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姉妹冒険者物語  作者: 並野
王国の竜
23/181

出立者-05

 夜の宿屋の一室に、金鎚を振るう音が響く。

 ばこん、ばこん、ばこん。

 芯であるミスリルの小盾の表面に被せられた革を、金鎚を振るって鋲留めしていくアーサー。

 極めて高価なミスリルも、表面を覆ってしまえば見た目はただのありふれた革の盾だ。彼女の小脇には、表面の革を剥がされた盾の芯が転がっていた。


「あ、そーれ叩けや叩けー、鋼を叩いて姿を造れー、ほいっほいっ」


上着を脱いで髪を解き、既に就寝状態のピエールがベッドの上で楽しそうにリズムを刻んで揺れている。小さな声で歌を歌い、叩くリズムに合わせて合いの手を打つ。


「あ、そーれほいっほいっ」

「ほいっほいっ」


意外なことにアーサーも乗り気で、合いの手に返事を返しながらテンポ良く金鎚を振っていた。

 ちろちろ小さな舌を出す火の明かりに照らされながら、楽しそうに歌う二人。


「そいつを産むのはお前の拳とー」

「その鎚さーっ」

「ほいっほいー」

「ほいっほいー」


ばこん、ばこん、がんがんがん。

 ばこん、ばこん、がんがんがん。

 歌に合わせて作業は進み、あっという間に盾の鋲留めが終わる。終わって尚歌のリズムを維持し、軽やかな動きで出来上がった盾を枕元に、革を剥がした残骸と金鎚を荷物の端に。

 灯火を吹き消し、暗闇でアーサーがベッドに飛び込む音が反響した。


「……はー」


その途端勢いが急に途切れ、ため息をつく声が細長く伸びる。


「どしたの、いきなり」

「いえ、覚悟はしていましたがやはり武器の買い換えにお金がかかったなと」

「えーっと、いくらだったっけ。剣が千五百で、斧が……」

「剣千五百、斧三千四百、盾二百。計五千百。わあすごい、最初に買ったものと同じ素材の同じ大きさの武器の筈なのに一割近く値上がりしてますよ」


わざとらしい驚きの後、アーサーは再びため息をついた。


「何だっけえーっと、えっと、アルガの腸! アルガの腸が崩れたから! だったよね?」

「そうです、アルガの腸ですね。そんなやり遂げたみたいな口調しなくても、これくらい覚えてて普通ですから」

「ちゃんと覚えてたんだから素直に褒めてくれてもいいじゃん」

「はいはいよく出来ましたねー」

「適当すぎる!」


突っ込みへの返事代わりにアーサーが軽く笑い、釣られてピエールも一緒にからからと笑う。

 二人して笑った後会話が途切れ、少しの間を開けてからピエールが次の話を切り出した。


「買い物はあと何が残ってたっけ」

「衣類や包帯などの消耗品、食料、薬、巻物。使った巻物は確か冷気が三つと火炎が二つでしたよね」

「あれ、巻物買うの? なんかここだと高いって言ってたじゃん」

「高価だからといって、ストックが無いまま旅をする訳にはいきませんよ。とはいえ使った分全てを補填する必要も無いので、冷気と火炎を一巻ずつでいいでしょう」

「そっか」

「ここで買うような事態には絶対なりたくありません、って言ってた筈なんですけどねー」

「結局使っちゃったねー」


アーサーの口調は責めるようなものではなく、笑い話の雰囲気だ。

 二人分の乾いた笑い声が、再び部屋に木霊し霧散した。


「寝ましょうか」

「そうだね。おやすみアーサー」

「おやすみなさい、姉さん」


   :   :


 雲間から太陽を覗かせた、サンベロナの朝。

 どこか湿り気のある空気と、東からの冷たい風が町へと吹き付けている。


 ひんやりとした町の中央道を並んで歩く、三人の少女たち。

 左側にはピエール。にっこり笑顔で、外套の中から右手だけを出している。

 右側はアーサー。どこか投げ遣りでぶっきらぼうな態度と表情のまま、同じく外套から左手だけを伸ばす。

 その二人に挟まれた、中央にニナ。いつもの控えめなはにかみ笑顔で、左右の姉妹と両手を繋いで歩いていた。


「今日はどこに行くんですか?」

「えっとね。道具屋に行って着替えとか薬とか無くなった物を補充して、後は携帯用の保存食を買い込んで、それで終わり。だから結構時間余るよ」

「最初に道具屋、昼食を挟み昼から露店。……その後はあなたの好きにすればいい。連れて行きたい所があるならお好きにどうぞ」


アーサーの対応は前を向いたままのぞんざいなものだ。

 だが、表だって拒絶されなかったことに、ニナは顔を綻ばせた。


「行きたい所、といってもエルナお婆ちゃんの所だけですけど……でも、ありがとうございます」

「そういやお婆ちゃんとは最初に会ったきり会ってないね。どう、大丈夫? 色々と」

「北から竜が出てきた時はやっぱり気が休まらなくて大変だったみたいですけど、でも今はもう大丈夫ですよ。むしろ私の方がへこんでた期間長かったかもしれません、あはは」

「ニナは結構へこんでたもんねー」


ニナとピエールが顔を合わせて笑う中、アーサーだけが真面目な顔で前を向いていた。


「……自身の役目を立派に果たせ。その行いこそ竜神の祝福を受けるだろう。でしたっけね」


城に向かう前にアーノルから聞いた、竜神信仰の教えの言葉。

 前を向いたまま何気なく呟き、アーサーは横目をニナへ向ける。


「ええ、そうです。竜神様の言葉。だから皆、何かあった時こそ普段の自分の役目を普段通りこなすことを強く考える。エルナお婆ちゃんも、私も……」


言い掛けていたニナがアーサーの言葉の意図に気づき、その笑顔に寂しさが宿る。


「それから、お姫様も。自分の役目を、こなそうとしていたんですよね」


暫しの間、ニナは遠い目をして物思いに耽っていた。

 一言、ぽつりと呟く。


「お姫様は、一生懸命頑張っていた筈です。なのに、本物の竜神様は祝福を与えはしなかったし、姿を見せることもしなかった。……竜神様なんて、本当はいないんでしょうか」

「でしょうね」


アーサーの返事はにべも無く、冷淡に思える一言だ。

 ピエールが表情だけで反対側にいる妹を責めるが、完全に無視されている。


「そもそも、私は最初から竜神が実在するなんて思っちゃいない。ドラゴンが人間如きの一体何を気にかけるというのか。竜から見れば人間なんて小虫同然、祝福なんてわざわざ与える筈が無い。……ただし、竜神信仰の教えはまた別の話です。地に足付けて、強欲にならず、普段の生活を重視する。いいことじゃないですか。宗教なんてそれでいいんですよ。神がいなくても、教えが無意味になる訳じゃない。余計なことを考えていないで、今まで通り生きていればいい」


あくまでそっけない態度で、視線も向けずに放たれたアーサーの言葉。それは彼女にとって慰めでも労りでもない、自身の考えをただ話しただけのものだ。

 だがニナは呆気に取られてアーサーの顔を見上げた後、力強く笑い返した。


「アーサーさんっ」


感極まったニナが、アーサーに抱きつく。

 嬉しいのだ。アーサーが、真意はどうあれ慰めの言葉をかけてくれたことに。

 自分が信じ、誇りに思ってきた竜神の教えを、肯定してくれたことに。

 アーサーの腰に手を回し、胸に顔を埋めるニナ。アーサーはそれをうんざり顔で引き剥がそうとしたが、ピエールにかぶりを振って制止され、それでいてピエールまでもが心底嬉しそうな顔で見つめていたことで断念した。

 ニナが満足して手を離すまで、アーサーは終始複雑な表情でされるがままになっていた。

 人通りのある、町の往来で。


   :   :


 色鮮やかな硝子に囲まれた雑貨屋の扉を、ニナが先導してくぐる。

 後ろに続くのは、外套に身を包んだ姉妹二人。


「お婆ちゃん!」


木張りの床をリズミカルに踏み鳴らし、ニナはカウンターの前まで駆け寄った。およそ一月前に姉妹が来た時と同じ調子で、ニナとエルナが挨拶を交わす。


「おや、今日は旅人のお嬢さん二人も一緒かい。久しぶりだね」

「久しぶり」


ピエールは明るい笑顔、アーサーは軽い会釈。普段通りの挨拶を交わし、二人は奥へ進む。

 店内には他の客はおらず、彼女ら三人と店主である鷲鼻の老婆がいるのみだ。


「ニナから聞いてるよ。二人ともレールエンズに行ってきたんだってね。それも大活躍だったとか。こんなに可愛いお嬢さんなのに、人は見かけによらないねえ」


皺だらけの指で顎を撫でながら、穏やかな微笑みでエルナが言った。

 ピエールは照れ臭そうにうなじに手を回し、アーサーは細めた横目でニナを見つめる。


「ああ、詳しい話は聞いていないし、誰にも言ってないから安心しておくれ。……本当は、聞きたくてたまらないのだけどね」


 アーサーの反応で気づいたエルナが、笑顔のままニナに助け船を出した。若干冷や汗をかきかけていたニナが、安堵のため息を洩らす。


「ごめんねお婆ちゃん、本当は言ってあげたいんだけど」

「いいさ。ニナの普段の表情を見てれば、一応のけりが付いたってことは何となく分かる。詳しいことは町からの説明を待つよ」

「それで、今日は何の為に私たちをここまで連れて来たんですか?」


先ほどと変わらない横目でアーサーが問いかけ、ニナは一瞬口ごもりかけたものの一拍置いてから落ち着いて喋り始める。


「あ、あの。お二人とも、何か欲しい物は無いですか? 是非、私からプレゼントさせてください」


ニナのその言葉は、二人にとって思いもよらない内容だったらしい。ピエールだけでなくアーサーも、わずかながら驚きを露わにした。


「……どういうつもりですか?」

「いえ、その。お二人とも、明日にはここを発つんですよね? ですから、せめて何か一つ、ここに来た証を持って行って欲しいと思ったんです。竜神様の姿が入った、お守りのような物を。お金なら、持って来てますから」


ニナの言葉に二人は顔を見合わせ、それから互いに全く異なる表情を見せた。

 ピエールは当惑。そしてアーサーは笑顔だ。


「えーっと、ニナ」

「それならせっかくですし……何か買って貰いましょうか。そうですね、やはりあそこの装飾品類が私は気になります。勿論高い物でなくとも構いませんよ。例えばあの飾り台の中央にある鏡石の」

「……アーサー」


態度を一変させニナに迫り始めるアーサーを、ため息と共にピエールが制した。


「そういうのはちょっと品が無いから止めよう」

「姉さんに品が無いと言われるのは意外ですね。いいじゃないですか、せっかく買ってくれると言っていることですし」

「そんなこと言って、出来る限り高い物買わせてどこか別の所で売り払うつもりでしょ」

「そんなことありませんよ。身に着けていられる限りは身に着けます」


アーサーの返事は一切の動揺も変化も見られない真剣なもので、一見すれば本気であることは疑いようもない態度だ。

 だが、それもピエールには通じない。アーサーの後頭部を小突き、改めてニナに向き直る。


「ニナ、あのね。私たちはやっぱり冒険者だから、あんまりかさばる物とか荷物になる物は持って行けないよ。高価な物を買って貰うのも何か悪いし」

「え、で、でも、その……」

「だからさ」


一拍置いてから、ニナへと笑いかける。


「明日のお昼用にとびきりのお弁当を作って、とっておきの布で包んでくれたら嬉しいな。そうしたらお弁当は美味しく食べるし、その後の布は色んなことに使えるから大事にするよ」


ピエールの一言で、やんわりと拒否されて気落ちしていたニナの顔が、再び輝くような笑顔へと変わった。


「……は、はい! 分かりましたピエールさん! それはもうとびっきりのお弁当を作りますね! 包む為の布も、とびきりの物を選んできます!」


そのまま店の片隅、刺繍の施されたハンカチやテーブルクロスなどの布類がまとめてある箇所へと小走りで駆けて行く。

 それを見送ったカウンターの前に残るのは、姉妹と老婆。


「初めて来た時もだけど、妹さんの方はやっぱり強かだねえ。良くも悪くも」

「今回の件はどうせ姉さんには通じないと思ってましたけどね」

「もし通じたら、本当にするつもりだった訳?」

「半分半分ですね。有事に換金出来る装飾品として、苦せず服の下に身に着けていられる物を選ぶつもりでしたよ」

「アーサー、そういう人の優しさにつけ込むような真似は駄目っていつも言ってるじゃん」

「姉さんが甘々な分私がこうなだけです。逆に私がこうな分姉さんが甘々だとも言えます。何事もバランスです」

「じゃあ私がもうちょっと他人に厳しくしたらバランス取ってアーサーも他人に優しくする?」

「……さて、どうでしょうね」

「その言い方! やっぱりする気無いんじゃん! バランスとか調子いいこと言って!」


声を荒げて怒るピエールと、それを飄々といなすアーサー。

 そして、畳んで積まれている布を真剣な顔で広げては見比べているニナ。

 店内に広がる光景を眺めながら、エルナは優しい顔で満足げに微笑んでいた。


   :   :


 妖精の止まり木亭一階、ロビー。

 夕方の部屋は蝋燭を使うほど暗くも無く、窓を開けていればまだ普通に行動出来る程度の明るさだ。


 そんなロビーのテーブルを、姉妹二人とニナの計三名が囲む。既にニナが振る舞った食事を終え、机の上には木製のコップと小さな小皿が残るのみだ。


「それでは、茹でた雲陽草です」


ニナが言葉と共に出したのは、火が通り鮮やかな緑色に変わった一本の野草。離れた場所からでも、独特の香りが姉妹の鼻に届いている。

 それはレールエンズへの旅の途中アーサーが採取して使い、後に雑炊やクッキーに用いられているのを味わった森の薬草。名を、雲陽草という。

 北大陸ではありふれた草だ。


 茹でたての若干熱い雲陽草を素手で半分に千切り、ニナはピエールとアーサーの小皿へとそれぞれ乗せた。軽く塩を振ってから、二人に差し出す。


「それじゃ……」


ピエールは一言、アーサーは無言で目の前の薬草へと手を伸ばした。くたくたになったそれを軽く指先で丸め、一口に口内へと運ぶ。


「うえっ、やっぱ苦い」


口に入れた途端顔をしかめ、眉間に皺を寄せながらも咀嚼し終えてから正直にピエールが言った。

 隣のアーサーは平然としているが、やはりピエールの言葉に異論は無いようだ。


「そうですね。雲陽草は生のままや、普通に火を通しただけだと、どうしても苦くなってしまうんです。念入りに灰汁を取ったり何かに漬けても、やっぱり取れない」

「それで、どうすれば苦みを消せるんですか?」

「それはですね、えっと」


頷いたニナが立ち上がり、カウンターの上に置いてある籠から生の雲陽草を先ほどと同じ量掴んで戻ってきた。

 自身の前にあるコップを脇に除け、小皿の上に乗せる。


「雲陽草の下処理で大事なのは、灰汁取りでも添加でも無くて、一瞬で均一に火を通すことなんです。……見ててください」


目の前の薬草に両手をかざし、ニナは目を閉じてむにゃむにゃと呪文の詠唱を行った。

 白い魔力の光が煌めき、かざした手の先、雲陽草の置かれた場所から熱気が発生する。

 熱が放たれたのは一瞬の間だけ。

 薬草の全体を均等に加熱し、すぐに熱気は消滅した。

 出来上がったのは表面が乾燥して茎に亀裂を走らせ、湯気を立ち上らせる雲陽草。

 先ほどの茹でたもの以上の香ばしさを伴う素晴らしい匂いが、湯気と共に溢れ出ている。


「これでおしまいです」


再び千切って塩を振り、二人の小皿に。

 差し出された雲陽草を齧ったピエールは、目を見開いて驚きを露わにした。


「あ、全然違う。一応普段の使い方は香り付けだよね、これ。なのにそのままいけちゃう」


横のアーサーも、同じ意見のようだ。しゃきしゃきと歯ごたえのある茎を、感心した顔で咀嚼している。


「こうやって、呪文による熱で内部から一気に熱すると、苦みが消えて美味しくなるんです。何故か少しでも熱の通り方にばらつきが出ると、全体に苦みが残ってしまう。逆に、こうして全部飛ばしてしまうと、もう何をしても苦みは戻らない」

「ほー、なるほどなあ」

「というか、あなた呪文使えたんですね」

「は、はい。料理に使う熱や冷気と、飲み水を作る呪文を、少し使えるだけですけど……」

「いやいやそれでも十分凄いよ、詠唱だけで使えてるし。アーサーも補助板いる上に大したこと出来ないからね。治癒と、ちょっぴりの飲み水と、火付けと、あと……」

「何一つ出来ない姉さんが何を偉そうに言ってるんですか」


ぺこん。

 隣に座る姉の頭を、前を向いたまま軽く叩くアーサー。

 ピエールは叩かれた頭を押さえながらも軽く笑い、残っていた雲陽草の半分を口に放り込んだ。


「んー、それにしても確かに食べれる味。苦いまま食べさせられてたのが馬鹿みたいだ」

「一応、苦みが残ったままのものを、珍味として好んで食べる人も、います。ただ」

「私は苦いままの方も嫌いではありませんけどね。それに良薬口に苦しですよ」


言い掛けていたニナに被さったアーサーの発言で、ニナは続けるのを中断し目を逸らした。

 その反応に、ピエールが目聡く食いつく。


「……ただ、何?」

「え、いや、その……」


動揺しているニナは目を泳がせながらも、瞬間瞬間でちらちらと視線をアーサーへ向けている。

 それに気付き目を細めてニナを見つめるアーサーと、逆に楽しそうにニナへ迫るピエール。


「いいじゃん言っちゃいなよ、大丈夫だって私もいるし」


身を乗り出したピエールに肩を揺すられ、観念したニナは躊躇いがちに口を開いた。


「……苦いままの、雲陽草を、好むのは……、料理下手の、苦しい言い訳……。良薬口に苦しは、今はもう時代遅れ……」


言い終えた瞬間。アーサーの動きが凍り付いたように急停止し、その顔から一切の表情が消え失せた。

 横では、ピエールが口元を押さえて笑いを堪えている。


「ご、ごめんなさい、ただ、町では、そういう言い回しがあるって、だけで、その、あの」

「いえ、別に、怒ってなんていませんが……? ただ私は両方食べられるというだけで、何も」

「……ぷーっ、あはははは! 下手の言い訳! その通りじゃんアーサー! アーサー料理だけは下手だもんねー! あははは!」


辛うじて怒りを堪えていたアーサーの隣で、我慢の限界を迎えていたピエールが無慈悲に爆笑した。目を見開き、アーサーの顔を見ながら無邪気な大声で笑い続けている。

 表情を失ったまま微動だにしないアーサー。

 そのこめかみに、突如青筋が浮かんだのをニナだけがはっきりと捉えた。

 音を立てず立ち上がり、隣にいる姉へと歩み寄る。

 あくまで、無表情のまま。アーサーが高速で振るった右手が、ピエールの頬を力強く張る。


「いでっ、図星だからってそんな怒んなくても、あははべぶっ、え、ちょっ、そんな本気で、待って、待ってアーサー、確かに笑い過ぎた、私が悪かった、お姉ちゃんが悪かったから!」


表情一つ変えずに怒りを露わにし、姉へと襲いかかる妹。

 姉は最初は冗談めかして笑っていたものの、妹が本気だと知って次第に対応が変化していく。

 それでも、妹の怒りは収まらない。

 結局アーサーの怒りが収まるまでの間、ピエールは辛うじて防御しながらもされるがままだった。


   :   :


「……少し怒り過ぎました。すみません」

「いや、大丈夫。アーサーが許してくれてなにより」

「後で、ちゃんと治しますから」

「うん。こっちこそごめんね」


神妙な顔で椅子に座るピエールの頬は、叩かれたことで数カ所ほんのり赤く腫れている。

 隣のアーサーも、反省し気落ちした表情だ。

 カウンターの奥、台所から戻ってきたニナが努めて明るい笑顔で呼びかけた。


「お待たせ、しました」


戻ってきたニナの手には木製のトレイと、それに乗る四つのコップ。どれも小さめだ。

 机の上にトレイを置き、その中のコップ二つをそれぞれ姉妹の前へと並べる。


「モスピの実の、ジュースです。まずは生搾り」

「おっ、ありがと」


木製のコップの中に満たされているのは、殆ど黒に近い赤味を帯びた液体だ。所々に果実の皮と思しき破片が浮き、少しどろりとしている。

 まずアーサーがコップを手に取り、鼻を近付けて匂いだけを確かめた。


「姉さん、これ恐らく相当酸味がきつ……」


予想通りの匂いに、注意を呼びかけようとしたのも束の間。

 アーサーが目を向けた時には、既にピエールはコップの中身を勢い良く呷っていた。

 一瞬の間を置き、ピエールの目がかつてない大きさに見開かれる。即座にコップから口を離したが、流石に吐く訳にもいかず口元を手で押さえたまま目だけ悲痛な表情で全身を激しく揺すった。

 暫し間を開けて、何とか口の中身を嚥下し終える。


「……酸っぱいよこれ! いじめか!」

「いきなり沢山飲むからですよ、ほら口元」


アーサーが懐からハンカチを取り出して、ピエールの口の端、まるで吐血のように思えるモスピの果汁を拭った。


「す、すみませんピエールさん。もっと早く言うべきでした」

「いや大丈夫、今のは私が早まったのが悪かった。しかしこれ、こんなに酸っぱいんだね。興味本位でそのままも試したい、なんて言い出すんじゃなかったよ」

「え、ええ。中には甘い実もありますけど、殆どはこれくらい酸っぱいです。ですから、基本的にこのまま食べることはありません。ソースにしたり、何かで割るのが普通です」


申し訳なさそうに語るニナの横で、アーサーが慎重に一口、コップの中身を口に含んだ。

 ワインを味わうかのようにもごもごと口内で転がし、平然と嚥下。特に酸味に顔をしかめるでもなく、簡単に残りを全て飲み干していく。


「やはりきつい。が、思ったよりいけますね。……姉さん、残してる分貰いますよ?」


戸惑いながらもピエールが頷くやいなや、やはり表情一つ変えず酸味の塊を飲み干すアーサー。特に強がっているという風でも無く、本気で好みらしい顔だ。

 その光景を、ピエールだけでなくニナまでもが驚きの顔で見つめていた。


「……アーサー、味覚大丈夫?」

「何ですか藪から棒に、失礼ですね」

「い、いやでも、凄いです、アーサーさん」

「一応言っておきますが、別に酸味が気にならないって訳じゃありませんからね。ほら、早く次を出してください」


アーサーに急かされ、ニナはトレイに残る二つのコップを空のものと入れ替えるように並べた。

 中身の見た目は概ね同じだが、若干濃さが薄まっている。先ほどのとろみのある液体ではない、水と同じくらいさらりとしたものだ。


「これが普通に、お店で出したりする形です。水で薄めて、砂糖と、あと塩をちょっぴり、混ぜてあります。水との割合は、モスピ三割くらい、でしょうか」

「あ、半々じゃないんだ。やっぱりそれでも酸っぱいってことかなー」


今度は慎重に、匂いを嗅いでから少量口に含むピエール。

 口の中で味わってから飲み干し、目を見開いて驚きの笑みを見せた。


「おいしい! なんだろこれ、舌がぴっとして凄いさわやかな感じ。さっきの酸っぱさが何か別の物に変化したみたい」

「……本当に美味しいですね。姉さんの言う通り、酸味が残っていない。塩で中和でもされてるのでしょうか」


同じく隣で飲んでいたアーサーも予想外の味に心奪われ、驚いた顔でコップの中で揺れる液体を眺めていた。


「何でも、モスピの実の酸っぱさは、林檎とかとは違う独特のもの、らしいです。塩を振ると、完全な別物になる」

「ほー……これは感動だね」

「全くです。どうせその辺の木苺の類と同じだろうと思っていましたが、意外でした」

「この町の物を知って喜んで貰えて、私も嬉しいです」


両手を胸の前で小さく折り畳んだ格好で、控えめながら喜び微笑むニナ。

 ピエールも嬉しそうに笑い返し、アーサーも澄まし顔ながらどことなく上機嫌だ。


 二人はちびりちびりと惜しむようにモスピジュースを味わい、時間をかけてコップを空にした。

 コップを机に置いたアーサーが、窓から洩れる暮れかかった夕日の光を視界に収める。

 もうじき夜も暮れ、今日という日は終わりを迎えるだろう。


「……さて。もういい時間ですし、明かりが必要になる前に部屋に戻りましょうか」

「そだね」


ピエールも頷き、二人揃って椅子から立ち上がった。

 それからふと目を向けると、そこにあったのは当惑と寂しさで呆気に取られたニナの顔。

 一瞬の間を開けてから、縋るように二人へ詰め寄った。


「……あ、あの、まだ何か、食べたい物とか、ありませんか? それか、この町の、お話とか。まだ、もう少しだけ……」


ニナはすぐに笑顔を取り繕ったものの、無理をしているのかあからさまにぎこちない。

 その食い下がり様は、夜も更けて尚遊びたがる子供のようだ。

 一日が終わってしまうのが惜しい。

 まだまだ、今日を楽しんでいたい。

 明日が来て欲しくない。

 そういう名残惜しさと物足りなさが、長い前髪の奥の瞳に確かに透けて見えるようだった。

 アーサーが窘めようとするのを制し、ピエールがニナの前に立つ。


「ニナ、もう寝る時間だよ」


あくまで口調は優しく、言い聞かせるような声音でピエールが囁く。


「で、でも」

「明日は私たちの朝ご飯作って、それからお弁当も作るんでしょ? 早く寝て早く起きないと。とびっきりのお弁当、期待してるんだから」

「ううう、でも、ピエールさぁん……」

「ニナも泣き虫だねー。ほら泣かない、にっこり笑って、にっこり」


既に半泣きのニナの頭へ手を伸ばし、ピエールは優しく撫でさすった。

 暫くゆっくりと撫で続け、落ち着くのを待ってから手を離す。


「大丈夫?」

「……も、もう大丈夫、です、我が儘言って、ごめん、なさい」

「いいよ、謝る必要なんてないない。じゃ、おやすみ。ニナ」

「はい、おやすみなさい、ピエールさん、アーサーさん」

「うん。また明日ね」


ピエールとニナ、最後はにっこり笑い合って。

 それから二人はニナと別れ、二階へと上がって行った。


   :   :


 夕暮れの光の中、二人は言葉少なに、黙々と荷物の確認と詰め直しをしている。

 毛布。衣類。櫛や裁縫用具などの小物。巻物と薬品類。食料。

 その他いくつかの道具がしっかり揃っていることを確認してから、旅路で使いやすい、咄嗟に必要になる物を取り出しやすくなるよう効率の良い詰め方で背嚢やベルトポーチ、懐と適宜分けつつ荷物を詰めていく二人。

 アーサーは元よりピエールも、迷うこと無く次々と作業をこなしていた。その格好は既に寝る前のものだ。


 やがて詰め直しの作業も終わり、口を結んだ背嚢が二つ並んで部屋の隅に置かれた。

 ピエールがベッドの上に戻ったのを見てから、アーサーは部屋の窓を一つずつ閉めていく。

 窓が一つ閉まるごとに、小綺麗に畳まれた明日の着替え、ベッド脇に立てかけられた鞘と枕元の盾、先ほど交換したてのシーツ、ベッドの上に丸まるピエールが、段階的に暗闇に飲まれていった。

 最後の一つを閉めてから、アーサーも感覚を頼りにベッドに戻る。


「はあ……」


闇の中で発された、いかにも憂鬱そうな一つの長いため息。

 そのため息の主は、意外なことにピエールだ。


「明日でこの町ともお別れか……」

「そうですね」


しみじみ呟かれた姉の言葉に、アーサーが一言短く同調する。

 彼女の口調も、どこか感慨の情が感じられるものだ。

 尤も、言葉の源にある感情はそれぞれ全く異なるものだが。


「やっぱり、最後の夜はいつも複雑な気分になるよ。こういうの何て言うんだったかな、寂しい感、みたいなやつ」

「寂寥感、ですか?」

「そうそうそれ、せきりょーかん。……この慣れ親しんだ部屋も、一階で食べる紅麦の粥のぷちぷちも、町の整った石畳を踏む感覚も、鳩麦堂のくるくる回る風見鶏も、ハンスの皺の奥の鋭い瞳も、仲良しなおっちゃん二人組も、ニナのもじもじ笑顔も。明日にはお別れ」

「姉さんはたまにそんな風になりますね。……寂しいですか?」

「そりゃあね、ここはいい町だったし、いい人も沢山いたし。そういうアーサーはどう? 今回は寂しいとか思ったりしない?」

「全く思いませんね」

「……アーサーはいつもそうだなー」


ピエールの間延びした投げ遣りな返事の後、暗闇の中の会話は一瞬途切れた。

 ややあってから、再びピエールが口を開く。


「……この町、これからどうなっていくんだろ」

「きっと何も変わりませんよ。町長たちが今回の件の適切な説明を行い、レールエンズの遺物を回収し、ことが済めば普段の生活に戻る。それだけです」

「そうかなー……」

「そうですよ。さ、もう寝ましょう。明日からはまた歩き詰めですよ」

「うん。おやすみアーサー」

「おやすみなさい、姉さん」

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