14
得物を抜いた二人が、即座に反転して後ろへと駆けた。
その背を見送り、嗜虐心に満ちた余裕の笑みでエリザは叫ぶ。
「捕まえて! 痛めつけても構わないわ!」
叫び声を聞いて飛び出したのは、姉妹の後ろに回り込んでいた護衛が三人。
会話の間に周囲を囲み、既に退路を塞いでいたのだ。
幹の陰から、足音を頼りに飛び出した護衛たち。
しかし彼らが見たのは少女の姿ではなく、既に眼前にある金属の塊。
それが武器であることにも気付かないまま、護衛の身体に刃が振り下ろされた。
「にゲっ」
言い掛けた一人の禿頭に斧の背がめり込み、内部で何かが砕け潰れる音が弾ける。
もう一人の髭面は折れてぼろぼろの剣で首を斜めに抉られ、半分千切れてぷらぷら頭を揺らしながら血の濁流と共に仰向けに倒れた。
もう一人がその光景に硬直した瞬間、猫のような機敏さで地を滑るピエールに横から襲われやはり言葉一つ上げる間も無く斧の背で首をパン生地のように叩き潰される。
二人の狙いは逃げることではなく、手始めに後ろの邪魔な相手を排除すること。
それだけだった。
「撒きます! カマのち鬼! あの子は避難させて!」
「はいよ!」
鋭く数言呼びかけ合い、アーサーは幹に隠れてポーチから巻物を、ピエールは懐で押さえつけられ揺すぶられ何が何だか分からない様子のハルを引っ張り出し隠れているよう言い含め再び木々の合間を縫って飛び出した。
それを遠目に見るエリザや近くの護衛には、木々が邪魔して詳しい様子は見えていない。
ただ二人が逃げていないことだけを音から悟り、散開して囲むよう言い含めただけだ。
「……なあ、おい」
その女主人の肩を、アーサーが呼びかけたオルランドという男が叩いた。
エリザは振り向いて声の主を認識すると、苛立ち露わに睨みつける。
「何かしら、役立たずのオルランドさん? 今回もどうせ何もする気は無いのでしょう? 黙って突っ立っていなさいよ」
「い、いや、今もう三」
言い掛けたオルランドが、姉妹が逃げた方へ視線を向けた。
深い霧か、煙に似た白い靄が立ちこめている。密度は濃く靄を見通すことは一切出来そうに無いが、範囲は歩幅にして五、六歩分に過ぎない。
「霧の巻物じゃないですか。やっぱりあいつら逃げる気ですよエリザさん」
「あの規模なら大丈夫よ。それよりも使わせてしまったことの方ががっかりだわ。霧は子供の小遣いで買うにはちょっと値が張るのに」
「ですよねー勿体ない、後ろ回ってた奴は何してたのやら」
赤毛の女とエリザが危機感の無い会話を交わしている中。
オルランドだけが、こめかみから冷や汗を一つ垂らした。
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発生した靄を囲う護衛たち。彼らは盾や投げ網、吹き矢など拘束用の得物を手にしている者が多く、殺傷力のある武器を携えている者は少数だ。
「兎ちゃんはどこかなー?」
護衛の一人が、気色の悪い猫撫で声を上げながら靄へ投げ網を投げ入れた。網はすぐに何かに絡み、人間一人分の確かな重みと感触を手へ伝える。
「おいおいもう入っちまったぜ、余裕過ぎ」
「もうちょっと焦らしてやれよつまんねーの」
他の護衛たちが笑い、最後尾で待機していた吹き矢を持つ若い女が林の木へ何の気なしに手をかけた。
そして違和感に気付いた女が幹にある「胸の高さから上へと続く、何かを引っかけたようなかすかな痕」に気付くのと、靄から引き寄せた網にかかっていたのが頭の潰れた死体であったことに護衛たちが気付いたのはほぼ同じ瞬間だ。
「……え」
木の上から飛び降りたピエールが振り下ろす斧の刃が、見上げた女の鎖骨を砕き胴を裂き腰まで食い込む。
同時に、投げ網を投げた護衛とは正反対の孤立した位置にいる率先して野次を飛ばしていた男が靄の外、同じく木の上に潜んでいたアーサーに折れた刃の角で頭頂部を抉り潰される。
背後で響いた、複数の布をまとめて引き裂くような大きな音。
音に反応して振り向いた護衛たちが、身体を七割両断され唖然とした顔のまま濃い血の赤を噴き出す吹き矢の女と、その裂け目から覗く返り血に染まったピエールの丸く大きく見開かれた二つの瞳を目にした。
「あ、あた、あたし、あたし、あたしあた」
何が起きたのか理解出来ないままもつれた舌で呟いた吹き矢の女が、口から血泡を吹いてぐらりとよろめく。
振り向いた護衛たち計四人が、ありえない光景に口をぽかんと開けて反応に遅れた。
その隙は一瞬だが、ピエールにとっては欠伸が出るほど長い一瞬だ。
よろめく女を蹴り飛ばし、反応すら出来ていない手近の一人を袈裟がけに打ち砕いた。
次第に靄が晴れ、周囲の視界が鮮明になり始める。
飛び散った濃紅の血、首を抉られた死体、首に赤い噴水がある死体、頭を割られた死体。
そして、返り血を浴びて爛々と輝く二人の見開かれた瞳。
林の中に、引き攣った絶叫が木霊した。
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「嘘だろ、おい、待てやめろ! 待てって!」
盾を前面に構え、引けた腰でずるずると引き下がる男。
その掠れた叫び声を一切気にかけること無く、アーサーは真っ赤に汚れ折れた剣を男の頭上へ振り上げた。
「ひっ!」
大袈裟に盾を持ち上げた所で、剣ではなく右足を振って盾の下から男の左肘を正確に蹴り上げる。
男が呻いて大きく怯んだ瞬間一歩大きく前へ飛び跳ね、即座にがら空きの胴、鳩尾に踵を抉るように押し込む。
男は反吐を吹きながら盾を放して後ろへ倒れ、後頭部を地面に打って動かなくなった。
念のため喉元を刃の角で抉ってから、不快そうに返り血の上に付着した反吐の雫を拭うアーサー。
周囲をぐりんと見回すと、次に杖を固く握ったままへたり込んで震えている少女が目に付いた。
無傷にも関わらず誰かの血で身体を盛大に汚している少女は全身をがちがちと震わせ涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死で杖の先端の宝石を見つめ呪文の詠唱を試みている。
しかし極度の恐怖と緊張からか、集中力が殆ど無い。
アーサーが駆け出した所で、奇跡的に詠唱が完了し杖の先端に魔法陣と光弾が浮かび上がった。
少女の顔が、一転して歓喜に染まる。
「あ、あはっ、あはははは! 死ね、死ねよバカ女!」
目を見開き大声で笑い声を発し、拳大の魔力の光弾を飛ばす少女。
アーサーは半歩ステップを踏んで、それを軽々と避けた。
笑顔だった少女の表情が凍り付いたように動かなくなる。
「ま、待って! 違うの。あの女が、エリザが命令するから、だから」
だから許して、の「ゆ」の形に口元を歪めたところで、膝頭を踏まれ掲げていた杖を蹴飛ばされ最後に刃が首をなぞった。
一連の動きは実に淡々とした、何の感慨も浮かんでいない事務的な処理だ。
少女は泣きながら血を止めようと首を押さえるもすぐに出血で意識を失い、後には死ぬのを待つだけの瀕死体が残る。
「てめえよくもフィオレを!」
少女を殺されたことに激昂した一人が、後ろから絶叫と共に飛びかかる。
それをまるで背中に目があるかのような完璧なタイミングで、アーサーは振り向き様盾で打ち払った。
盾が刃物を握る指の爪を叩き割り、怯んだ瞬間剣が襲いかかる。
森の道中茂みを払い更に血脂と骨片に汚れた剣には最早切れ味は殆ど残っておらず、男の手の甲に食い込んだ金属の塊は手の骨を砕くのみに留まった。
それでも、戦力と戦意を奪うには十分な一撃だ。
一瞬で戦意を喪失し右手をぶるぶる揺らしながら逃げ出す護衛を、返り血を散らしながら跳ねるように追いかけ後頭部に血で汚れた金属の鈍器を振り下ろす。
ごしゃっ。
焦茶の後頭部に赤と桃の華が咲き、人間だったものが音を立てて崩れ落ちた。
再び周囲を見回し、戦意のある者を全員始末し終えたことを確認したアーサー。
木々の合間から覗く姉の姿を見て、小さくため息をついた。
「……また姉さんに負担を強いてしまう」
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林の中に、喉が引き千切れんばかりの絶叫が轟く。
叫ぶのは背嚢を回収しようとしていた残りの護衛数名。
全員完全に戦意を喪失し、散り散りに逃げ惑う最中。
それを追うのは、返り血を浴び過ぎて血達磨と化した人型の何か。
「あああああ! あああああああ!」
言葉にならない叫び声を上げ背を向けて林を逃げる男の腕を、追い縋ったピエールの真っ赤な手が捕らえる。
腕を捕まれたことに気付き半狂乱の護衛。叫びながら手を振り払おうとするが、抵抗虚しく化け物じみた腕力であっけなく地に叩き伏せられ斧の背で首を潰された。
手を離した後の腕は肉を握り潰され、握っていた場所だけ歪に細くなっている。
殺し終えた相手には目も暮れず、追跡者は素早い動きで地を這い次の標的へと走る。
「ひっ、い、いや……」
太い木の根元でへたり込むのは、ピエールより一回り年上の若い女性。
艶やかな長い黒髪が、恐怖で小刻みに震えている。
「お、お願い、許して。私にも町で待ってる妹がいるの、だから」
妹がいる。その言葉を聞いたピエールの動きが止まった。
何か考える素振りで血塗れの顔を横へ逸らし……
その隙にと毒針を取り出した女の手首を視線も向けずにぴたりと掴んだ。
逸らしていたピエールの顔がゆっくりと、惜しむように横に滑り、女の目を見つめ返す。
振り上げられた斧の背が、防御しようと掲げていた両腕もろとも相手の首へと食い込んだ。
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赤い飛沫と絶叫が満ちる林を呆然と眺めながら、エリザが呟く。
「オルランド……あなた本当にこうなることが分かっていたの……?」
林の光景を同じように見つめながら、思うように言葉が出せないオルランド。
エリザが強く舌打ちし、握っていた鞭で視線も向けずに男の右手を強かに打った。
「答えなさい」
「っ……。可能性は、あった……。昔、俺が見た、魔物と頻繁に、た、戦っている、という、ベテランと、気配が、よく似て……」
「どうしてそういう大事なことを言わないの、だからぼんくら扱いなのよあなたは!」
「いいから早く逃げましょうよエリザさん! もうあいつら手遅れですよ!」
赤毛の女が、全身に脂汗をかきながらエリザを急かす。
我に返ったエリザが荷台に飛び乗り、赤毛の女が御者台へと駆け寄った瞬間。
林の中から、濃血にまみれた斧が飛来した。
飛んで来た物が斧だということを、正確に認識出来たのはオルランドのみ。
エリザや赤毛の女には、気付いた時には御者台にある綱と鳥を繋ぐ金具が投擲された何かによって土台ごと破壊されていたということしか理解出来なかった。
二羽いた鳥の片方が、枷が外れたことで慌てふためいてどこかへと走り去っていく。
未だ繋がれたままのもう片方は、恐怖で毛玉の身体を半分ほどの大きさまで縮こめてしまった。
「ひっ……」
赤毛の女が、自身の目の前を通過し御者台に食い込んだ血斧に息を詰まらせ悲鳴にならない声を漏らす。
一方エリザは流石と言うべきか、この状況でも冷や汗を一滴垂らすだけだ。
悲鳴の類は一切上げていない。
斧から遅れて、林から出てくる二つの真っ赤な人影。
「女二人は私が受け持ちます、姉さんはあちらの槍持ちを。……どうぞ」
背が高い方の血達磨が、背が低い方の血達磨へと何かを手渡した。
剣だ。
半ばで折れ、様々なもので汚れ、とても使い物になるとは思えない元の色も分からないがらくた同然の金属塊。
だが生き残っている三人には、どんな武器よりも恐ろしい死をもたらすものとしてその折れた剣は映った。
受け取った剣にぐっと力を込めたピエールが、オルランドへと駆ける。
威圧感に押されながらも、オルランドは構えた槍を突き出してピエールを迎撃した。
その動きは他の護衛たちとは確かに異なる堂に入った動きで、それなりの戦闘経験があることは想像に難くない。
絶え間なく突き出され、流れるような動きで迎え撃つ槍撃。
ピエールは剣を固く握りしめたまま、ただ打たれ続けている。槍を捌くこと自体は大した苦も無いが、リーチの差を乗り越えて攻撃を仕掛けることが出来ていない。
無心で槍を打ち払い、地を削る足払いを避け、それでも血の奥の見開いた瞳は男の目から一切逸らさないピエール。
優位の筈のオルランドの、背中を這う不気味な感覚は留まるところを知らない。
: :
小盾のみを左手に携え、悠々と馬車の元へと歩み寄るアーサー。
武器こそ持っていないが血まみれで威圧感甚だしいその存在を、エリザは荷台から降り真正面から堂々と見つめ返した。
「驚きだわ。あなたたち一体何者なの?」
「どこにでもいる一介の冒険者。大した存在ではありません」
「謙遜するのね」
「いいえ、これは本心です。姉さんはともかく、私は毎日のように自身の無力さを痛感させられていますよ。……本物の魔物と相対すれば、人間という種族がどれだけ小さい生物かよく分かる。それを知らない、魔物の存在を実際に感じたことのない平和惚けした人間だけが自分を、引いては人間そのものを過信する。そして、こんなつまらないことをする」
服の袖で額の血を拭い、再び爪先でつまらなそうに地面を掻き始めるアーサー。
「谷底の森に棲息している生物に比べれば、私など大蟻一匹に敵うかどうかも分からない小物です。そして、その私に傷一つ付けられないあの護衛どもは本当に取るに足らない。あの槍持ち以外の全員が束になっても、玉葱マン二匹に全滅させられるレベルでしょう。……先ほどの反応からして、あなたがたは玉葱マンを冗談みたいな見た目の雑魚だと勘違いしているようですがね」
アーサーが、突如大きく右手を振り被った。
さしものエリザも身体を強ばらせる中、右手から投擲された石礫が死角に周り呪文を唱えようとしていた赤毛の女の肩に食い込む。
「あぎゃっ、あああ……っ!」
服の上に食い込んだ石が地面に転がり、命中した箇所がくっきり窪む。
アーサーは続けて貧乏揺すりを装い足下から掘り起こしてあった小石を二つ拾って投げ、一つは右の膝頭に、もう一つは左足を狙っていたが寸前で逸れて腿を掠り林へ消えた。
泣きながら呻く赤毛の女を冷たい視線で見下ろしたアーサーが、静かながらよく通る声で通達する。
「そこで大人しくしていてください。逃げる、呪文を唱える、その他何か余計なことをしたら次は顔を狙います」
言い終えてすぐに女へ背を向け、エリザへ向き直るアーサー。
続けて何か告げようとするも、途中で目を細めわずかな不快感を露わにした。
エリザが違和感に顔をしかめた時、正面を向いたままのアーサーが叫ぶ。
「……ハル! 来ないで! 林で待っていなさい!」
だがその制止が効果を発揮することは無く、血にまみれた林の奥から涙目の小さな光る妖精がふよふよと飛び出した。




