03
巨大鼬が体当たりと共に突き出した艶やかな二本の牙は歯とは思えないほど鋭く、さながら涎したたる真珠の短剣だ。
飛びかかられたアーサーは小盾を使い牙を受け流したが、噛み付きと同時に鼬が振り抜いた左前足の爪で太股を浅く裂かれ無言で歯噛みした。引かれた一本の横線から、時間を置いて少量の血が滲む。
茂みや低木をものともせず飛び込み、最初の一撃を加えた大鼬。
少し離れた位置で停止し、二人の姉妹をじっと睨む。
二本の後ろ足で雄々しく立ち上がった様は胴体だけでピエールより頭一つ分高く、尾も含めれば彼女の倍近い体長がある。
足は前後ともに短いが先端には艶の無い黒く乾いた爪があり、長い灰色の体毛の奥にちらちらと見え隠れしている。特に前足の人差し指にあたる部分の爪だけが一際大きい。
一見した主な武器は、その爪と牙の二つだ。
顎を引いて二人を見下ろす大鼬の視線は鋭く、普通の鼬とは明らかに似て非なるものだ。獣の顔の奥にあるのは、純粋な食欲ただ一つ。相手は二人をはっきり餌だと認識している。
獣が姿勢を下げ、攻撃姿勢に入ろうとした瞬間。
ピエールが先手を打ち、力強く吼えて飛びかかった。
「でえええッ!」
手斧を右手に構え、目の前の相手へと肉薄する。
大鼬は突然の獣じみた雄叫びに面食らい一瞬硬直したものの、すぐに落ち着きを取り戻し後退した。細長い胴体をまるで蛇のようにくねらせ、茂みなどものともせずに地面を滑らかに這う。
振り抜いた手斧は宙を掻き、ピエールは地面に着地した。
すかさず大鼬が飛びかかるが、突撃に合わせ手斧をぐぉんと風切り音を立てながら振るうと、直前で器用に急停止し淀み無い動きで斧の届かない位置へと後退する。
一瞬ピエールは鼬を追って追撃を仕掛けようとしたが、地面に生えている膝丈の下草に足を取られる可能性に気づき追撃を中止した。
鼬にとっては走り慣れた森の地面でも、人間にとっては素早い動きを阻害する足枷じみた空間となる。
「砂鼬です。砂には気を付けてください」
ピエールへと忠告を行いつつ、今度はアーサーが盾を構えながら大鼬の元へと歩み寄った。
その動きは実に落ち着いたゆっくりとしたもので、足場を堅実に確認しながら一歩一歩平然と鼬へと近付いていく。
一言も鳴くことなく、低い姿勢のままじっとアーサーを睨む大鼬。
真っ直ぐ進む彼女が、鼬にとっての射程範囲である境に足を踏み入れた直後。
盾が、突撃した鼬の鼻頭を捉えた。
ぼぐぉっ、と肉の中の堅い何かに衝撃が伝わる音がして、噛みつこうとした顔面に盾でカウンターを受けた鼬が怯む。同時に繰り出した前足の爪はアーサーの剣と交差し、互いに表面を削るだけに留まった。
怯んだ大鼬の側面に、隙を突いて襲いかかるのはピエール。
斜めの角度で茂みを飛び越え、背負うように構えた斧を鼬めがけて一直線に振り下ろす。
とてつもない速度と膂力で振り下ろされた金属の塊が、空気を引き裂き地面に刺さる寸前でぴたりと停止した。
当たっていない。
盾に顔から衝突しながらも機敏さを失うことなく、身体をくねらせてピエールの攻撃を回避した大鼬。
距離を取り再び様子を見ようと試みたが、それはアーサーが即座に追撃を開始したことで妨害された。
盾を構え、腿の傷など意に介さず、茂みに動きを阻害されながらもアーサーが一直線に鼬の元へ駆ける。
甲高い風を切る音が休むことなく響き、紅色の刃の軌跡が防戦一方の鼬の眼前を幾重にも滑る。
噛みつきを盾で潰され、武器による射程で負けている鼬は完全に及び腰だ。
二本の前足の爪は間髪入れず攻め立ててくる剣を防ぐのに手一杯、斬撃の合間に噛みつこうと突き出す頭はその度ぴったりと丸盾を合わせられ直前で留まる。
大鼬は反撃の手に窮し、攻めあぐねていた。
そしてその鼬の苛立ちを、不利でありながら後退しない鼬の狙いを、アーサーも抜け目無く感じ取っている。
相手の通称は砂鼬。砂の、鼬だ。
大鼬が苦し紛れに、再び頭をアーサーの顔面へと突き出した。喉頸や肩ではなく、顔面に。
そのことを認識している彼女は、今までのように盾を顔へと押し付けない。
突き出された鼬の顔は大きく上へ反り、ほぼ真上を向くような姿勢まで仰け反る。アーサーの視界にあるのは大鼬の薄緑の毛が覆われた喉元、
そしてその毛に埋もれぽつんと存在している、ほくろのような黒い穴。
砂腺。
砂鼬が獲物を狩る時や、自分より強大な相手に襲われた時に用いる必殺の奥の手。
砂鼬は砂腺から砂か、あるいは灰のような粉状の物体を強い勢いと共に噴出して敵に浴びせかける。この物体は粘膜に触れると即座に強い痛みと炎症を引き起こし、特に大量に目に入れば失明に至るほど強烈なものだ。
例え自身の倍はある大きさの敵に襲われても、砂鼬は砂腺を使い高い確率で逃げおおせるという。
その奥の手は。
アーサーが喉へ叩き潰すように押し付けた盾により、完全に防がれていた。
正面を押さえられた砂は行き場を失い、明後日の方向へ散っていく。
「姉さん!」
砂鼬の最も警戒すべき攻撃をいなしたアーサーが叫ぶ。
ピエールが、再び側面から鼬へと迫った。
ひゅおっ、と軽やかに宙を跳ね、声を上げず静かに飛来する小さな戦士の一つの刃。その速度は先ほどよりも更に速く、そして絶対の自信を持つ砂が防がれた鼬の動揺は先ほどよりも大きい。
灰の斬撃一閃が、鼬を捉えた。
宙を舞うのは前足一本。
鮮やかな鮮血を撒き、緩やかに回転しながら灰色の前足が飛ぶ。
砂鼬は二度目の不意打ちにも反応し、胸を抉り散らすほどの攻撃を足首一本で凌いだのだ。
絶好のチャンスに放った会心の一撃は、予想を下回る結果に終わる。
だが、それで十分だった。
前足を切断された砂鼬はここで初めてぎゃう、と小さな声で鳴き、反転して一目散に森の奥へと逃げていく。
やはり足を一本失っていながら極めて迅速な移動で、一息吐き終える頃にはもう茂みをかき分ける音も、二人が感じていた雰囲気もどこにも存在しなくなっていた。
不利を悟れば、それ以上の被害を受ける前に離脱する。もとより砂鼬の目的は食事であり、リターンよりリスクの方が大きいと知れば逃げるのは自明の理だ。
後に残るのは姉妹と荒らし尽くされた森の一画、そして斬り飛ばされた鼬の足だけ。
漲っていた緊張感が途切れ、大きく息を吐いて肩の力を抜く二人。顔を合わせて力無く笑い合った。
「逃げたね」
「そうですね……と」
飛び散った血を頼りに茂みをかき分け、切り飛ばされた鼬の前足を探しに行ったアーサー。
戻って来た彼女の左手には、大爪の付いた鼬の前足が握られている。既に血は止まっており、力無くだらりと垂れ下がっていた。
足を認識したピエールの顔が、わずかに暗くなる。
「……その足何に使うの?」
「大爪に色々と使い道があるので売り物に出来ます。と言っても良くて一本五十ゴールド程度ですけどね」
「あれ、それだけ? 肉は?」
「食べますか?」
「いや、いい。本気で」
「ですよね。私も流石にあれは辛い。なので肉は放置、皮もわざわざ剥いで加工する余裕が無いので同じく放置。回収するのは爪だけです」
「良かった、また一週間口の中に染み着く臭いに苦しむことになるのかと思ったよ」
「ということで」
左手に握った鼬の前足を剣の刃に押し当て、強引に折り取るように根元から大爪を切断するアーサー。爪をベルトポーチに仕舞い、足部分を適当に放り投げた。
「では足の傷の手当てをしますので、姉さんは周囲の警戒をしておいてくださいね」
「ん」
頷いたピエールが視線を巡らせて周囲へ目を光らせる中、アーサーはその場に座り込んでズボンを脱ぎ始めた。同時に二枚の補助板を取り出し、呪文による応急処置を始める。
処置自体は簡単なものだ。今朝と同じ要領で水を出して傷口を洗い、治癒呪文で大まかに傷を塞ぐ。その上から念の為包帯を一巻きすればそれで終わりだ。
手当てを済ませ、身嗜みを整えたアーサーが静かに立ち上がった。
それから、目の前の姉の表情が優れないことに気づく。その事に違和感を覚えた直後、アーサー自身も気づいた。
新たな何かが、西から二人へ接近し始めていることに。
二人はすぐさま背嚢の元へ戻り、武器を手にしたまま気配の方角、二人が進んできた道の後方へと注意を向ける。
「傷大丈夫?」
「手当ては済みましたし、元々浅いものでしたから問題ありません」
「そ」
小声で話す合間にも、気配は一直線に二人へと接近を続けている。先ほどの砂鼬とは対照的に移動は遅く、小動物の逃げ惑う鳴き声や茂みの揺れる音は一切聞こえない。
音もなく静かに、目前へ迫る気配。
二人が睨み息を飲む中、ようやく現れた気配の主は。
「あ」
妖精だった。
: :
大きさは手のひらに乗せるにはやや大きく、身長にすれば三、四十センチほど。
大きさ以外は殆ど人間と変わらない姿に、蛾と鳥を合わせたような褐色のふさふさした羽を一対背中から生やしている。
身体には白い半透明の薄皮のような服を纏い、髪型は頭の左右で括った短い純白のツインテール。
小さな可愛らしい姿に羽を生やし宙を飛ぶ姿は、まさしく妖精といった風体だ。
まさか妖精が来るとは思っていなかった姉妹が、驚きに目を見開く中。
先手を打って口を開いたのは妖精側だ。
「わーっニンゲンさんだーっ!」
叫ぶやいなやひゅ、と風を切り一直線に姉妹へと飛び込む妖精。
まるで瞬間移動するかのような速度の飛び込みは、目の前に迫る直前でアーサーが突き出した盾に遮られて動きを止めた。
「きゃ、何? 何? 何これ? あっなんかいー匂いする! 何これ!」
いきなり盾を押しつけられるという不躾な行為を一切気にすることなく、それどころか盾に頬を寄せふんふんと匂いを嗅ぎ始める妖精。
盾越しに不穏な気配を感じ取ってすぐにアーサーは左手を引き、再び姉妹と妖精が相対した。
「ねえ、君もしかして妖精さん?」
「そーです! あたしがヨーセーです! そーゆーあなたたちはニンゲンさん?」
「うん、多分人間だよ」
「そーなんだ! やっぱりニンゲンさん! わーい!」
問いかけた言葉に短いツインテールをぶんぶんと揺らしながら勢いよく頷き、終始楽しそうにその場でくるくる回転する妖精。
ピエールはほんの少し警戒する素振りを残しながらも、どこか浮ついた様子で妖精が回転する姿を眺めていた。
「やっぱり妖精なんだ。私初めて見たよ」
「そーなの? あたしも! あたしもニンゲンさんとこーして話すの初めて! ねーニンゲンさんはどーしてここにいるの?」
「えっとね、南の山の道を登ってたんだけど色々あってここに降りてきちゃったんだ」
「南? 南ってどっち? あ、こっち? こっちはねー! おーきなトリさんがちーさなトリさんを守ってるんだよ! 知ってた?」
「うん、知ってるよ」
「そーなんだ! じゃーね、えーとね」
出会ったばかりにも関わらず妖精の興奮度合いは極めて大きく、自身を抑えきれないのかとてつもない勢いで錐揉み回転を続けている。
風圧で姉妹二人の前髪や服がぱたぱた揺れるほどだ。
「あなたの方こそどうして我々の所に来たんですか? 一直線にこちらへ向かっていましたが」
矢継ぎ早に喋ろうとする妖精を遮り、ここで初めてアーサーが口を開いた。
既に好意的な雰囲気のピエールと違い、その顔は警戒や緊張などの様々な感情を抑えるあまりほぼ無表情だ。
尋ねられた妖精は空中で続けていた回転をぴたりと停止してアーサーの顔を見つめ、底抜けの笑顔を見せながら再び今度は八の字で高速飛行を続ける。
「えーとね! なんかすごくいー匂いがしたから! なんの匂いかなーと思ってそのほーこーに進んだらあなたたちがいたの! ねーニンゲンさんってみんなこーゆーいー匂いするの?」
「……さて、どうでしょうね。私たちは数日前に訳あって妖精の好みそうなものを触っていましたから。その残り香が付いているだけでしょう」
「そーなの? 好みそーなものってなーに? おいしーもの?」
「さあ、色々候補があるのでどれが本当にあなたの好みのものなのかは。……姉さん」
妖精の質問を一歩引いた曖昧な態度で受け流しながら、アーサーは放り投げてあった背嚢を背負った。それからもう一つの背嚢を拾い、姉に差し出す。
「ありがと。それにしても妖精が好みそうなものって何か触ってたっけ? 私全然心当たり無いよ」
「姉さんは何でもかんでもすぐに忘れますね、もう少し覚えていてください。……さて、それでは我々は急ぎの旅の最中ですのでこれで失礼します」
ピエールが受け取った背嚢を背負ったのを確認した直後。
二人に対し有無を言わせぬ口調で言い切り、姉の手を引き妖精をその場に置いてすぐさまその場を離れようとするアーサー。
しかし。
「ねーそんな急いでどこ行くのー? もっとお話しよーよー!」
「そうだよ、せっかく妖精さんと会えたんだしもうちょっと一緒にいればいいじゃん」
二人はしつこかった。
アーサーは妖精に見えない位置でピエールを余裕の無い顔で睨みつけ、それから顔を寄せて内緒話の体勢を取る。
傍らにいる妖精を、離れた位置で待機させながら。
「姉さん、あれとあまり深く関わらないでください」
「え、何でさ」
「妖精は何をするか分かりません。奴らは無邪気で不気味で、そして残酷です」
「いやそんなことないでしょ。私知ってるよ。妖精さんは正直に、悪いことを考えずに相手すれば害は加えてこないって」
「それも事実の一端ではありますが」
「まあアーサーは何て言うか、邪だもんね。妖精さんを怖がるのも当然か」
「……そういう訳では」
「あーさーはよこしま? 悪いの?」
「いや悪いって訳じゃないよ。でも」
言い掛けたピエールが、口を半開きにしたまま動きと発言を止めた。
アーサーと一緒に視線をずらすと、二人の隙間に挟まるようにして小さな顔が一つ。
妖精だ。
いつの間にやら忍び寄り、内緒話を立ち聞きしていたのだ。
二人と目が合った妖精が、無言でにこっと笑う。
「あーさーはよこしま?」
笑顔のまま、再び同じ調子で尋ねる妖精。
その仕草にピエールは少し困ったような顔で軽く笑い、アーサーは無表情のまま背筋が冷えるのを感じた。
「……アーサーも別に悪い子じゃないんだよ? ただ何というかね、大切なものと大切じゃないものの差が激しいっていうか」
「あーさーは悪くない?」
「悪くない悪くない。ただちょっと嫌な子なだけ」
ピエールが笑顔のまま言い返すと、妖精も気の抜けた、ともすると気にしていないとでも取れる顔で笑った。
「そっか! ……で、あーさーってなに?」
「あれ、そこからか」
相変わらず笑顔で、空中をふよふよと漂う妖精。
彼女の返事に肩を落として脱力しつつも、ピエールは気を取り直して未だに全身を緊張させているアーサーの肩を掴んだ。
「この子ね。この子の名前がアーサー。私の妹」
「……よろしく」
その様は、まるで借りてきた猫のよう。
緊張で表情を失った顔のまま、ぼそりと一言挨拶の言葉を呟いた。
対する妖精は、意味が分からないという様子で目をぱちくりさせるばかりだ。
「なまえ……」
「そう、名前。で、私の名前がピエールね。よろしく妖精さん」
「なまえ……あっ、名前!」
アーサーに続き、ピエールが挨拶を終えた後。ようやく言葉の意味を察したようで、妖精が声を上げて小さな手をぺちっと叩いた。
「名前! そっか、おーきーほーがピエール、もっとおーきーほーがアーサー! よろしくね! あたしも! あたしも名前あるよとっときの! 聞きたい? ねー聞きたい?」
「うん、聞きたいな。妖精さんは何て名前なの?」
さわやかな笑顔で返したピエールに満足げに頷き、妖精は大きく息を吸い込んだ。
そして放った発言は。
「遙かなる深遠の地より至りし深き惑いの如く淡い夢幻をもたらす飛脚の主の頂に座りし翼!」
「……うん?」
一切の淀みなくすらすらと発された、まるで不思議な呪文のような何か。
思わず聞き返したピエール。妖精は再び頷き息を吸い、
「遙かなる深遠の地より至りし深き惑いの如く淡い夢幻をもたらす飛脚の主の頂に座りし翼!」
全く同じ調子で同じ言葉を呟いた。
「えーっと……遙かなる……永遠の……?」
「遙かなる深遠の地より至りし深き惑いの如く淡い夢幻をもたらす飛脚の主の頂に座りし翼!」
「……」
「遙かなる深遠の地より至りし深き惑いの如く淡い夢幻をもたらす飛脚の主の頂に座りし翼! それがあたしの名前! ねーかっこいーでしょ!」
思わずぐっと眉を寄せ、ピエールは目を閉じ思案に暮れた。
「……よし、ハルだ。ハルちゃん」
「違うよ? あたしの名前は」
「愛称だよ愛称。親しみを込めてハルちゃんと呼ぶ。いいね?」
「……あいしょー! いーね!」
妖精さんが単純で助かった。
内心でそう思いつつ、喜びのあまり高速飛行を始めるハルをピエールは穏やかな顔で眺めていた。
その後ろではアーサーが、妙なものを見る目で二人を見つめていた。




