27 その後
ピエールはゆっくりと目を覚ました。
ぼんやりした頭が半死半生のような状態で覚醒し、真っ暗な視界の隅で酷くぼやけた薄明かりが滲んでいることに気づく。
自分が柔らかい布地の、ベッドか何かの上にいることは分かる。
全身、至る所で痛みが走り、寝返りすらろくにうてない状況であることも分かる。
自分の右手に、確かなぬくもりがあることも分かる。
「ん゛……」
掠れた喉を震わせると、右手のぬくもりがびくりと震えて動いた。
自身の傍らに寄り添う気配が動いたのが分かった。
しかし視界には反映されない。
「姉さん、起きましたか? 意識ははっきりしていますか?」
「ぁ゛……ぁ゛」
「大丈夫です、落ち着いて」
声はまともに出ないし視界ははっきりしないし身体も痛くてまともに動かない。
唯一妹の声と右手のぬくもりだけが明瞭に感じられた。
「姉さん、私の言葉は理解出来ていますか? 出来ているなら右の親指に二回力を込めて」
右手のぬくもりに二回力を込めると、何かが優しく右の手のひらをなぞった。
「良かった……」
感極まった言葉の後に、右手に何か暖かくてつるつるしたものがすり付けられる。
感触だけで恐らくアーサーの頬か額だろう、と分かった。
「今は姉さんが獅子頭を倒して気絶した日の深夜です。姉さんは怪我の手当を受けている最中で、完治するまでこの町の神官が責任を持って回復呪文で手当を行うので心配ありません。……姉さんの怪我の内容ですが」
一拍置いてから、アーサーは姉の症状を列挙し始めた。
両目の眼窩底骨折。特にロッテに爆破された右側が重傷で、頬骨骨折と眼球破裂も伴う。
両耳の鼓膜穿孔。
右前腕の骨折。豪傑熊を殴り返した時の箇所が獅子頭との戦闘で再度骨折。
回復の薬を使わず焼いて止めた左手と右顔面の重症化。傷跡は既に膿み、浸出液が滲んでいる。
手足の骨のヒビ。獅子頭を殴り、蹴りつけるのに何度も使った手足は無数のヒビが入り、あと少しで粉砕骨折、という状態まで損傷している。
その他、全身の外傷と失血。頬は爪で抉られ、腕は皮膚を削がれ、足には自ら削いだ大きな傷跡。
「紛うことなき死にかけの重傷者です。特に右目が深刻で、潰れた上から焼き止めてろくな手当も出来ていなかったので摘出されました。今の姉さんの右目は空っぽですし、左目も包帯が巻かれているので暫くまともには見えないでしょう。……ただし、姉さんは町を救った英雄なので費用に糸目を付けず再生回復も施して貰えます。治療に関しては心配しないでください」
了解、の意を込めてピエールは親指に二回力を込める。
「姉さんが気絶した直後から町の総力を挙げて回復呪文が施されたので、致命傷はおおよそ治ってはいる筈です。治っていないのは再生待ちの右目と、致命的でない全身の外傷。……まだ痛みますか?」
二回力を込めると、ピエールの右手からぬくもりが離れた。
闇の中に一人取り残されたような感覚。
しかしピエールは狼狽えることもなく、ゆっくりと待つ。
「痛み止めの薬を預かっています。丸薬なので飲み込む必要がありますが……喉はどうですか? 怪我はしていない筈ですが……」
「が、ぁ゛、ぃ゛だ」
掠れた声で辛うじて言葉を紡いだピエール。
何と言っているのかとても理解出来そうにない声だったが、問題無く察したアーサーは少しの間を開けてからゆっくりとピエールの上半身を抱え起こした。
「無理矢理起こされて痛むかもしれませんが、堪えてください……」
抱え起こされたピエールの口元に、コップの縁が当てられる。
ゆっくり、ゆっくりとコップが傾けられ、冷めたぬるい茶がピエールの喉を滑り降りた。
乾いてがさがさだった少女の喉が、潤いを取り戻していく。
「……ん゛ぁ」
「大丈夫ですか?」
「だいじょうぶ、ありがとね、アーサー」
まともに声が出なかったのは、単に喉が涸れていたかららしい。
喉を潤して落ち着いたピエールは、まだ万全ではないが会話も出来るようだ。
「め、とれちゃったんだ」
「はい。でも心配しないで、ちゃんと治して貰えますから。治せないなんてほざいたらあの神官の目玉も同じように引き抜いてきます」
「こわいこわい、おちついて……」
アーサーの過激な物言いに突っ込みつつ、冗談だと分かっているピエールは口元を綻ばせた。
こうして妹と再び気安い会話が出来ることが、何よりも嬉しい。
「痛み止め、飲みますか?」
「のもうかな、いたい」
「分かりました、では口を開けてください。舌に乗せますから、そのまま飲んで」
言われた通り口を緩く開き、丸薬を受け入れる姿勢を取るピエール。
舌の上にころん、と丸薬が乗せられ、その苦さに思わず眉をしかめようとして、不用意に目元に力がかかり右目が痛んだ。
「っ……」
「姉さんっ」
丸薬が落ちないよう口こそ閉じたものの、右目の痛みに反応して反射的に右手で右目を押さえようとして右腕まで痛んだ。
連鎖的に身体の各所に力がかかって痛み、無言で悶えるピエール。
「大丈夫ですか、どこか特別に痛むところはありませんか?」
「……は、はいじょ、う」
なんとかそれだけ返しつつ、何よりもまずピエールは丸薬を飲み下した。
口内から苦味の元凶が無くなり、ほっと一息。
「くすり、にがい」
「ごめんなさい姉さん、薬の味までは気づかなくて」
「いいよ、だいじょぶ。……おちゃ、ちょーだい」
「はい」
先ほどと同じように茶を含み、苦味を洗って喉奥へ流し込む。
「暫くすれば効果が出る筈です」
「ありがと……ねかせて」
アーサーは、再びゆっくりとピエールを寝かせた。
仰向けになったピエールが、口をもごもごする。
「おなか、へった」
「何か軽食をつまみますか? 用意してきます」
「いい、いいよ、いまはいい、よなかでしょ」
無意識に呟いた言葉に敏感に反応したアーサーを慌てて制し、ピエールはからからと笑おうとして、かはかはと涸れた音が出た。
「いまは、まだねる……アーサーも、ねなよ」
「私は大丈夫です、姉さんを看てますから」
「もう、だいじょぶ、だってば」
「そういう訳にはいきません、ある程度治ったとはいえ姉さんが重傷であることに変わりはありませんから」
「もー……」
これは絶対に一晩中寝ない気だな、と察したピエール。
少しの思案ののちに一つ思いつき、笑う代わりに右手の指をぴくぴく動かした。
「いっしょに、ねよ」
「いえ、ですから私は」
「さむい、となりで、ねて」
「……姉さん」
ピエールの言葉が、ただ自身を床に誘い、そのまま寝かしつける為のものだとアーサーは気づいている。
しかし彼女は暫しの逡巡の末、姉の言葉に従うことにした。
もぞもぞと上着や靴を脱ぎ、ベッドの上、ピエールの隣へそっと潜り込む。
姉の怪我を刺激しないように慎重に。
「……寝ませんけどね」
「ねても、いいよ。ねよ?」
「寝ません」
「ほんとお?」
「本当」
アーサーの口調はぶっきらぼうだったが、実際には心から楽しんでいるのは明らかだった。
ピエールも笑うことこそ出来ないものの穏やかな雰囲気で口元だけを小さく歪める。
「……では、おやすみなさい、姉さん」
「うん」
それきり会話は途切れた。
アーサーは先ほどの宣言通り本当に一睡もすることなく、ただ姉の頭や身体を優しく撫でていた。
一晩中、そうして姉を見守っていた。
: :
翌朝。
早朝から姉妹の元を訪れた神教の神官によって更に回復呪文が施され、焼き止めた二カ所の化膿と手足のヒビが回復した。
まだまだ両目の包帯を初め手当が必要な箇所や痛みが残っているものの、カリシクの町も獅子頭の襲撃によって大量の怪我人が発生している。
その為ピエールにばかり回復呪文の為の魔力を集中させる訳にも行かない。
アーサーは心底不満げだったが、当のピエール本人が後遺症さえ出ず治して貰えるなら後回しでよい、と主張した為神官は町の怪我人の手当に向かった。
そうして早朝からの来客も済み、一段落ついた頃。
未だ両目に包帯を巻きベッドに横たわるピエールの元へ、食事の器を持ったアーサーが戻ってきた。
「姉さん、食事ですよ」
「わーい、やった。内容は?」
「ただの粥ですね。大鍋に刻んだ材料を入れて煮ただけの、町の広場で行っていた炊き出しです」
「それでもまともな食事じゃん、はーやった、最高。具は?」
「ええと……麦と、芋と、人参と……何かの肉ですね。白いので偶蹄ではなさそうですが」
「ふーん。まあ何でもいいや、ちょーだい」
「分かりました、少し待ってくださいね……」
アーサーは側にある机に粥の器を置いてから、ピエールの背中に手を差し入れ慎重に起こした。
両目が隠れた状態のピエールが、口元だけでも分かるほどにへにへ笑っている。
「ところで姉さん、噛めます?」
「んー? 多分噛めるよ。顎はそこまで痛くないし」
「分かりました。では……どうぞ」
「んあー」
雛鳥のように大口を開けた姉の口へと、匙で掬った粥を運ぶアーサー。
待望のまともな食事を、ピエールは夢中になって咀嚼して楽しむ。
とろとろになるまで煮込まれた麦粒。
舌で押すだけで潰れそうなほど柔らかく、ほのかな甘みのある芋。
同じく柔らかく、少し青臭いものの、森で採取して食べた野草と比べれば何百、何千倍も美味しい、人の食べる物だという味がする人参。
適度な塩気に加え、何か動物の骨で取ったと思しき下味。
これは人の食べるものだ。
人が食べていい、しっかりと手間がかかった"料理"だ。
「はああ……」
一匙分の粥を嚥下し終えたピエールは心の底から感動のため息を吐いた。
人類としてのまともな、文化的な料理を、何の緊張も警戒もいらない落ち着いた環境でゆっくりと食べることが出来る。
それは単なる食事ではなく、頼るもののない自然の世界から人類の生活圏へと戻ってこれたのだ、という実感の籠もった一口だ。
ピエールの目がもし健在なら、涙すら流していたかもしれない。
それほどの感動であった。
ピエールは何の言葉も無く、ほう、と息を吐き、続けて口を開けて二口目を要求した。
アーサーも何も言わずそれに応える。
二口目を含み、一噛みしようとして。
「……っ!」
鋭い痛みがピエールの歯に走った。
「姉さん、大丈夫ですか!」
一瞬の全身の強張りでそれを察したアーサーが腰を浮かせかける中、ピエールは口を閉じたまま小刻みに頷くことで妹を制止した。
暫し口をもごもごさせ、慎重に飲み込んでから口を開く。
「……肉、噛んだら歯にびりっときた」
「大丈夫ですか? 今も痛みますか? 痛みの度合いは深刻ですか?」
「落ち着いて、だいじょぶ、大丈夫だから」
血相を変える妹をなんとか押し留めつつ、自身の口の感覚を慎重に探るピエール。
原因は上の奥歯だ。
戦闘で食いしばり過ぎたのか左右の奥歯とその根本の歯茎に何かが起きているらしく、物を少し強めに噛むと鋭く痛む。
一口目の麦、芋、人参はどれも柔らかかった為問題は無かったが、肉がやや固く、普段なら噛める固さでも鋭い痛みをもたらしていた。
「という訳で、肉はちょっと避けて……」
「分かりました。これは思わぬ災難でしたね」
「うん、まあ、久しぶりのまともなお肉が食べられそうでワクワクしてたから残念だけど……しょうがないし」
「……代わりに噛んであげましょうか? 私がして貰ったように」
「それだと口に入ったあと飲み込むだけだから食べる楽しみ全然無いじゃん……なんにも嬉しくない」
「なら仕方ありませんね。この肉は全て私が味わうことにします」
「……」
わざとらしいアーサーの軽口に、ピエールは歯を剥き出しにしてぐるる……と威嚇した。
しかし対面の妹に効果は無く、肉の乗っていない匙を差し出されるとすぐに唸るのを止めて食いついた。
奥歯を庇いつつもむもむと粥を咀嚼すると、すぐに気の抜けた緩い雰囲気に戻る。
怪我の影響こそ出ているものの、平和に朝食を続ける二人。
何はともあれ、ようやく人の営みの中で、まともな食事にありつけたのだった。




