ぶりに視線を外してから慌てて二度見するほどだ。
「うまし」
「ちょっ! ま、ちょっと! 毒! 毒だって!」
目を見開き机を叩いて立ち上がり、リアーネの手と口から葉をもぎ取ろうとするピエール。
その突然の大声と机を叩く音でリアーネ本人も飛び上がるようにして驚き、カイトも摘んでいた菓子を驚いて取り落とした。
「止め、何、止めろ、痛っ、や、止めて、助けて、カイー!」
「ピエール落ち着いて! いいんだって! 羽の人はこの葉っぱ食べても大丈夫だから!」
突然自分に襲いかかって来たピエール、更にその抵抗敵わぬ異常な腕力にリアーネは完全に萎縮し、縮こまってカイの後ろに隠れてしまった。
そのピエールを必死で静止したカイ少年も、一瞬の間で息を荒くしている。
「……え? 何? どういうこと?」
「呪殺樹の葉が毒になるのは人とか一部の亜人くらいで、羽の人とかは食べても大丈夫なんだってば。それどころかたまに食べると身体の調子がいいみたいで、毎月こうやって薬と一緒に森で採った葉っぱを持って行くの」
「……そうなの?」
「そうだよ……ユユさんから聞いてないの?」
「……えーっと、この葉っぱと濃い緑の液体はリアーネちゃん用だから、絶対に食べたりしないでね、って……そういえばその後毒がどうとか言ってたような……」
「……」
「ま、まあ毒だけど大丈夫って言うなら、ほら、リアーネちゃん、食べていいよー」
苦笑いでカイの視線を受け流し、カイの後ろに隠れたリアーネへ呪殺樹の葉を渡そうとするピエール。
だが警戒を越えて恐怖まで感じてしまったリアーネが、以降ピエールに近づくことはただの一度も無かった。
カイ少年が、額を押さえてため息を一度吐いた。
: :
「……姉さんは本当に仕方の無い人ですね」
言葉とは裏腹に、若干愉快そうなアーサーの口調。
三人はユユの屋敷を後にし、現在は昼食の為町の食堂へ向かっている最中だ。
ユユには昼食に誘われたが、草食である羽人の家で食事をすると肉が食べられない、ということでカイは尤もらしい理由を付けて丁寧に辞退していた。
その時のリアーネの反応は、表情に出なくともはっきりと名残惜しさが読み取れるほど。
「いや、リアーネちゃん用だから駄目ってところまでは聞いてたよ? でもそこでそういう分け方をすればいいんだ、って自分で納得しちゃって後の部分が耳に入ってなかったというか」
「ほんとうにしかたのないひとですね」
ピエールの言い訳に全く同じ単語で返し、アーサーはごく薄く微笑む。
横にいるカイも笑い話の雰囲気だ。
「そういうアーサーは随分長い間出てこなかったけど、ユユさんと何話してたのさ。そのおかげで私はリアーネちゃんに拒絶されたまま、ずーっと一人で離れたところからカイとリアーネちゃんがイチャつくのを見せられてたんだからね」
「イチャつくって、そんなんじゃないよ」
「カイは違うと思ってるのかもしれないけどリアーネちゃんはあれ絶対友達扱いじゃないよ、べったべただったじゃん食べさせ合いっことか。……で? アーサーは?」
改めて尋ねられたアーサーが、一人満足げに頷く。
「姉さんが出て行った後は私たちの話を少々と、後は羽人そのものの話に終始していました。実に興味深い話でしたよ」
「出た、アーサーの何でも知りたがる面倒臭いやつ。……例えば?」
アーサーの悪癖に辟易しつつ自身も興味があるらしく、横目で視線を向けピエールが呟いた。
「姉さんが聞いて楽しめそうなのは……そうですね。姉さん、あの二人表情に乏しいと思いませんでした?」
「そうだね。リアーネちゃんなんか怒っても叫んでも怖がってもずーっと同じ表情のままだったよ。作り物みたい」
「彼女たち羽人の一種、スミェと呼ばれる種は、本来表情を使わない、使わなくても意志の疎通が取れる種族だそうです。なので感情は人並みに豊かなんですが、嬉しい時に笑う、悲しい時に泣く、というのが本能的に繋がらない。人から学ばなければ、笑う、という行為がどのように表情を動かして作るものなのかも分からない。ユユさんは長年この町で暮らしていて、時間が開いた時にずっと表情のことを勉強し続けてようやく今みたいな顔が出来るようになったのだとか」
「ユユさんも結構表情作るのぎこちないところあるよ。焦ったり慌てたりして余裕が無くなると、表情を作るっていう考えが頭からすっぽ抜けちゃって、ずーっと眉一つ動かない無表情。……前さ、リアーネが一人で勝手に町出て僕の所に来たことがあって、その時の二人はそれはもう凄かった。ユユさんが一切表情変えずに物凄い剣幕でリアーネを叱って、リアーネはリアーネで涙こそ流すんだけど表情は全然変わらないの」
状況を思い浮かべたピエールが、不気味、と正直に口に出しそうになるのを堪えた。
「普段使わない機能がわざわざ残っているというのが中々不思議で、興味深いところでしたね」
「その羽人の集まってる村だと、みんな揃って無表情で明るく雑談してたり真剣な話してたりするのかな」
「でしょうね」
「んー、それは何とも……」
その先は言わず、三人は到着した食堂の中へと入っていった。




