16
魔封じの輪を受け取りピエールの元へ飛び立ったハルの後ろで、何かが倒れる音がした。
空中で振り向いた彼女が目撃したのは、小さな血溜まりの上にうつ伏せになって倒れ込むエリザ。
そして、血に塗れたナイフ片手に赤毛の女へ歩いているアーサー。
「……え、あれ?」
事実を認識出来ないハルが急旋回し、エリザの元へとターンして戻る。
「ニンゲンさん……?」
地面に降りた妖精の瞳に、顔を上げ瞼をうっすらと開いたままのエリザの瞳が映った。
その目からは既に生気が失われ、光の灯らぬ虚ろな眼差しを虚空へ投げかけている。
「お前、お前! 騙したな! 見逃すって言った癖に、よくもエリザさんを!」
呆然とエリザの死んだ瞳を眺めるハルの耳に、赤毛の女の叫び声が聞こえる。
「汚らしい化け物! 悪魔め! 呪われろ……く、来るな! や、止め、あっ、ぎ」
叫び声は、唐突に途切れ聞こえなくなる。
地面にへたり込むハルの元へやや間を開けて、血泥にまみれた二人が戻った。
「これで一通り始末出来ましたね。……お疲れさまです、姉さん」
「……うん」
「では私は後始末を」
言い掛けたところで、妖精の小さな手がアーサーのズボンの裾を掴んだ。
見下ろしたアーサーと、泣きそうな顔で見上げるハルの視線が交わる。
「殺したの? もしかして、このニンゲンさんみーんな、ピーちゃんとアーサーが殺したの?」
「……」
反射的に答えかけたところで口を押さえ、思案の後にアーサーはハルの目の前に座り込んだ。
横ではピエールが既に座っている。
「……そうです。私たちが全員殺しました。理由は、我々に危害を加えようとしたからです。制止しようとしましたが、聞き入れて貰えなかったので返り討ちにした。森で起きたことと何も変わらない」
「じゃーこのニンゲンさんは? もーこーさんしてたよ? アーサー見逃すって言ったのに、なんで?」
「あなた、随分この女に好意的ですね。自分を捕まえて人質にした相手だと分かってるんですか?」
「……だってこのニンゲンさん、ほんとーにあたしのこと好きだったんだもん! あたしに傷なんて付けられないって言ってたし、優しそーな顔で笑ってくれたもん! こーさんしてたのに、なんで殺したの!」
ばちちっ。
感情の昂ぶった妖精の突然の叫びが、強い魔力の閃光となって周囲に弾けた。
咄嗟に両手で顔を覆った姉妹の喉や手など、皮膚の露出した箇所がほんの一瞬だけ魔力の熱で炙られ肌を赤く腫らす。
しかし二人はハルを責めることも嫌がることもせず、怒るでも笑うでもない曖昧な表情のままだ。
「熱っ……。……仮に見逃したとして、どうなると思いますか?」
「どーなるって、なにが」
「ああ、あなたは人間のことに疎いですからね」
無意識に漏らしたアーサーの一言に、拗ね顔だったハルの表情がまた一段と険しくなる。
「仮に見逃して、放置したまま町へ行ったとしましょう。馬車を壊され護衛を皆殺しにされたこの女が、後から町にやって来る。そうしたら」
「そーしたら?」
「この女は間違いなく言うでしょうね。こいつらに襲撃されて護衛を殺された、こいつらは殺人鬼だ、と」
険しい表情のまま、首を傾げるハル。
「意味分かんない。先にこーげきしたのはこのニンゲンさんたちなんでしょ? 嘘ついてる」
「そうですね。嘘をついている。ですが、それを証明出来るものは何もない。そうするとどうなるか」
「……分かんない! アーサーのゆーこと分かんない!」
「そう癇癪を起こさないでください。証拠が何も無ければ、判断するのは町の住人次第ということになる。そうなれば我々は圧倒的に不利です。こいつらはきっと町には商売仲間が大勢いるでしょうが、我々には庇ってくれる人は誰もいません。余所者が言いがかりを付けられてるが、余所者だしどうでもいい。大半の人がそう思って終わりです。我々は罪人扱いされて、ろくなことにはなりませんね。下手すると死刑です」
「……分かんない。だって嘘じゃん。ほんとーのことじゃない。それに、このニンゲンさんがそーゆーことするか分かんないし」
「そうですね。分からない。ですが、その危険があるなら後顧の憂いを断つ為に始末した方が早い。死人に口無し、それに野外なら獣たちがいくらでも罪を被ってくれます」
「そんなちょっとのかのーせーでわざわざ殺すことないじゃん! 分かんない! あたし分かんないもん!」
地面に寝転がり、両の手足を激しく振り乱して妖精は駄々をこね始めた。
アーサーが黙って見下ろす中、今度はピエールが呼びかける。
「私もね、昔はハルちゃんと同じこと考えてたよ。例え悪い人でも、もうしないから見逃してって言ってるんだから見逃してあげればいいじゃん、って。相手から襲いかかってきたとしても、やっぱり同じ人間だもんね」
語り始めたピエールに、手足の動きを緩めて半泣きの拗ね顔を向けるハル。
「でもそうやって見逃そうとしたせいで、大変なことになった時が何度もあった。油断したところで毒を盛られて死にかけたり、アーサーが言うように後になってから罪を被されたり復讐されそうになったこともある。だから駄目なんだよ」
そこで区切って、溜めを作る。
彼女の顔には、いつもの明るい雰囲気は無い。
「一度本気で敵意を向けてきた相手には、絶対に容赦はしない」
ピエールの有無を言わせぬ固さのある一言。
目尻に涙を浮かべたまま、ハルは顔を逸らした。
「……分かんないもん、だって、同じニンゲンさんなのに……」
「あなたこそ、少し自分に好意的だったからって情にほだされ過ぎなんですよ。あなたに甘い顔してた裏で一体何をしてたやら。……丁度いい、実際に話を聞いてみましょう」
立ち上がるアーサー。
続いてピエールもハルを手に乗せて立ち上がろうとした所で、自分の全身が血で汚れてハルを乗せられる場所がどこにも無いことに気づく。
対応に困ったが、むくれた顔のままハルが自分から無言で飛び上がった。
「どこ行くの」
「あの女が配達しようとしていた、商品のところですよ」
エリザの亡骸を後にし、首があらぬ方向へ折れ曲がったオルランドを横目に、二人と一人は幌馬車の荷台の前に立つ。
一羽残っているキウイのような鳥は先ほど同様完全に恐怖で萎縮し、逃げることも出来ず縮こまっていた。
荷台の入り口には、内部を一切覗き見れないようぴったり全体を覆う木製の扉が備え付けられている。
半開きになったそれを血の手形を付けないよう手の甲で押し開け、姉妹が一足でよじ登った。
内部は完全に荷物用といった風体で人が休めるスペースは殆ど無く、食料の入っているであろう木箱や樽、それに寝具など野宿用の道具が押し込むように周囲に並べられている。
中央には、布のかけられた大きな四角い物体。
アーサーが服の袖で手の血を拭い、勢いよく布をはぎ取った。
「……!」
悲鳴にすらならない、くぐもった呻き声。
覆いの下にあるのは小さな金属製の檻だ。
中には、四肢を拘束され猿轡を噛まされた人影が二つ。
一人は十代半ばの少年、もう一人は純白とも言うべき真っ白な長髪の少女。
血みどろの姉妹二人を目にした二人の人影、その片方だけが驚きで目を剥く中、アーサーが若干楽しそうに呟いた。
「やはりニアがいましたね。そんなことだろうと思いましたよ」
アーサーの視線は白い髪の少女の首、きつく巻かれた首輪に注がれている。
先ほどハルの胴に巻かれた、魔封じの輪と同じものだ。
ニアエルフ。伝説の純エルフと似た特徴を持つ、魔力の扱いに長けた長命な種族。
「この鍵檻には合うんでしょうか……あら、合わない。別々か」
エリザから受け取った宝箱の鍵を差そうと四苦八苦するアーサー。
その横で、彼女の試みを知らぬ顔のピエールが檻へ手をかける。
「ふんぐぬぬぬ……ぬっ」
みりみりみり……。
歯を食い縛り腕に渾身の力を込めるピエールによって、檻の格子がゆっくりと、金属の捻れる小さく高い音を軋ませながら曲がっていく。
「……あの赤毛が化け物化け物と言ってましたが、これを見ると確かに化け物呼ばわりも当然だと痛感しますよ、ははは」
表情は変えず声だけで空笑いしてから、捻り広げられた檻の隙間から二人を引っ張り出すアーサー。
未だに持っていたエリザのナイフで、少年の猿轡を切って外す。
「っは、何だ、何なんだお前たちは、どこかの蛮族か! 僕は、僕は殺してもいいからエレネだけは助けてやってくれ!」
「……蛮族と来たか……」
開口一番、少年の正直な感想に若干心を痛めたピエールが顔を背ける。
アーサーはぐっと眉を寄せただけだ。
「失礼ですね、ただの旅人です。とりあえず状況を理解して貰いましょう。姉さんは返り血を洗えそうな水が無いか調べてください」
「な、何を」
言うやいなや二人の服をひっ掴み、馬車の外へ放り出す。
外へ出た二人はまず日の光に眩んで目を閉じ、それから改めて周囲の惨劇を見回して今度こそ驚きで表情を凍り付かせた。
「一体何だ……これは……」
「襲われたので返り討ちにした、それだけです。あなた方はどうしてこいつらに?」
「あ、ああ、いや……。まずはエレネの、この子の猿轡も外してやってくれないか。それから首輪も。あの首輪きつくていつも苦しそうにしているんだ」
「首輪が魔封じであることは分かっています、そちらはまだ外しません。が、口だけなら」
血で汚れたナイフで猿轡を切られた、エレネと呼ばれた白髪の少女が胡乱な瞳で血まみれのアーサーを見返す。
「これ、あなたが?」
「ええ」
「……」
自分で聞いておきながら、アーサーの返事に何も言い返さないまま少女は俯いた。
虚ろで、ぼんやりとした態度だ。
「流石にこんな状況だからか目が死んでいますね」
「……いや、エレネは昔からこういう感じなんだ。他人が相手だといつも上の空で」
「そうですか。ま、どうでもいい話でしたね。それで先ほどの話の続きですが」
「あ、ああ。僕の名前はスシール、この子はエレネレッシェラケトゥックィーレユーリシアと言うんだ。愛称はエレネ。僕たちは二人ともトウの町に住んでる」
「おや、トウですか。懐かしいですね、数ヶ月前に通りましたよ」
「……数ヶ月? ここは一体どこなんだ?」
「ここは西大陸中部、鴉谷と呼ばれている山岳地帯の外れ。どうやらあなた方は商品として海を越えて運ばれたようです」
「西大陸……、そうか……」
海を越えた異邦の地にいるということを知ったスシールの表情が、不安で歪む。
しかしすぐに唇を噛みつつ俯いていた顔を上げた。
「何故あなた方は捕まったんですか? 組織に敵対したとか、闘争の結果だとか」
「……刃向かった、というほどでもないかな。そこで死んでるエリザって女が所属していた後ろめたいことばかりやってるグループが、トウで色々と問題を起こしたんだ。それを町の皆で追い払ったんだが、その時に町の自警団のトップだった僕の父が恨みを買い、同時に僕がこっそり仲良くしていたエレネの存在を知られた。そして、報復を兼ねてエレネを売り物にでもしようと思ったんだろう。僕はエレネを捕まえる為の人質さ。……僕の服の背中、めくってくれないかい」
背中をめくれと言われた時点で大凡のことに気づいたアーサーが、大して感慨も湧かぬ仏頂面でスシールの服をめくった。
露わになったのは、彼の背中をびっしりと埋め尽くす真っ赤な傷跡。
短鞭で打たれた蚯蚓腫れ。刃物で切られた細い切り傷。大型の鞭か、さもなくば分厚い刃で抉られたかのような皮下の肉までぱっくりと裂けた太い傷跡。
深さも長さも治り具合も多種多様な傷跡が、背中のキャンバスに余すことなく刻みつけられていた。
背中には最早、元の肌の色はどこにも見当たらない。一面が赤だ。
その傷跡をアーサーは表情一つ変えず眺め、隣にいたハルが目を剥いて飛び上がり無意識に彼女の血で汚れた胸元へと飛びついた。
小さな妖精の頬や手が赤く汚れ、アーサーは優しい口調で窘めて離れさせる。
「エレネはいつもこんな調子だけど呪文の腕は素晴らしくてね。その辺の奴じゃ指一本触れないくらいさ。そして、だからこそ僕が人質になって、エレネを大人しくさせる為にこんなことになった」
まだ痛むであろう傷を負いながらも、軽く笑い飛ばすスシール。
ハルが半泣きで傷を凝視し、エレネはスシールが笑う度顔を俯ける。
「ス、スーちゃん」
「……おや、何かな妖精さん。そんなに怖がらないでおくれ、僕は大丈夫だから」
地面に降りてふるふる震える妖精の、怯えと疑問がない交ぜになった小さな瞳をスシールの目が捉えた。
「あのニンゲンさん、ほんとーにスーちゃんの背中そんなふーにしたの……? 間違いじゃないの……?」
発された言葉にスシールが訝しげな表情を見せかけ、アーサーがすぐに割り込む。
「この妖精、つい先ほど自分が人質になったにも関わらずあのエリザという女にご執心でしてね。私たちがこうして返り討ちにして皆殺しにしたことを不満に思ってるんですよ。説得……と言うべきか、あの女のことを説明してやって貰えませんか」
「……だって、あのニンゲンさんあたしを人質にしたけど、何も傷なんて付けなかったもん。あたしのことはほんとーに好きだから、傷なんて絶対付けられないって言ったんだもん。それで、最後にあのニンゲンさんこーさんしてね? もーしないから見逃してって言ったのにね? なのにアーサーは殺した。頷いてから、ウソついて殺した」
膝を抱えたまま顔を俯け、誰に言うでもない独り言のような口調でハルは呟く。
それに対し返答を行ったのは、スシールではなくエレネだ。
「……それは、あなたが価値のある存在だから。妖精」
ハルとアーサーが視線を向ける中、どこを見ているのか分からない死んだ魚の目でエレネは語り始める。
「価値のある存在だから、価値を損なわない為無闇に傷を付けない。逆に、価値が無いと思った相手ならいくらでも傷をつける。私を捕まえた時。私には一切鞭も刃物も、頬すら張らなかった。だけど、すっしーには沢山傷を付けた。あの女、捕まえたすっしーの腕に笑いながらナイフを刺した。にこにこ笑いながら私の前ですっしーの腕をずたずたにして、もう片方の腕をこうされたくなかったら大人しくしろって言ってきた」
アーサーが無言でスシールの腕の袖をめくると、既に両腕とも洗濯板の如く、横一列に付けられた真っ赤な傷跡で一面凸凹になっていた。
ハルが、再び身体を縮こめる。
「私が大人しく捕まればすっしーは解放するって言った。でも、あいつはすっしーを自由にしなかった。私を完全に言いなりにさせる為に、嫌がらせの為に、万が一の人質の為に。わざとあいつは私とすっしーを一緒にして、私の目の前ですっしーを痛めつけた。……私の所為で、すっしーがこんな目に遭った」
「エレネ、君のせいじゃない。だからあまり思い詰めないで」
スシールが諭すが、エレネの表情は変わらない。
一貫して生気の感じられない虚ろな瞳だ。
「妖精、あなたはきっと人間との付き合いが浅い。だから人の心が分からない。……悪い奴は皆、ニアエルフには優しくする。それは価値があるから。金になるから、いくらでもいい顔をする。あなたは、それに引っかかっているだけ。人間は皆嘘つき。すっしーだって嘘をつく。でも、いい嘘をつく人間と悪い嘘をつく人間がいる。あいつは間違いなく悪い嘘つき。あなたは、悪い嘘つきに騙された無知で馬鹿な世間知らず」
最後に一言辛辣な言葉を投げかけ、もう喋ることはないとエレネは拘束されている身体を丸めた。
「エレネ、最後の一言は余計だよ。……とはいえ、僕も大まかには同じ意見だ。流石にここまでされて、あの女を悪い奴じゃない、見逃してやればいい、とは言えない」
「……あたし……」
膝を抱えて丸まり俯き、表情の伺い知れない小さな妖精。そして、その姿をじっと見つめるスシール。
一方アーサーは、期待通りの話が出てきたことに心の奥で満足しつつ馬車の方へと目をやっていた。
丁度よく、馬車の中からピエールが戻ってくる。
「おーいアーサー、水入った樽があったよー。呪文で作り置きしてたのかなー、見た感じ綺麗で変な臭いもしないよー。降ろすから受け取っておくれー」
アーサーの目に、本人と同じくらいの高さの樽を抱えたまま馬車の入り口でふらふらしているピエールの足だけが映る。膝から上は、抱えた樽で完全に隠れたままだ。
スシールが小さく目を見張り、アーサーが軽いため息をついた。
「……姉さん、それは流石に受け取れませんから。一旦置いてください、踏み台を展開します」
「ういー」
間の抜けた頷き声が樽の向こうから聞こえ、足と樽が馬車の中へと引っ込んでいった。
ややあって、ピエールが戻ってくる。
「では少し待っていてください、出しますから」
「おっけー」
入れ替わりでアーサーが馬車の扉の前で作業を開始し、ピエールがスシールとエレネの前に戻った。
俯くハルを無言でじっと見つめ、何かしらの空気を感じ取ったのか何も言わずにそっとしておく。
「君、本当に凄いね。最初に檻を手で無理矢理開けた時も思ったけど」
「そうかな、ありがと」
「ところで、そろそろ僕たちの拘束と首輪を外して貰えないかな。逃げたり暴れたりはしないから」
「ん? いいよ、アーサーもこれくらいぱっと外してあげればいいのに。……でも、本当に逃げちゃ嫌だよ。逃げたら追わなきゃいけないから」
「ああ、そんなことしないよ。……はっきり言って、君たちはとてつもなく怖いからね。機嫌を損ねるような真似はしたくない」
スシールの言葉に一切の躊躇無くあっさり頷いたピエールが、二人の縄を外しにかかった。
まず結び目を解こうと四苦八苦したが、眉に限界まで皺が寄ったあたりで綺麗に解くのを諦め強引に千切る方向へと移行する。
人の指ほど太い縄が、人間離れした力でみぢみぢ……と簡単に引き千切られていく。
スシールは自身の手足から響く音に若干緊張で身体を強ばらせていたが、エレネは依然としてぼんやりとした、死にかけの魚のようにぐったりとした表情と姿勢のままだ。殆ど反応を見せない。
「わー、君相当やられちゃってるね。痛くなかった?」
「そりゃ痛かったよ。でも僕よりもその姿を見せつけられて泣きそうなエレネの表情の方がよっぽど辛かった」
「それ分かるなー。自分も痛いんだけど、その横で自分よりもっと辛そうな泣き顔で見つめられるとそっちの方がダメージ受けちゃうよね」
「……自分で言っておいて何だけど、そこを分かって貰えるとは思わなかったよ」
物騒な話を平然とした顔で交わしながら、全ての縄を引き千切ったピエール。
最後にエレネの魔封じの輪を金属糸の刺繍ごと引き千切り、無造作に投げ捨てる。
拘束の解かれた二人が、手足を軽く動かして長い間拘束されていた身体を解した。
次の瞬間。
「エレネ!」
「すっしー!」
全力で体当たりするような勢いで、叫び声と共に二人は強く互いを抱き締め合った。両腕を回し、胸を密着させ、布の擦れるはっきりとした音を響かせて二つの身体が絡み合う。
「エレネ……!」
「すっしー! すっしー! すっしー!」
ぴったり身体を合わせて、きつく抱擁を行う二人。互いに頭を合わせて、頬やこめかみを執拗に擦り合わせる。
その内、頬と頬がくっついてしまうのではないかというほどに。
「良かった……またこうして君に触れられる時が来るなんて」
「すっしーすっしーすっしー……! ああ……すっしー!」
抱き合う二人の、特にエレネの興奮は留まることを知らない。先ほどまでのぼんやりした態度はどこにも無く、熱に浮かされ感情に任せて相手の名前を叫び続けている。
まるで、一つしか知らない言葉を連呼する赤子のようだ。
「えーっと、それで」
その勢いに若干押され気味のピエールが割り込もうとするが、二人だけの世界を構築し始めたスシールとエレネには何一つ言葉は届かない。
ピエールの頬が、半笑いのような顔でひくつく。
「すっしー! 脱ぐ! 服脱ぐ! あの女に付けられた傷! 傷治す!」
「あ、ああ、分かった、分かった脱ぐからちょっと待って」
制止の声も聞かず、半ば剥ぎ取るような勢いでスシールの服を脱がせるエレネ。
そのまま自身の膝の上にスシールをうつ伏せにして寝かせ、たった一言だけ詠唱を行った。
単発の呟き同然の呪文で、一瞬にして人の頭よりも大きな魔力の光の塊が少女の手から現れた。
それをまるで塗り薬を塗り広げるかのような手つきで、背中へと覆わせていく。
「はあいご主人様……痒いところありませんかぁ……?」
「ああ……無いよエレネ……気持ちいいくらいだ。やっぱりエレネの治癒は最高だね」
「うふふ、すっしーの為なら何でもしてあげちゃう……」
「……あのう……」
改めて再び声をかけるも、やはり言葉は届かない。
二人の世界を眺めていたピエールの表情が、ふっと軟化した。
これはもう駄目だ。ちょっと放っておこう。
一人頷き、もう一度傷心らしきハルに声をかけるか迷った末ピエールは無言で三人から背を向けて馬車の方へと向かった。




