08
「はぁ……はぁ……はあ……」
周囲から大型生物の気配も消え、安全を確信した頃。
ようやく森をひた走る二人は足を止めその場に屈み込んだ。
木々の天井厚い薄暗がりの中、ピエールは苔むした岩の上に腰を降ろし、アーサーは木へ背嚢越しに背中を押しつけずるずると姿勢を落とす。
ばつが悪そうな顔のハルは静かにピエールの膝に着地し、椅子になっている姉も優しく膝の上の妖精を抱え込んだ。
「馬鹿……」
息荒く肩を上下させながら、アーサーが絞り出すように呟いた。
背嚢から水筒を外し、中の水を口にする。
横ではピエールとハルが、身体を縮こめ表情と姿勢で無言ながら反省を現していた。
「使う巻物のミスは絶対にするなと常日頃から口を酸っぱくして言っていた筈です。しかも何故よりにもよってあれを使ったんですか、あれは換金用の訳ありだから使うのは本当に追い詰められた最後の手段で、普段は懐の奥に厳重に仕舞っておけって言っていたのに」
「だって……ほら……あの……、水浴びする時胸の中にあったら濡れちゃうからポーチに入れて、それでその後荷物整理した時にポーチに詰めちゃって、それで」
「何故気づいた時に元に戻さなかったんです?」
「ポーチの底の方に詰めてあったから大丈夫だと思って、そしたら、そしたら底の方に詰めておいたんだよ? なのに気づいたら一番上のいかにも最初に掴みやすそうな場所に何故か浮いてきてて……」
「それで最初に掴んだ時に再確認せず広げた、と」
「だって最初の一巻で大丈夫だと思ったんだもん! なのにあれが粗悪品で予定狂っちゃったんだから仕方ないじゃん! それに結果として何とかなったんだし!」
声を荒げたピエールに、アーサーが無言で歩み寄る。
表情を変えずに近づいてくる妹に、姉とその膝の妖精が緊張で顔を強ばらせた。
すぐ目の前まで近づいたアーサーが、ピエールのポーチと胸元に無造作に手を突っ込んで中身を探る。
「あっ、やめ、ちょっと」
ごそごそと中身を揺らしながら、器用に一巻ずつ、計五巻の巻物を掴み上げた。
「……氷、氷、炎、霧、霧。氷のラベルは……二巻とも私が選んだものですね。姉さんが使った粗悪品とやらはペルカが作った試作品ですよ。姉さんがあれと仲良くなって、自信作だからって押しつけてきたのを鵜呑みにして買った物。あの娘は見習いだから止めておけと言った筈ですが、それを押し切って買ったのは誰でしたっけね」
巻物の検分を終えたアーサーが先ほどと同じ調子で至近距離まで近づき、取り出した巻物をピエールの懐とポーチに戻した。
ついでに姉の髪の毛に絡んだ小枝や枯れ葉を、一つずつ丁寧につまんで取り除く。
されるがままの彼女は俯き顔で目を伏せ、頬をわずかに膨らませていた。紛うこと無き拗ね顔だ。
その表情に気づいたアーサーが、口調を緩めて語りかける。
「姉さん。こういう時私が何を求めているのか、分かりますよね?」
俯いたままのピエールが、視線を合わせずぽつりと呟く。
「ごめんなさい」
「よろしい。……それに結果として無事だったのは事実ですし、私にも至らない点はありました。互いに気を付けましょう、ということで」
口角を少し持ち上げる程度に控えめに微笑み、アーサーは距離を取って座り込んだ。
ピエールは未だ俯いているが、その顔は先ほどとは違いもう拗ね顔ではない。
「……ねー、アーサー。あたしは?」
ピエールの話が終わった所で、次はハルが小さな声で呼びかけた。ピエールの膝で小さく丸まる彼女も、気まずい顔だ。
その表情をアーサーは無言で見つめ……すぐに視線を逸らした。
「あなたには特に落ち度はありませんよ。確かにあの茨の道はあなたにとっては安全で、他の生物や毒の危険も無い場所でした。あれは詳しく聞かずに安直に選んだ私の失敗です」
実際には、ハルを責める感情がアーサーに無い訳ではない。
だが理屈の上では発言した通りであり、何より彼女にとって妖精は未だに不気味な存在。不用意に責めたことで妖精の機嫌を損ね、一転して害をなしてくるという可能性を今も恐れているのだ。
故に何も非難はしない。素っ気なく答えたきり、自身と姉の傷の具合を確認し始めた。
「……うー、なんか納得いかない! あたしのことも叱ってよ! あたしだけ別みたいなのはやー!」
「いいじゃんハルちゃん、ハルちゃんは何も悪くないってアーサー言ってるんだし。この子に叱られるのなんていいもんじゃないよ」
「じゃーピーちゃん叱ってよ! あたしにもびょーどーに罰を与えて!」
「えー……」
「ほら早く! あたしを罰して!」
少し悩んでから。
ピエールは何とも言いがたい複雑な表情で膝に座る妖精の小さな頬をつまみ、左右にぐにぐにと引っ張り回した。
変なところに案内してごめんなさい。
そう叫びながら頬をつままれるハルの表情は、何故かちょっと嬉しそうだったという。
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一通りの傷の手当を終え、準備の整った二人が立ち上がった。
ピエールの顔の傷は治癒の呪文で軽い応急処置程度に塞がれ、アーサーの腕や肩には破れた服の隙間から白い包帯が巻かれているのが見える。
頬を少し赤くした妖精は、アーサーの背嚢の上に。
「では行きましょうか。大まかですが東に向けて逃げたつもりなので、それほど道を逸れてはいない筈です」
「また木登る?」
「いえ、必要ありません。森の形を鑑みれば東にさえ進んでいればどうにでもなりますからね」
ベルトポーチから取り出した方位計で軽く方角を確認してから、姉妹は森林行を再開した。
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二人の現在地は今までの森とは異なり、木々の天井の層が非常に厚い。
景色は今までの森より更に暗く、地面には低木や茂みの代わりに苔と茸、それに日陰を好む草が少数生えるだけだ。空気も比較的涼しく、その点では快適と言える。
藪掻きをする必要は無いものの、所々存在する苔の生えた湿った石は滑りやすく二人は相変わらず地面を注視しながら慎重に歩みを進めていた。
「めっちゃキノコ生えてる」
「この辺はキノコばっかり。だからあたしはこの辺のことキノコ林って呼んでる」
「へー。アーサーどう? やっぱキノコは駄目?」
「そうですね。止めておいた方がいいでしょう。幸い食料はあれやあれのおかげで余裕がありますし」
足元を見ながら言い返したアーサーの言葉に、彼女の背嚢に乗るハルが興味を示した。
後ろでアーサーの長い金髪を小さな手で縒ったり解いたりしながら、軽い口調で尋ねる。
「どーゆーこと? キノコなんで駄目? 食べるの? 嫌い?」
髪の毛を弄くられるアーサーは、眉間にぐぐっと皺を寄せながらも前を向いてされるがままだ。
「嫌いという訳ではありませんし人間はキノコも食べられる生き物です。ただ、食べられるキノコと食べられないキノコの見分けが難しい」
「そーなの?」
「私はよく分かんないんだけど、なんかキノコって殆ど同じ見た目なのに食べれるのと食べれないのがあるんだって。その区別がちゃんと出来なくて危ないから、あんまりキノコは食べない方がいいってアーサーはいつも言ってる」
「ふーん……」
生返事を返したハルが、アーサーの背嚢から飛び立った。
周囲を見回して目に留まった一本のキノコを両手で抱え精一杯の力を込めてひっこ抜き、キノコを抱えてアーサーの横へと空中をふよふよ浮きながら戻る。
「アーサーこれは? どんなキノコか分かる?」
地面へ注ぐ視線を外し、一瞬だけ横目を向けて妖精が胸に抱えるキノコを見るアーサー。
そのキノコは少女の細い手首ほどの太さがある若草色のキノコで、真緑の笠には同心円状の白い模様が三つ。
よく見れば、周囲には同じ形のキノコが大量に生えている。見た限りでは最も多く生えているキノコだ。
「……名前は白輪茸。毒性は無く家畜の餌などに使用されることもありますが、食べると腹を壊します。人の食べる物ではありませんね」
「なるほど」
分かったのか分かっていないのか神妙な顔で頷き、ひっこ抜いた白輪茸を適当に投げ捨てるハル。
再び周囲を見回し、目に留まった別のキノコを引っこ抜いてアーサーの前に掲げた。
今度のキノコは細長く、ハルでも片手で握ることの出来るサイズだ。
その癖笠は大きく、ハルが持っているとさながら妖精サイズの傘を差しているかのよう。
「これは?」
「小人傘。食べられるかどうかの区別が付き辛いものです。毒の無い物は非常に美味しいらしいですが、有毒のものは食べた本数一本につき一晩寝込むほどだとか。毒の区別も笠の閉じ具合だの白い筋が入っているかどうかだのキノコそのものの固さがどうだの様々な説がありますが今一つはっきりしない。区別がはっきり付くようになれば一度くらいは食べてみたいですが、そうでなければ食べるつもりはありませんね」
「ふむふむ」
やはり表情だけは真剣な様子で、相槌と共に小人傘を投げ捨てる。
次に見つけたキノコを引き抜こうと飛び付いた所で、
「それは触れるだけで有害なので駄目です」
ぴしゃりとアーサーに言い切られ触れる前に離れた。
結局そこで満足したのか、アーサーの背嚢の上へと戻ってくるハル。羽を休めて気の抜けたため息を一つ。
「アーサーって物知り。何でも知ってる」
「でしょー? 聞いたら大体何でも答えてくれる私の自慢の妹」
そう言って得意気に鼻を鳴らすピエール。一方前にいるアーサーの顔はいつものように変化の無い無表情だ。
「そう言う姉さんにも、私に聞かなくても大体何でも知ってる姉になって欲しい所ですけどね」
「むっ、せっかく褒めたのになんて手厳しい」
「……ハル」
ピエールの言葉を軽くあしらい、アーサーは前を向いたまま背中の妖精へと呼びかけた。
「なーに?」
「この辺りにはどんな生物がいますか? あなたが分かる範囲でいいので」
「んー? この辺? えーとね、えーとね」
アーサーからの頼みごとに嬉しそうな顔をしつつ、小さな可愛らしい声でうんうん唸る妖精。
背嚢の上でゆらゆら左右に揺れながら、記憶にある生物たちを挙げていく。
「えーとね、おーきくてのしのし歩くトリさんとおーきくてツヤツヤしたダンゴムシさんがキノコ食べに来るよ。ダンゴムシさんはね、ノロノローってしててかーいーんだけどたまーにアリさんにどっかに持ってかれちゃう。丸まったツヤツヤのダンゴムシさんがアリさんに転がされて持ってかれちゃうのはちょっと面白いよ。こう、コロコローってね、まっすぐな地面だとふつーなんだけど、坂道だとすごくくろーしてるのがかーいくて、それで」
「団子虫は分かりましたから、他には」
「う、うん、他ね。他……そーそー、きのー見たあのおーきな蛾が時々木にぴたぁーって止まってる。ふと見るとすぐ近くにばーんっていてびっくりしちゃう。それから……。あたしくらいのおーきさのヌメヌメしたナメクジがもー凄いいっぱいぎゅーぎゅー詰めになって進んでることあるよ。あれ気持ち悪くてやー。で、そのナメクジを食べほーだいしにちょっとおーきーカエルが来たりするよ。あのカエルは好きー、ナメクジいっぱい食べてくれるから」
「その中だと危なそうなのは鳥と蟻くらいかな」
「そうですね。それ以外は問題無さそうです。……他には何かいますか?」
「うーんとそれくらいかなー……あ! あともー一つ! もー一ついるよ!」
「それは」
言い掛けたアーサーが口を開けたまま、顔を上げて前方へと目を向けた。
同時にピエールも横へずれて前を見る。
二人が見た森の開けた視界の先、およそ百歩分前にいるのは。
「きゅーこんマン! 歩く根っこのきゅーこんマン!」
見紛うこと無き球根だった。




