01
-夜鳴谷森林紀行-
西大陸の峠道で暴れる魔物に襲われかけ、谷底にある森林地帯へ転げ落ちた二人。そこは「夜鳴谷」という異名を持つ、夜になると時折何者かの鳴き声とも自然音ともつかない謎の音が木霊する不思議な場所。
その夜鳴谷の、谷底の森を姉妹が脱出する話。
山の急斜面を、二人の人間が谷底めがけ滑り落ちていく。
片方は背が低く、鮮やかな茶髪を後頭部やや低い位置でまとめた明るい雰囲気の少女だ。ひいひい間の抜けた声を上げながら、姿勢を崩し転がらないよう体勢を維持しつつ靴底や手袋を削り滑っている。
もう片方は女性にしては割合背の高い、釣り目で目つきの鋭い少女。肩の先で括ったくすんだ金の長髪が、滑り落ちる勢いでばたばたと跳ね回っている。やはり彼女も余裕の無さそうな顔で、自身の姿勢を必死で押さえていた。
二人の格好は旅人然とした、色気も露出も無い暗茶一色の地味な格好だ。
唯一女性らしさのあるズボンの上から穿いた分厚く短い革スカートが、やはり滑り落ちる勢いに負けて振動を続けている。
斜面を滑り落ちる二人は姉妹で冒険者。その背中の背嚢には穴が開き、中身を盛大に撒き散らしていた。
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荒れた山肌を谷底まで滑り落ち、ようやく停止した二人。
背の低い茶髪、ピエールは背嚢を背負ったまま地に両手を突き、長身の金髪、アーサーはその場に足を伸ばしてへたり込んだ。
二人の口から、それぞれ調子の異なるため息が伸びる。
「……最悪」
アーサーが忌々しげに一言言い捨て、背中の背嚢を降ろして開いた穴の大きさと斜面に落下して失った物の確認を始めた。
あれが無い、これが無いなどと呟きながら、合間合間に漏れていくため息。
一方のピエールも背嚢を降ろし、勢いを付けて立ち上がった。
周囲を見回し、自分たちが落ちた場所の確認を行う。
まず先ほど滑り落ちた岩壁。
見上げた山の斜面は、急な灰色の壁が見上げる限り遙か上まで続いている。登ることはとても叶いそうにない非情な高さだ。見上げた空も、やや暮れ始めている。
続いて視線を降ろし見回した周囲は、鬱蒼とした森が斜面を背にして全方位に広がっている。
木々の大きさはまばらで低木や茂みなどが高密度に生え並び、人の目線の高さで見る視界は悪い。一目見るだけで、ここが人の手の入った領域ではないことが明らかと言えよう。
ピエールは再び、小さくため息をついた。
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二人の現在地は、西大陸南部の山岳地帯。
事の始まりは険しい山々が立ちはだかる山岳の唯一の通り道である、細い峠道を通過中のことだ。
それまで順調に進んでいた二人の旅路を遮ったのは、山頂の広い空に現れた巨大な鴉。
その大きさたるや猛禽どころか空を飛ぶ巨象の如し、黒水晶のように輝く知性の宿った瞳を持ち、翼を広げ空を悠々と覆い隠す空の主と呼ぶに相応しい黒一色の巨体。
事前に話に聞いていたこの山岳地帯、通称鴉山の主である大鴉の魔物だ。
彼女たちがその存在に気付いた時。
視線の先にあったのはかつて旅人だったと思われる細切れになった数人分の肉片、眼前に魔法陣を出現させたまま金切り声で鳴く大鴉、そして地面に横たわる首の折れた小さな鴉の死体だった。
麓の宿屋の主人曰く。
この峠道には多数の鴉が警戒心とは無縁に無邪気に暮らしているが、いくら無防備に近寄って来ても決して彼らに危害を加えてはならない。
鴉山の主は通行人には寛大だが、仲間を攻撃されれば例えどこにいようとその巨翼に怒りを纏わせ出現し、害成す者を骨まで微塵に切り刻むだろう。
大いなる空の主は、畏敬を持って敬うべし。
彼女たちの少し前を進んでいた旅人の集団は、愚かにもそれを知らずに近寄ってきた鴉を絞めてしまったのだ。
結果彼らは山の主の裁きを受け、その近くにいる二人が巻き添えを食わないとも限らない。
そうして姉妹は怒りに満ちた鴉の注意が自らに向く前に、半ば追い立てられるようにして峠道から斜面を滑り落ち、谷底の森林地帯まで落下したのだ。
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「どうするー?」
森を眺めていたピエールが振り返り、間延びした口調で後ろにいる妹へと問いかけた。
当のアーサーは二つの背嚢の穴を縄を使って急場しのぎで塞ぎ終え、岩壁に引っかかった袋へと小石を投げている最中だ。
二度投げた小石の内の一つが袋に掠り、岩壁を転がって来るのを受け止める。
袋を胸に抱えたまま、ピエールへと振り向いた。
「登るのはまず無理でしょうね。このまま森を通って東へ抜ける他ありません」
「うえーっ、やっぱり森かぁ。せっかく人懐っこい鴉と触れ合いながら楽々通れると思ったのに」
「それともう一つ、残念なお知らせがあります」
「……アーサーがそう言う時はいつも本当に残念だから聞きたくないなあ」
「背嚢に穴が開いて中身が漏れた結果、無くなったのは主に食糧と水です。大分減ったので現地調達をしないと保ちません」
「ほらやっぱり聞きたくなかった……食べ物無いんだ……まじで……」
「小分けにしていたので多少は残っています。とはいえ森林行がどれだけかかるか分かりませんから、出来る限り調達出来る物は調達したい所ですね。……ともかく、移動しましょうか。崖の真下は危険ですし暗くなる前に今日の寝床を確保しないといけません」
「そうだね」
アーサーに急かされ、ピエールは地面に置いていた背嚢を再び背負った。
側面に開いていた穴はねじって絞られた上で縄で結んである。多少心許ないが、それでも背負って歩く分には問題は無さそうだ。
そして二人は、はるか上空から聞こえる鴉の鳴き声を背に森を分け入って行く。
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夕暮れの森は天井を木々に覆われ、人の背より少し高い程度の低木も茂っている為相当に暗い。
時折どこかから鳥や蛙の鳴き声が遠く木霊しては、谷を抜ける強風による木々のざわめきでかき消されていた。
森の中、先頭に立つのはアーサー。
右手に携えた細い薄紅色の剣を振るい、植物をざしざしと切り払い足元に気を付けながら森を進む。藪を掻く為の刃物ではない為少し効率は悪いが、茂みを払う手つきは慣れたものだ。
ピエールが、周囲を警戒しつつも後ろに続く。
「ちょっとぴりぴりするね」
「そうですね。茂みの合間に大型の通過跡が残ってますしうっすらと獣の臭いもします。何かがこの辺りを頻繁に行き来しているのでしょう。もう少し移動しますよ」
「分かった」
二人は二言三言場所に対する会話を交わしては、気に入らなかったらしくまた次の場所へ、他の大型生物の雰囲気や痕跡から離れるように移動していく。
定期的にアーサーが左手に握る小さな方位磁石を確認し、方角やそこから測れる位置を計算しながら。
茂みを払い、落ち葉を踏み、小声で話し合う音を立てながら暮れ始めた森を進む二人。
彼女たちの耳に、それらの音に混ざりどこからともなく聞き慣れない音が聞こえてきた。
アアアア……。アアオ、オ、アアア……。
それはまるで、巨大な魔物の遠吠えのような。
かと思えばただの谷を抜ける風の音のようにも聞こえる、不気味ながらどこか情緒のある謎の音だ。
歩みを続けながら、二人が空へ耳をそばだてる。
「今、聞こえたね」
「あれが例の由来の音でしょうか」
「そうじゃない? 確かにこれは何か鳴いてるように聞こえる」
鴉山には、一つの奇妙な現象がある。夕方から早朝にかけて時々何かが鳴くような、強風で響く音のような、不思議な音が谷を抜け、山中に響き渡るという。
その現象を元にした、鴉山のもう一つの呼び名。
それが、夜鳴谷。
突然響いた音は幾重にも重なり、やがて木々の隙間へと消えていった。
「何の音だったんだろうねあれ」
「音からすると風の音が変に反響して響いてるような印象ですね。ただの風にしては奇妙ですが、鳴き声にはあまり聞こえません。というより、鳴き声であって欲しくない」
「何か不気味でやばそうだもんねこの音、っと」
ピエールが何かに気付き、アーサーに視線で呼びかけた。
同じようにアーサーも、口を閉じて前方やや斜め、森のある一点に視線を集中する。
「そっち。何かいる」
「……見てください、あそこ。凍土蜘蛛の巣です。あの落ち葉の隙間に見えてる糸を踏むと、反応した蜘蛛が呪文で一気に地面ごと足を凍らせて、獲物を捕まえ地中に引き込むんです。だからよく見るとあの周囲には植物が生えていない。落ち葉や生の枝を撒いてごまかしていますが」
「えーっと……あのちょっぴり出てる真っ白なキノコみたいなのかな。あれが糸なんだ。暗いのもあって気配しか分かんない」
「実際は落ち葉の下にもっと広がってますよ。丁度いいので、あれを始末して巣とその周囲を寝床として拝借しましょう。私には感じられませんが、姉さんも他には何も感じませんよね?」
「他は……いそうにないね。じゃああれにしよっか」
周囲の地形を確認し、ピエールは背嚢を降ろした。
糸を警戒して少し遠めに、アーサーから見て左へと回り込む。一本の木を背に、鞘から得物を抜いて右手に構えた。
手にしたのは色が滲んだようにぼやけた白みがかった金属で出来た、中型の片手斧だ。刃は片刃で、多少使い込んだ痕跡はあるもののまだ新しい。刃の部分だけが、念入りに研がれて光沢を放っている。
一方のアーサーは背嚢を背負ったまま、周囲を見回して手頃な石を確保していた。
人の頭程度の大きさで、それなりの重量がありそうものを二つ。
「いきますよ……はっ」
呼びかける声と共に、アーサーは抱えた石を先ほど示した白い糸へと投げ落とした。
どん、と音を立てて石が落ち葉の中に沈む。続いて、もう一つを落下した石の上に当たるように再び投げ入れる。
二つの石が落下した後。
一瞬の間を置いてから、淡い魔力の白光が地面から落ち葉の隙間を通って迸った。
薄暗い森を照らす光はある一点から周囲へ放射状に広がり、落ち葉ごと地面と石を白く凍らせる。
ぱりぱりに凍った落ち葉を散らしながら、地中から蜘蛛が頭を出した瞬間。
ピエールが糸と呪文の範囲外から、斧を構えて飛びかかった。
低い姿勢で一っ飛びに光の放たれた中心部まで飛び込み、片手で手斧を横に薙いで地面から飛び出ていた濃紺の蜘蛛の前足二本と頭胸部の半分を斬り飛ばす。
更に間髪入れず刃を返して目や牙の無くなった蜘蛛の胸へと真上から斧を振り下ろし、刃先を深々と地面にめり込ませた。
ずどん、と大型生物の足踏みに似た音が鳴り、地面から色濃い体液の飛沫が跳ねる。
やや遅れて、宙を舞っていた蜘蛛の前足が茂みに落ちて音を立てた。
この時点で動いているのは、斬り飛ばされ痙攣している前足だけだ。
「上手くいきましたね」
飛んでいった部位を回収したアーサーが、凍てついた落ち葉を踏みながらピエールの元へと歩み寄った。
凍土蜘蛛の二本の前足は人間の腕ほどの長さでごわごわした堅い毛が隙間無く生え、吹き飛んだ頭部分は握り拳よりいくらか大きい。顔には、大きさのまばらな八つの瞳と不釣り合いなほど巨大な鋏角が生えている。
「そだね。よっと」
地面に突き刺さったままの斧をピエールが両手で捻って持ち上げると、地中に埋まっていた凍土蜘蛛の胴体が引きずり出され露わになった。
胴体はおよそ一メートル、人間の子供程度。その胴に、毛の生えた足があと三対付いている。身体は全体的に縦長で、濃紺の身体に水色の模様が少し浮かんでいる。抉られた断面から、体液を緩やかに垂らしていた。
「これで丁度いい食事と寝床が両方確保出来ました」
アーサーが足で凍った落ち葉を少しかき分けると、蜘蛛の潜んでいた地中の穴がはっきりと現れる。
広さは二人が入って少し狭そうな程度、かなり緩い斜めの角度になっている為少しの手間で中に入れる寝床として活用出来るだろう。
だが、上手くいったにも関わらずピエールの表情は優れない。
「……食事?」
「食事」
無表情でピエールが聞き返した言葉を、当然とばかりに頷いて返すアーサー。
掲げた蜘蛛の足の断面はみっちりと肉が詰まっている。青黒い体液で、汚れてはいるが。
ピエールの頬に、汗が一筋垂れた。
「……い、いやだ」
「何言ってるんですか貴重な肉ですよ」
「嫌だよだって虫じゃん! 虫!」
「毎度毎度虫食如きでぴーぴー言わないでください。非常時ですし大人しく食べて貰いますからね」
「嫌……あ、そうだ! 蜘蛛って毒とかあるんじゃないの? あるよね? 無理じゃん!」
「凍土蜘蛛の毒は熱を通して口内の傷を避ければ普通に食べる分には問題ありません。どうしても嫌というなら毒の無い不味くない部位だけ選りますから」
「選っていいなら私が残ってる保存食食べるからアーサーが蜘蛛全部食べなよ!」
「そんなことしたら食事が偏るでしょうが! ほら早く背嚢持ってきて穴の点検と掃除してください、蜘蛛を捌くのは私がやりますから!」
「絶対食べない!」
「絶対食べて貰いますからね!」
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森の夜は喧しい。
虫が鳴き、小動物が鳴き、草木がざわめく。
多種多様な生物の音を背景に、暗闇の中に小さな火が一つ灯る。
「足の肉です。筋肉にしては柔らかいですが、淡泊でそれなりに食べられます。岩塩は削っておきましたので塩を振ってどうぞ」
小さな火を目の前に、ピエールとアーサーが並んで蜘蛛穴から上半身を出して寝そべっている。
穴の横には背嚢が置かれ、食糧の袋だけは穴の底に。
アーサーの左手側には捌き終えた蜘蛛肉の小山があり、小さな灯火の周囲は小さな土の壁で囲われ申し訳程度に明かりを閉じこめていた。
アーサーが手袋越しに握るナイフの先で、痛んだ鳥肉のような黄色としたたる体液の青が織りなす青黄の肉がじっくりと焼けていく。
蝋燭程度の小さな灯火を余すことなく使い表面が軽く焦げるまで念入りに火を通してから、ピエールの目の前にある皿代わりの葉の上に焼けた蜘蛛肉片がぺちょっ、と置かれた。
「……」
最後に一度、捨てられた子犬の目でアーサーに無言の嘆願を仕掛けるピエール。
だがアーサーが有無を言わせぬ顔で返したのに負けて、別の葉皿の上に盛られた赤黒い岩塩を一摘み振ってから自身のナイフで蜘蛛肉を刺して口へ運んだ。
新鮮な蜘蛛肉は火が奥まで通った状態でありながら確かに柔らかく、生の肉か魚のような食感だ。味も特別不味いということはなく、水で薄めた乳のような薄いクリーム系の風味がどうにも邪魔な以外はただの淡泊で無味な肉、という程度。十分食べられる範疇と言えよう。
だが、ピエールの表情は優れない。
「不味くはない……不味くはない。味付けに失敗した半生のうさぎ肉って感じ。塩あるし十分食べられる」
「表情からして本心では無さそうですが」
「いや今の感想は本当だよ。……でもさあ、やっぱり虫食べてるっていう気分がどうしても消せない。今にも舌の上でぴちぴち跳ねるんじゃないかって気が気じゃない」
「そんな訳無いじゃないですか……姉さんはどうして変な所ばかり繊細なんですか」
「私的には変な所、っていう感じは全然しないんだけどなあ」
「普段こんな風に土にまみれて野外生活したり、大型昆虫だろうが異形の魔法生物だろうが返り血浴びながら命懸けで戦えるのに虫食、それも大型のものまで駄目というのがどうにも釣り合いが取れていないんですよ。虫は見るのも嫌触るのはもっと嫌食べるなんてもっての外、なんて言うなら分からなくもないですが」
「……いやーん、わたくし虫なんて怖くて触れませんわぁ」
冗談めかしたピエールの、演技の入った一言。
それを聞いたアーサーは顔の片側だけを持ち上げた引き攣った、それでいてはっきりと嘲笑の篭った愛想笑いを浮かべてただ一言、
「へっ」
と曖昧に笑い返した。
妹とは思えぬ冷淡な反応に、早々に顔を俯かせてピエールは作った表情を止める。
「……アーサーまじ冷たい。鬼畜、泣き虫、頭でっかち」
「いきなり変な真似をするからつい素の反応が表に出てしまいました、許してください。お詫びに焼きたてのお肉をあげますから」
「それでお詫びに出てくるのがやっぱり蜘蛛か! 全くアーサーは!」
ピエールが小声で小うるさく怒る合間にもアーサーの作業は続けられ、次々と足肉がピエールの葉皿の上に堆積していく。
葉っぱ一枚に収まり切らないほど焼けた肉が乗った時点で、アーサーは足肉を焼くのを一端止めて別の部位を焼き始めた。
ピエールの興味が、先ほどの足肉とは全く異なる肉片へと移る。
その肉、色が藍一色だ。一口サイズに薄く切り分けられた食欲を損なう藍色の塊は、艶があり嫌な滑らかさがある。
色を除いた見た目の質感は、鳥の肝臓に近い。
「……それどこの肉? さっきのと全然違うね」
「心臓です。色が凄いでしょう? 凍土蜘蛛の内臓はこんな色なんですよ。味は足よりずっと悪いのでこれは私が食べます」
何の気なく発されたアーサーの返事に、ピエールがわずかに瞼を持ち上げた。
「え、不味いからアーサーが食べるの?」
「毒の無い不味くない部位だけ選るって言ったじゃないですか。食べるに足る部位は足と胸の肉、それに心臓だけですし、姉さんが食べる分は足だけですよ。量は十分なので他は私が食べます」
妹の説明を聞いて、ピエールの眉尻がすっと下へ垂れ下がる。
「自分で言っといて何だけどアーサーにだけそういう部分食べさせるのって悪い気がする……」
「いいんですよ。私は食べるだけなら大抵の食事には抵抗がありませんから。美味しい物は二人で分け合いたいですが、不味いものは私が担当しても構いません」
「いや、そういう訳にはいかないよ。どうせ虫って時点で何食べても同じだし不味い部分も一緒に分け合おう。それちょうだい」
にっ、と笑って自身のナイフの先でアーサーが焼いている肉を指すピエール。
その笑顔を見たアーサーは一瞬の間を開けてから、心の底から嬉しそうに、しかしあくまで控えめににこりと微笑んだ。
表情の変化は本当に些細なものだったが、二人にはそれで十分だ。
「……では他の部分の蜘蛛肉も姉さんに分担して貰いましょうか。心臓が焼けたのでどうぞ」
「よっし」
アーサーが自身の葉皿に乗せた、焦げ目すら青っぽい肉片。それをピエールは意気揚々と塩を振って口内に放り込み、
即座に顔をしかめた。
柔らかい。
まるで煮過ぎて完全に崩れ切った野菜のように。舌で押すだけで簡単にどろどろになって崩壊し、筋に似た固い何かだけが残る。
その上変な薬品じみたすっとする臭いとえぐ味が濃い。
まるでハーブ類のえぐ味だけを濃縮して、負の肉っぽさを加えたような不快さ。
それが、高い粘度で口内に纏わり続ける。
これは肉ではない。もっとおぞましい何かだ。
「……」
「……あの、本当にいいんですよ? こっちは私が食べますから」
何も言わず、泣きそうな顔のまま黙々と口内に残った固い筋を咀嚼するピエール。その様子に流石に不安の色を見せたアーサーが提案するも、彼女は頭だけを振って拒絶し顎を動かし続けた。
強がってないで素直に諦めなよ。そう言い続けるもう一人の自分と頭の中で必死に戦いながら。
: :
アアオ……アオオア……。
灯火が消え月の光も届かぬ闇の森に生物たちの鳴き声が延々と鳴り続き、その合間に時々思い出したように何かの鳴く音が響く。
その喧噪に、ごく小さな二人の囁きが紛れ込む。
「意外と暖かいね」
「そうですね。穴の大きさもそうですし気候自体も丁度いい案配です。寒くないのは本当にありがたい」
「寒いのは嫌だもんねー……」
ふわあ、とどちらのものとも取れないあくびが闇の中に一つ。
「ではおやすみなさい姉さん。適当なところで起こしてくださいね」
「うん、おやすみアーサー」
囁きは消え、再び暗闇を生物たちの鳴き声が支配した。
アア……アアア……。
どこからともなく、何かの音がする。




