王国の竜・おまけ「彼女が山を嫌う訳」前
アミーモ湿地の泥は粘る。
泥をすくって乾燥させた分にはきめ細かいただの土だが、水を含んでいると途端に固まりかけた蜂蜜のような粘りを発揮し、踏み入れた人間の足を容赦無く絡め取る不快で有害な沼地と化すのだ。
アミーテの町の食事は不味い。
アミーテはアミーモ湿地の中央部、わずかに存在する乾いた盛り上がる地面の上に縮こまるようにして存在する小さな町だ。
まるで黴が宙を浮いているかのように見える白い靄と、その間に見え隠れする植物のやはり黴を思わせる緑が織りなすアミーモ湿地の景色が、どの方向を向いても果てしなく続いている。
アミーテの町の主食はアミーモ湿地で取れる芋、アミイモ。
沼の粘る泥の中で生育する人の手首ほどの太さの芋で、まるで網のような格子状の形になる為この名が付いた。湿地のそこら中にいくらでも湧いて出てくるアミイモを住民たちは泥をかき分け採集し、干し、焼き、時にはすり下ろし主食としている。
アミイモは不味い。
風味やうま味らしきものは殆ど無く、ほんのりと苦い。その上アミーテの水は湿地の泥を絞って濾そうが、地面を深く深く掘って水を汲み上げようがどんな方法を用いてもうっすらと白い濁りが残り、害こそ無いもののそれがまたごくわずかな苦みを持つ。苦い水で苦い芋を調理する。どこまで行っても、アミーテの食事は不味い。
年中靄を湛える陰気な湿地に囲まれ、粘つくような湿度が不快感を募らせ、口にするものはことごとく不味い。町に住む人々は皆どこか鬱屈した、不満の満ちた表情をしている。
だが、それでもアミーテの町から人が消えることはない。
それはこの町が味はどうあれ飢えとは無縁で、そして南の中央都市エルテンドルムと北東の山を越えた港町シャルンを結ぶ唯一の中継地点だからだ。
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黴の生えた痕跡である灰色の染みが点在するベッドに膝を着いて、ピエールは憂鬱そうに窓から外を眺めた。
視界にあるのはいくつかの家屋、そして見渡す限り広がる白く濁った広大な湿地。天気は快晴で空には大きな太陽がでかでかと登っているが、にも関わらず大地は湿度と不快感に満ちている。
つまらなそうに窓の外の景色から視線を外し、ピエールは室内へ目を向ける。
殺風景な宿の個室にはベッドが二つ。どちらも綺麗とは言いがたい染みの付いたもので、室内もじっとりとした湿度とかすかなアミーモ湿地の泥の臭いが充満していた。
ベッドの隅には背嚢が同じく二つ。一つはピエール自身のもので、もう一つの背嚢の主は現在外出中だ。
ピエールはため息をついて、ベッドの上で膝を抱えて丸くなった。
シーツは乾いている筈なのだが、湿気のせいでどうにも居心地が悪い。彼女の編み込まれた後髪も、整ってはいるのだがどこか精彩を欠き色褪せて見える。
「はぁ……」
自分以外誰もいない部屋で、ピエールは一人ため息をついた。不満たらたらといった様子で横になり、身体を左右に揺すってはまたため息を一つ。
どれだけの間そうしていたのか、ひとしきり脱力していたピエールがぴんと瞼を跳ね上げ起き上がった。
部屋の外から響く、ぎしっ、ぎしっ、という床の軋む一際大きな音。
やがて足音は階段を登り終え、やはり床板を軋ませながらピエールのいる部屋の前までたどり着く。
「戻りました、姉さん」
「おかえり」
扉を挟んで一言交わしてから、扉を開けて部屋へと戻ったアーサー。
耳を覆う程度の長さの金髪はピエール同様手入れをされているものの、やはり艶を失った真鍮のようなくたびれ方だ。
「どうだった?」
「食事を調達してきました、その後にしましょう」
言葉と共にアーサーが掲げた右手には、黄色がかった緑色の大きな包み。
湿地に生える植物の葉を包み紙にしたものだ。
「……うん」
食事と聞いたピエールの顔が、一段階かげりを帯びた。よく見れば、アーサーの顔にも陰鬱さがはっきりと現れている。
ピエールが座っていたベッドに、アーサーが並んで腰掛ける。蔓で出来た紐を解き、膝に乗せた包みを広げた。
むわぁ。
湯気と共に立ち上る、アミイモ独特の泥臭い臭い。ピエールは言葉こそ口にしなかったものの、顔をはっきりと歪めた。
中身は輪切りにしたアミイモと鳥に似た濁った灰色の肉塊。そして、人の指をそのまま切り取ったかのような形のパンパンに膨らんだ白い何かの塊。どれも火を通してあり、きつね色の焦げ目が付いていた。焼き加減だけは申し分無い。
「もう嗅いだだけで分かる。不味い」
眉間にきゅっと皺を寄せ、ピエールが一言呟いた。アーサーも似たような顔だ。
「でしょうね」
「私はいいや。持ってる保存食で何とかするからアーサー食べなよ」
「何言ってるんですか、それはここを出てからの分ですよ。これでも真っ当な食事であることには変わりないんですからちゃんと食べて下さい」
「うー」
「うーうー言わない、さあ」
包みに付いていた小さな木串を突きつけられたピエールは、顔から態度から嫌そうな雰囲気を全開にしつつもそれを受け取りアミイモの一片に突き刺した。
同じタイミングでアーサーも木串に芋を引っかけ、同時に口へと運ぶ。
もっ……もっ……もっ……。
湿った宿屋の一室に、二人がアミイモを咀嚼する音だけがやけにはっきりと木霊する。長い時間をかけ、芋を飲み込んだピエールが一言。
「苦しょっぱい」
「塩味が濃いですね。苦味を塩気で塗り潰そうとしているのでしょうか。結果として苦くて塩辛いという二重苦に陥ってます」
「とりあえず芋はもう後でいい。でアーサー、こっちは何? 鳥肉?」
木串の先で大量に残っているアミイモを端へ寄せ、ピエールは灰色の肉を突いた。肉は柔らかくも弾力があり、串で突くと半透明の肉汁がじわりと染み出してくる。
「蛙ですね。沼地に棲む子犬程度の大きさのアミーモ大蛙という名前の蛙で、やはりアミイモ同様ここの重要な食料の一つだとか。露店で生きたまま吊されてたのをその場で捌いて焼いて貰いました。ちなみにこっちの白いのは蛙の卵です。一つずつ切り分けているので変な形ですが」
「蛙……蛙かー……鳥じゃないのはがっかりだけどまあましな方か」
力無く笑ってから、ピエールは蛙の肉を木串で刺し口へと運んだ。
弾力のある滑らかでつるつるの蛙肉は、噛むと溢れんばかりの肉汁を滴らせる。これがまた何とも言いがたい味で、アミイモに比べれば苦味は少ないのだがマイナスのコクとも言うべき深さのあるえぐ味がじわぁ……と肉汁に乗って口内を駆け巡った。
もぎゅ……もぎゅ……ぎゅ……。
先ほどの芋の咀嚼音より一回り大きい蛙肉を噛む音。弾力のある蛙肉は歯応えがあり、必然的に溢れる肉汁と深いえぐ味を長く味わうことになる。
死んだような目で、一言も発さず肉を飲み込み終えた二人。
「芋よりはまし。芋よりは」
「凄いですねこの、深みのある不味さ」
はあ……と揃ってため息を一つ。
それから次は蛙の卵らしき白く細長い楕円の塊に木串を刺す二人。
火を通したからなのか膨らんで張り詰めたそれは、木串を刺すとぴゅっと白く濁った濃厚な液体を噴出した。
この世の終わりを見たかのような顔で、ピエールは無言のまま隣の妹へ視線を投げかける。
「栄養価だけは高いらしいですよ、その、卵。味は知りませんが……半分ずつは我慢して食べましょう」
やはり一言も発さないまま、ピエールは視線を力無く液体を垂れ流すそれへと戻した。
意を決して、一口にそれを口内へ放り込む。
むじゅ……ぷちゅ……ぶにゅ……。
噛み応えのある分厚い表皮の中には、濃ゆいクリーム状の物体がみっしりと詰まっている。そしてそのクリームの中に点々と散らばる、何かの塊。
舌に絡みつくそれを、何とか消化し終えた二人。
「……苦クリーミィ」
「何とも言い得て妙ですねその例え」
「そうかな、はは……全然嬉しくない」
「さ、その勢いで残りも頑張って消化しましょう」
「……」
長い長いため息が、宿屋の一室に響き渡った。
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「で、どうだった?」
食事を終え、謎の疲労感と達成感で脱力しベッドの上でぐったりと横になっているピエール。
隣のベッドではアーサーが同じように放心して仰向けに倒れ込んでいた。
「本当に駄目みたいです。先週の嵐で山が崩れて、山間の道は未だに通行不能。現在復旧作業中ですが少なく見てもあと一ヶ月はかかるとか」
「長っ」
「どうしましょうかね……」
ぼそりと呟き、アーサーは仰向けのまま膝を抱えて身体を丸めた。
二人の現在の目的地はアミーテの町を経由し山を越えた北東の港町、シャルンだ。
そこからいくつかの船を乗り継ぎ、最終的に北大陸西部の港町、サリエットへ行く予定になっている。
だが、アミーテからシャルンへ行くには横長の低い山々が邪魔をしている。
予定通りならばアミーテの近くにある山間の道を通って比較的安全に行くことが出来るのだが、その道は現在通行不可。
「どうするの?」
「選択肢は四つ。山道を登る、山脈を迂回する、待つ、引き返して別の場所へ」
「待つのは絶対やだ」
「私だって嫌ですよ。一月もこんなところで芋やら蛙やら何やら食べてたら舌と頭がおかしくなります。かといってあの屑どもがいるエルテンドルムに戻って一月待つのもお断りです」
「じゃああと三つ。引き返すのは最後の手段として……山道を登るのと山脈を迂回するのは?」
「迂回は単純に時間がかかります、それこそ月単位で。中継地点も無いので一旦引き返して食料を山盛り搭載して、その上で道中で食料を賄いつつ進まなければならない。道無き道を進むので危険度もそれなりにあります」
「それもう絶対行かないって言ってるようなものじゃん。じゃあ山道は?」
ピエールが問うとアーサーは顔をしかめながら逸らし、はっきりと難色を示した。
「普段は荷車の類が通れないのと単純に険しいから避けられがちですが、かかる時間そのものは山間の道とさほど変わりません。二日で抜けられる程度です。禿山なので視界も悪くないですし通常、徒歩なら選択肢としては十分あり得る選択」
「の割には嫌そうだね」
返ってきた返答に、弱り切った顔で目を閉じるアーサー。
「……あそこ、金属ワームが出るんですよ」
「え、それが……あー、そっか」
言葉半ばで得心がいった様子で、ピエールは手を叩いた。
「普通の人なら、そこまで気にすることは無いんですけどね」
そう言って、アーサーは自分の胸元を叩く。金属と拳が服越しにぶつかり、低い音を立てた。
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土石を主食とする金属ワームにとって、金属は何より重要な食料だ。
得た金属を体内で細かく消化分解し、身体の表面に集め、彼らにとって武器でありステータスである甲殻を形作る。
強い金属による甲殻は生存に有利になり、稀少で美しい金属の甲殻ならば繁殖において有利に立つことが出来る。
その為金属ワームは独自の感覚で金属の何か、一説には匂いを嗅ぎ分け、見つけた金属の元へ土中を掘り進み向かって行くのだ。
そんな彼らにとって稀少で強い金属の塊、例えば純ミスリル製の防具などは、全てをなげうってでも手に入れたくなるあらがいがたい魔性の誘引力を発揮することだろう。
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「でもさー、実際これってそんなにあいつら呼ぶの?」
「それが分からないからこうして悩んでいるんですよ。遭遇が増える程度なのか、数匹まとめて集られるレベルなのか、それとももっと上か……程度が分からない」
「金属ワームがいる所はいつも調べて避けてたしね、アーサー」
「はああ……どうせなら一度くらいどこかで試しておくべきでした」
「そういうことなら今回貴重な体験を積む為に登ってみても……いいんじゃない?」
片方の口の端をくいっと持ち上げ、多少気障っぽい得意げな顔で呟くピエール。それを横目で見る妹の目には、猜疑の念しか宿っていない。
暫く冷たい目で姉を見つめてから、アーサーは大きく息を吐いた。
「本当ならわざわざ危険を冒す必要もありません、万全を期して引き返すのが最上の選択……ですが……ですが」
「ですが?」
聞き返された言葉に、一拍開けてから頭を抱えてアーサーはうなだれた。
「……甘いものが食べたい。舌が溶けそうなほど濃い甘味を嫌になるまで味わいたい。その辺の殆ど酸味しか無いような果物の薄い薄い甘さをありがたがったり、目玉が飛び出るような価格で販売されている砂糖菓子があっという間に捌けていくのを指をくわえて眺めてたり、呪文でずたずたにされ死にかけながらも必死で月蝕皇女の巣を制圧したのに蜜を一滴たりとも味わえないまま全部豚どもに掻っ掠われて治療と補給をしたら小遣い程度しか残らないようなはした金を報酬によこされたり、したくない」
「あれは辛かったねー、町のお偉いさん同士のごたごたに思いっきり巻き込まれちゃって」
「甘いもの食べたい、美味しいもの食べたい、でも自分から茨に足突っ込むような真似はしたくない、うううああ……」
頭を抱えたままベッドの上に寝転び、うーあー唸りながら身悶えするアーサー。
その仕草に、普段の凛とした佇まいの名残はどこにも無い。
斯くも甘味とは少女の心を狂わせるのか。
やや呆れの感情を滲ませつつも優しげな顔で、ピエールは妹の痴態を見守っていた。




